2009年2月アーカイブ

当サイトでは、日本各地の城郭を紹介しています。しかし、紹介する城郭がどうしても活動拠点である群馬県・長野県に偏りがちになってしまうため、「上信」古城探訪を名乗っています。たとえ韓国にある倭城を紹介し始めたとしても、現在のところはこの名を変更する予定はありません。

古城訪問における注意事項

古城の訪問では、以下のことに注意してください。

  • 山城は攻めるに難く守るに易い地形の場所に築かれています。急斜面、崖など危険な場所が多くあります(当局では一度、山城の訪問中に転倒し、崖に落ちそうになったことがあります)。それなりの装備で訪問しましょう(決して、ミニスカートにハイヒールなどという格好で行かないように)。
  • 山城の多くは、現在では木々に埋もれてしまっています。そのようなところでは、野生動物に出くわすことも珍しくありませんが、餌を与えることはやめましょう(人の手から餌をもらうことを覚えた野生動物は、餌を求めて人里へ降りていき、有害鳥獣として地域経済に打撃を与える可能性があります)。
  • 山城で出くわす野生動物の中には、ツキノワグマ、ヒグマ、野犬、イノシシ、マムシ、ヤマカガシ、ハブ、スズメバチなどもいます。
  • 野山の花は野山におきましょう。
  • ごみは持ち帰りましょう。
  • 古城の多くは私有地である場合もあります。
  • 古城訪問の際は、周辺住民の不安をあおったり迷惑になるような行為は慎みましょう。

当サイト利用における注意事項

  • 当サイトの情報を基に古城訪問をして事故・損害に遭ったとしても、当局は一切責任を負いません。

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日本における城の始まりは、柵や濠をめぐらした弥生時代の環濠集落が最初であるといわれています(吉野ヶ里遺跡など)。文献において城が登場するのは、664年に天智天皇が築いた水城が最初で、この時代に九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて多数築かれました。また、蝦夷との抗争が絶えない東北地方では、7世紀から9世紀にかけて多賀城のような政庁と軍事拠点を兼ね備えた城が築かれました。

戦国時代になると、天然の要害を利用して防御拠点とする山城が発達し、主に戦闘用として用いられました。戦国時代も中ごろになり、大名の支配地域が広大なものとなってくると、領地経営の必要性から、防御に優れるものの政庁としては不向きであった山城は徐々に数を減らし、平地に臨む丘陵や平地に城を築くことが主流になっていきます。戦国時代も終わりに近づくと、石垣、櫓、天守、枡形、城門など、現在我々が抱くイメージそのものの城が登場します。これらの城は主に織田信長と豊臣秀吉配下の諸大名によって築かれました。

江戸時代になると、一国一城の令により、原則一大名につき一城を残して多くの城が破却され、それまで約3000あった城郭は約170まで数を減らします。これにより家臣団や領民の城下への集住が進んで城下町が形成されていき、城は軍事施設としてよりも、政庁、大名の権威誇示、地域のシンボルとしての意味合いが強くなっていきました。幕末には外国船の対策として台場や砲台が建造され、五稜郭のような稜堡式城郭も建造されました。

明治時代になると、各地の城は廃城令により廃城となり、城跡には役所が置かれたり、公園や寺社が建てられたり、陸軍が駐屯したりしました。陸軍が駐屯した城は、太平洋戦争において攻撃目標となり、その多くが空襲によって焼失しました。

戦後、各地の城跡において観光を目的に天守の再建工事が多く行われるようになりましたが、元々天守のない城に模擬天守を築き、元の遺構を破壊する例も多く見受けられたため、現在では文化庁などの方針で、図面や絵画、写真などの資料がなければ天守の再建をすることはできなくなっています。

江戸時代の軍学者は、地勢によって城を山城、平山城、平城の3つに分類しました。しかし、これらの区別は明確ではなく、例えば姫路城は、平山城に分類する人もいれば、平城に分類する人もいます。

山城

戸石城 険阻な山を自然の要害として利用した城で、戦国時代初期に多く築かれました。防御に優れる反面、生活するには不便であるため、平時は山のふもとの集落(根小屋)で生活し、敵が来襲すると山の上の城に立て籠もるといった使い方がされました。平地のない山の上の城という性質上、平城、平山城に比べてその規模は小さくなりますが、都市化の波を逃れて城域全体の移行が残りやすい傾向にあります。

主な山城として、岐阜城、小谷城、八王子城戸石城岩櫃城があります。

(写真は戸石城

平山城

二本松城平野の中の小高い山や丘の上に築かれた城で、戦国時代終盤に多く築かれました。戦時のみに使われる山城とは違い、領地経営の拠点としての機能を備えています。その城域は山上のみならず、麓にまで広がる広大なものとなる傾向にあります。
平山城と平城の区別は明確になっておらず、姫路城、江戸城は平山城にも平城にも分類されています。

主な平山城として、安土城、仙台城熊本城、松山城、二本松城などがあります。

(写真は、二本松城

平城

松本城

平地に築かれた城です。山城の全盛期に周辺にどうしても適当な山がないため仕方なく平地に城を築いて河川を防衛ラインとして利用した城と、織豊時代以降に政治の中枢として築かれた城があります。平野部に築城することで広大な城郭になる傾向があります。

主な平城として、大坂城名古屋城、駿府城、二条城、広島城などがあります。

(写真は松本城

水城

平城の一種で、海岸、湖岸、沼地、河口などに築かれ、水域を天然の水堀として利用した城です。水に浮いているように見えることから、浮城とも呼ばれます。海辺に築かれたものは海城とも呼ばれます。

主な水城として、高松城、今治城、中津城、高島城、膳所城などがあります。

グスク

今帰仁城

琉球王国の領域であった奄美諸島から八重山諸島にかけての地域で多数築かれた城です。単に軍事施設としてだけではなく、聖域としての機能も持っていたと考えられています。カーブを描く石垣や土塁が大きな特徴です。

主なグスクとして、首里城今帰仁城座喜味城、勝連城、中城城などがあります。

(写真は、今帰仁城

倭城

文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)の折、日本軍によって朝鮮半島南部に30ほど築かれた城です。倭城という呼び方は、元々朝鮮半島で使われていたものです。港を城内に取り込んだ構造や、麓から山頂へ続く登り石垣が大きな特徴です。

主な倭城として、蔚山倭城、西生浦倭城、機張倭城、熊川倭城、順天倭城などがあります。

くるわ

堀や石垣、土塁などで囲まれた区画のことをいい、郭とも曲輪とも書きます。城はいくつもの曲輪を連ねることで成り立っています。江戸時代以降は丸ともいわれるようになります。

二条城敵の侵入を防ぐために曲輪の周囲を掘り下げたところをいいます。水を湛えたものを濠、水のない空堀を壕と区別することもあります。大規模な空堀は、曲輪として利用されることもあります。

(写真は二条城

土塁・石垣

前橋城土を盛って曲輪を囲んだものを土塁といいます。土塁の上には柵や塀が設けられました。重い櫓や塀を築く際には土塁では強度が足りなくなることから、土塁の表面を石積みで強化した石垣が造られました。

(写真は前橋城

虎口

会津若松城城や曲輪の出入口をいいます。大抵は直線的な配置を避け、直角に曲げた構造となっています。城の正面虎口を大手または追手、裏面虎口を搦手と呼びます。

(写真は会津若松城

上田城弓矢や鉄砲などで応戦する施設で、矢倉とも書きます。門の上や土塁・石垣上に築かれました。

(写真は上田城

天守

会津若松城城の最終防衛拠点であると同時に、城の象徴でもある施設で、櫓から発展したものと考えられています。織豊時代に多数の天守が築かれましたが、江戸時代になると、幕府への遠慮や財政難から、天守の建造や再建は行われなくなっていきました。

(写真は会津若松城

現在見ることのできる天守は、次の4つに分けられます。

現存天守

江戸期以前から存在している天守で、日本国内に12城あります。そのうち4城が国宝で、うち姫路城は世界遺産に登録されています。現存12天守は次のとおりです。

  • 弘前城
  • 松本城(国宝)
  • 丸岡城
  • 犬山城(国宝)
  • 彦根城(国宝)
  • 姫路城(国宝、世界遺産)
  • 松江城
  • 備中松山城
  • 丸亀城
  • 松山城
  • 宇和島城
  • 高知城

復元天守

一度は焼失した天守を、少なくとも外観だけは往時のとおりに復元したものです。当時の図面などを基に内部まで詳細に復元したものと、鉄筋コンクリートを用いて外観だけ往時のとおりに復元したものがあります。

主な復元天守として、会津若松城名古屋城熊本城、広島城、大洲城などがあります。

復興天守

一度は焼失した天守を再建したものですが、あえて史実に基づかなかったり、資料不足のため規模や構造に推定の部分があるものをいいます。

主な復興天守として、大坂城、岐阜城、岸和田城、掛川城などがあります。

模擬天守

天守がなかった城や、あったかどうか不明な城に建てられたものをいいます。天守はあったが往時とは別の場所に建てられたものも含まれます。模擬天守建設により元の遺構を破壊してしまう事例が多く見受けられたため、現在では資料に基づかない天守の再建は認められていません。

主な模擬天守として、伏見城、墨俣城、富山城、洲本城、清洲城などがあります。

  • 読み:いしくらじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県前橋市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長尾氏、内藤氏、寺尾氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成19年6月9日

文明17年(1485)に上野国守護代長尾忠房の嫡子憲景が築城したのが始まりとされています。
永禄6年(1563)、上州へ勢力を伸ばす武田信玄が城主長尾長景不在の隙にこの城を乗っ取り、利根川対岸の前橋城攻略の拠点とします。永禄8年(1565)には上杉謙信によって奪還されますが、翌永禄9年に再び奪い返し、内藤政豊に城を任せます。その後、長篠の合戦で政豊が討ち死にすると、後を継いだ息子の外記は北条氏に降り、寺尾左馬助が石倉城に入ります。天正18年(1590)年には徳川家康の進攻を受け、ついに落城しました。

石倉城二の丸公園。
周囲はほとんど住宅地化しており、石倉城の面影を垣間見ることはほとんど不可能です。

石倉城二の丸公園に建つ石碑。
ここにかつて城があったことを伝えるのは、今ではこの石碑のみとなっています。
写真の奥のほうに木が茂っていますが、そのさらに向こう側に本丸があったのではないかと思われます。

石碑の隣には、このような外郭図が建っています。
利根川沿いに築かれた本丸を二の丸、三の丸、外曲輪が取り囲んでいました。

外郭図の裏にはこのような鳥瞰図が。
石垣や白壁などが描かれていますが、こんな立派な城ではなかったと思われます。

武田・上杉・北条の三勢力の最前線に位置し、ころころと持ち主が代わった城です。利根川の川岸に築かれた石倉城は何度も洪水の被害を受け、現在では本丸のほとんどが激流に削り取られてしまっています。二の丸が公園化されているほかは、ほとんどが住宅地となり、城の面影を残すものはまったくといっていいほどありません。

  • 読み:いちごうやまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県多野郡吉井町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山内上杉氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年12月16日

一郷山城は、永享10年(1438)に起きた永享の乱で鎌倉公方と対立した関東管領山内上杉憲実が平井城に移った際、その西の守りとして新堀城と共に築いたのが始まりです。牛伏山東峰一郷山の山頂に築かれた一郷山城は、主に狼煙台としての役目を追っていたと考えられています。
永禄6年(1563)2月、西上州に侵攻した武田信玄はその緒戦として一郷山城を攻撃。一郷山城側は大石を落として防戦しますが、その大石が麓の見銘寺を押しつぶし火災が発生。火災は城域にまで延焼して城兵は全滅し、落城しました。
現在は牛伏山公園となっています。

北麓の日帰り温泉牛伏ドリームランド付近から見た一郷山城。
模擬天守の姿が目立ちます。

模擬天守。
中は資料館と公園の管理事務所になっています。
この辺りが主郭でしたが、公園化に伴い遺構のほとんどは残っていません。

模擬天守から高崎・前橋方面をみたところ。
この場所が狼煙台に最適であったことがよくわかります。

公園内にある牛の石像。
山頂に露顕した岩を彫刻したものです。

牛伏山西峰琴平山に建てられた琴平神社。

琴平神社のさらに西に建てられたNHKのアンテナ。
牛伏山にはこのほかFM局のアンテナも建てられています。

関東管領山内上杉氏が平井城の西の守りとして築いた城です。現在は牛伏山公園となり、遺構はほとんど残っていません。

  • 読み:いわびつじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:吾妻氏、斉藤氏、真田氏
  • 文化財指定:東吾妻町指定史跡(昭和47年3月1日指定)
  • 訪問日:平成18年3月18日・21日、平成20年12月23日

岩櫃城は、岩櫃山の東面中腹に築かれた山城です。鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮が築城したと伝えられていますが、これは伝説の域を出ません。南北朝時代に斉藤氏によって築城され、戦国時代にはその居城として、白井城の支城としての役目を負い、永禄6年(1563)に武田氏配下の真田幸隆が奪取したとされていますが、近年の研究では、斉藤氏が居城とし真田氏が奪取したのは岩櫃城の西方3kmにある岩下城のことであり、岩櫃城は武田氏の吾妻進出の際に取り立てられ拡張されたものと考えられています。

永禄6年に幸隆が岩櫃城に入って以降は、沼田方面攻略の拠点となり、沼田城を奪取してからは上田・沼田間の中継点としての役目を負っています。天正10年(1582)、武田氏が織田・徳川連合軍に攻められ、真田昌幸が武田勝頼に岩櫃城での建て直しを勧めた際には、郷原支城西方にその居館を用意しますが、勝頼は天目山で自刃したため、勝頼を岩櫃城に迎えることはかないませんでした。武田氏滅亡後、独立した真田氏は沼田城を巡って北条氏と争い、豊臣秀吉の仲介で沼田城は北条氏のものとなりますが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると沼田城は再び真田氏のものとなり、岩櫃城はその支城として出浦氏が城代に置かれました。慶長19年(1614)、大阪の陣に際し、沼田城の真田信之によって廃城となりました。

本城

城の口。
岩櫃城の大手で、岩櫃山への登山口でもあります。この城の口も岩櫃城に張り巡らされた竪堀の一部です。
写真左手には休憩所があり、岩櫃城の案内板が設置されています。

城の口の右手に広がる平岩集落。
集落の中にも竪堀が張り巡らされています。

城の口の背後に設けられた天狗曲輪。
真田忍者の活動拠点であったといわれています。
奥の針葉樹の森には岩櫃神社が建てられています。

中城。
二郭の東に位置し、三郭とも呼べる場所です。政務などはここで執り行われたと考えられています。

海野屋敷。
中城の少し南に位置していますが、現在は果樹園となっていて面影はまったくありません。

二郭。
主郭の東に位置し、戦闘指揮所とも呼べる場所です。
ここから数本の竪堀が放射状に伸び、兵士の出撃路となっていました。

主郭と二郭を隔てる堀切。
写真は北側から撮ったもので、左が二郭、右が主郭となっています。

主郭。
居館があったとされる場所です。写真奥には周囲に目を光らせていた櫓台跡があります。

主郭の北側に設けられた土塁。
土塁の上は岩櫃山への登山道の一部になっています。

主郭南面の竪堀。
岩櫃城で最大の竪堀です。

二郭から眺める柳沢支城。
岩櫃城の北に位置する柳沢支城は修験者の城であったとも考えられ、そう簡単には近づけない険しい城です。
支城の向こうには原町の町並みが広がっています。

主郭から岩櫃山登山道を登っていくと、このような削平地がいくつか見られます。
何らかの曲輪の跡と思われ、岩櫃城の城域がかなり上の方まで広がっていたことが推測されます。

水曲輪。
主郭の北に位置し、場内の水を確保していた場所です。
ここから写真右方向へ降りていくと、城の口へ戻ります。

柳沢支城

柳沢支城の登城口。
大きな岩がごろごろしています。

登城口から少し登ったところには、金堀穴があります。

柳沢支城のある観音山には奇岩も多くあり、写真のものは「象ヶ鼻」と呼ばれています。

このように鎖が設けられているところもあります。
もちろん、往時には鎖はありません。

山頂の少し下にある見晴台から見た本城。

観音山山頂。
ここに狼煙台が置かれ、本城への連絡を取っていたものと思われます。

山頂の曲輪の西側には、一段低くなった削平地が設けられています。

そのさらに西には大規模な堀切が設けられています。

郷原支城

郷原支城。
本城からは死角になる岩櫃山南麓の監視の役目を負っていたと思われます。
写真奥に数段の曲輪が続く小規模な城です。

郷原支城はこのような崖に囲まれています。

郷原支城の西に残る潜龍院跡。
真田昌幸が武田勝頼を迎えるために築いた御殿ですが、勝頼はここへたどり着くことなく、天目山で自刃してしまいます。
御殿はその後、潜龍院という寺になり、現在は石垣だけが残されています。

岩櫃山東面中腹に築かれた城です。その縄張りは吾妻ではほかに例がなく、縦横無尽に張り巡らされた堀切が大きな特徴です。城域は130haに及び、さらに北東に柳沢支城、南西に郷原支城を抱えています。本城、天狗の丸、柳沢支城に囲まれた平沢集落は根小屋であったと考えられ、集落内にも堀切の跡が見られます。

  • 読み:うちやまじょう
  • 別名:仙蔵城、仙蔵の要害、千道の要害
  • 所在地:群馬県吾妻郡中之条町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:成田氏、折田氏、真田氏
  • 文化財指定:中之条町指定文化財(平成6年12月1日)
  • 訪問日:平成20年4月27日

四万街道と暮坂街道の分岐点の東、比高150メートルほどの山の上に築かれた城で、中央の大堀切で北郭・南郭に二分されています。その築城時期はわかっていませんが、成田氏、折田将監の居城だったといわれています。永禄6年(1563)の岩櫃城攻略の際、暮坂峠ルートで進軍した真田昌幸はこの城を抑え、攻略の拠点としたと伝えられています。その後、永禄8年(1565)の嵩山合戦では、真田幸隆が嵩山城攻略の足掛かりとしています。嵩山城が落城するとその存在意義は薄れ、まもなく廃城となりました。

南郭の南方に造られた出城的な曲輪。
内山城にはこのような出城的な曲輪がいくつも設けられました。

南郭には送電用の鉄塔が建ってしまっています。ちゃんとした道がついているのはここまでです。鉄塔管理用のもので、本来の大手と道筋が重なっているかは不明です。

南郭の腰曲輪のひとつ。
内山城はこのような腰曲輪がいくつも連続する尾根式並郭構えの城ですが、藪に覆われてそのすべてを見ることはできません。

中央の大堀切。
内山城はここで北郭と南郭に分かれています。写真手前が南郭、奥が北郭です。

北郭に設けられた主郭。
南郭には祠の置かれた二郭がありますが、発見できませんでした。

北郭はこのような堀切が連続しています。

郭のほぼ中央の曲輪。
内山城の最高所です。
藪が深くなり、ここから先へは行けません。

上の写真の位置から沢渡方面を望む。
真田昌幸は岩櫃城攻略にあたり、写真奥のさらに奥の暮坂峠を越えて進軍してきたと伝えられています。

四万川の東岸、四万街道と暮坂街道の分岐の東の山の上に築かれた尾根式並郭構えの城です岩櫃城嵩山城攻略の重要な足掛かりでした。
現在、南郭方面は鉄塔管理用の道がつけられていますが、北郭方面は滑りやすい申し訳程度の道がついているだけになっています。

  • 読み:おがわじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県利根郡みなかみ町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:小川氏、富沢氏、真田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年10月31日

小川城は、明応元年(1492)に沼田城の沼田景久によって築かれたのが始まりです。景久は次男の景秋をこの城に置き、景秋は小川氏を名乗りました。大永4年(1524)、北条氏の攻撃を受けて城主景奥が戦死、小川城は焼け落ちます。永正17年(1520)の戦いで、景奥の長子景季が戦死していたため小川氏は断絶し、城主不在の期間が続きますが、客分となっていた上方浪人赤松祐正が上杉謙信の裁可を得て小川祐正を名乗り、小川氏を再興します。天正8年(1580)、小川城は再び北条氏邦らによる攻撃を受け落城。祐正は越後へと逃げ延びました。その後、沼田地域は北条氏と真田氏の抗争が繰り返され、天正17年(1589)、豊臣秀吉の仲裁により小川城は北条氏のものとなり、富沢又七郎が城主となりました。天正18年(1590)に北条氏が滅びると、沼田地域は真田昌幸のものとなりました。のちに沼田藩主となる真田信利が明暦3年(1657)までこの城に居住していましたが、以降廃城となっています。

主郭と二郭を隔てる堀。
左が二郭、右が主郭です。
幅10メートル、深さ6メートルほどです。

主郭を西側から見たところ。
郭内には牡丹が植えられています。

主郭の所々にこのような土塁が残っています。

主郭の東側に一段低く設けられた笹曲輪。
こちらは紫陽花が植えられています。

笹曲輪の東側は切り立った崖になっています。

二郭の様子。
農地化、宅地化がすすみ、案内表示はあるものの遺構はほとんど見られません。

上越新幹線上毛高原駅の東、利根川に向かって突き出した尾根の上に築かれた城です。笹曲輪、主郭、二郭が設けられましたが、二郭は宅地化、農地化が進み遺構はほとんど見られません。二郭から主郭へとだんだんと低くなっていく様や、主郭背後の笹曲輪の存在など、名胡桃城との共通点の多い城です。

  • 読み:かなばらじょう
  • 別名:白狐城
  • 所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:金原氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年5月24日

築城年代ははっきりとしておらず、千年以上前の築城とも伝えられています。応永年間(1394年~1427)に金原左衛門尉が居城としていたと伝えられています。
別名の「白狐城」は、この近くの地名・箱島の「はこ」の音を当てたものではないかといわれています。

奥田川の対岸、旧東村役場から見た金原城。
金原城は、北へ流れる奥田川が東へ流れを変える位置にある舌状台地の上に築かれていました。

北側に残る腰曲輪。
城の北を走る県道から続く大手道を登ると、この曲輪が見えてきます。

三郭と思われる曲輪。
写真奥には城門跡と思われる遺構があります。
二郭と三郭は低い土塁で仕切られているだけで段差はなく、この三郭と思われる曲輪も二郭の一部なのかもしれません。

二郭と思われる曲輪。
上の写真の南側に広がる曲輪で、現在はゲートボール城になっています。写真右方向には、忠魂碑が建っています。
奥の土塁の上は、主郭と思われる曲輪になっています。

主郭と思われる金原城最高所の曲輪。
大部分が畑になっています。

奥田川右岸の舌状台地の上に築かれた城です。この城の詳細はほとんどわからず、金原左衛門尉が居城としていたことだけがわかっています。

  • 読み:かんばらじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡嬬恋村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:鎌原氏
  • 文化財指定:嬬恋村指定史跡(昭和48年12月18日)
  • 訪問日:平成20年10月18日

鎌原城は、吾妻川と通称うしろの沢に挟まれた尾根の先端部に築かれた城で、応永4年(1397)に海野一族の鎌原氏によって築かれたのが始まりとされています。
鎌原氏は、鎌倉時代には三原庄を支配し、室町時代初期には三原庄の地頭となり、西吾妻一の豪族となります。幸重の時(ただし年代でいうと幸政のころ)に山内上杉氏が平井城に入り関東管領になるとその配下となります。
天文20年(1551)に上杉憲政が北条氏によって平井城を追われ越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ると、上州一帯は大大名の空白地帯となり小豪族が乱立。鎌原氏を初めとする小豪族は、吾妻最大の勢力を持っていた岩櫃城の斉藤氏に従います。永禄3年(1560)、鎌原幸重・重澄親子は、同じ海野一族の真田幸隆の紹介で信玄に謁見し、その麾下となり、鎌原氏は武田氏を後ろ盾として斉藤憲広と抗争を繰り返します。永禄5年(1562)に一時斉藤氏麾下の羽尾氏に鎌原城を奪われ、信濃へ退去しますが、武田氏と真田氏の支援を受けて鎌原城を奪還。その後、幸重は真田氏に属して斉藤憲広を吾妻から追い、岩櫃城代に任じられました。
天正10年(1582)には嫡男幸澄が長篠の合戦で戦死。武田氏が滅亡すると、後を継いだ重春は真田昌幸に従い、真田信幸が沼田城に入ると、信幸に従います。重春の息子重宗は沼田藩家老となりますが、天和元年(1681)に真田信利が改易となると、鎌原氏は松代真田氏に出仕しました。また、天領となった西吾妻の大笹の関守を明治の廃関まで務めています。

吾妻川対岸の西窪城付近から見た鎌原城。
断崖に守られている様子がわかります。

北側から三郭を見たところ。
木々の中は鎌原氏の霊域となっています。

鎌原氏霊域。
今も鎌原氏子孫の方による祭祀が続いているようで、お盆の迎え火送り火の跡が見られました。

三郭と二郭を隔てる堀。
城域を南北に貫く農道の西側は、笹に埋もれてしまっています。往時はもっと深かったものと思われます。

同じく三郭と二郭を隔てる堀。
農道の東側は、キャベツ畑とするために埋められていますが、端部に堀切の名残が見られます。

北側を二郭を見たところ。奥に三郭が見えます。
三郭から二郭、主郭と向かうにつれて低くなっていく構造です。

二郭の南端から見た主郭の様子。
主郭と二郭の間に堀が設けられています。

主郭と二郭を仕切る堀。
農道に西側は埋められてしまっていますが、東側ははっきりと残っています。
写真奥の森のあたりに東曲輪がありますが、藪になっていて近寄ることができません。

主郭先端部。
群馬テレビの三原中継所が建っています。三原・大前約900世帯をカバーしています。

主郭背後の堀切。
左の主郭と右の笹曲輪を隔てています。
この写真の奥と手前は断崖絶壁になっています。

笹曲輪。
この先端に、下から登ってくる道があったと伝えられていますが、発見できませんでした。

主郭から見た吾妻川対岸の西窪城の様子。
西窪発電所の鉄管路の左側の山が西窪城です。

吾妻川と通称うしろの沢に挟まれた尾根の先端部に築かれた城で、主郭、二郭、三郭、笹曲輪、東曲輪が設けられました。三郭から二郭、主郭に向かうにつれて低くなっていく構造や、三郭・二郭・主郭のラインに並行する曲輪の存在、主郭背後の笹曲輪の存在など、名胡桃城とよく似ています。

  • 読み:こじょう
  • 別名:小城
  • 所在地:群馬県吾妻郡中之条町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:尻高氏、真田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年4月27日

「吾妻記」によると、天正8年(1580)12月に真田昌幸の家臣であった池田佐渡守、海野郷左衛門、渡辺茂右衛門が、北条氏配下の尻高氏のものであった桃瀬川河畔のこの城に夜襲をかけ、奪い取ったと伝えられています。この時、城主であった尻高摂津守は自刃し、一族の尻高庄次郎は白井城へ敗走しています。その後天正17年(1589)12月、北条氏配下の長尾氏(謙信の一族とは別族)が白井城から出撃し、古城に迫りますが、真田方は防衛に成功します。翌天正18年2月上旬、長尾氏は忍者を古城に潜入させ、古城を奪取。これに対し同2月20日頃、真田氏配下の小渕次郎右衛門、一場茂右衛門が10人程度で古城を攻撃し、奪い返しています。
現在城跡には公園が造られています。

主郭。
40メートル四方ほどの広さだったと伝えられています。
現在は公園になっています。

二郭から見上げた主郭。
主郭の土塁ですが、どの程度改変されたのかはわかりません。

二郭。
二郭は主郭の北と東を取り囲んでいましたが、現在は東の一部のみが残っています。

二郭の土塁。
土塁下部に石積が築かれていますが、後世の改変と思われます。

城の東を流れる桃瀬川。

桃瀬川と吾妻川が合流する崖の上に築かれた城です。現在は宅地化、農地化が進み、主郭は公園になっています。二郭の一部がわずかに城の面影を残しています。

  • 読み:たかがわじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡嬬恋村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:西窪氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年10月25日

鷹川城は、下袋倉集落の北西の丘上に築かれた城で、物見台や狼煙台として使われていたと考えられています。鎌倉時代初期に源頼朝がこの地に狩りに訪れた際に、小さな砦のようなものが築かれたのが始まりとされていますが、源頼朝の三原狩り自体が架空の話と考えられているため、はっきりとした築城年代はわかっていません。
鷹川城が歴史に登場するのは一度きりで、永禄3年(1560)10月、鎌原城の鎌原幸重が真田氏を後ろ盾に、斉藤氏麾下の羽尾道雲と抗争を繰り広げた際、この城に西窪(さいくぼ)佐渡守が入り防衛に当たっています。この時、羽尾氏に味方した湯本善太夫、横谷左近、浦野下野守がこの城を包囲しましたが、戦らしい戦にはならなかったと伝えられています。

北側から城の平を見た様子。
「城の平」の名の割には起伏の激しい地形です。
遠くには浅間山が見えています。

城の平から城域北端の諏訪神社の丘を見たところ。
農道のカーブの内側が曲輪のようになっています。

諏訪神社を東から見たところ。

諏訪神社の西から吾妻川対岸の今井地区を見たところ。
鷹川城が断崖に囲まれていることがわかります。

神社のある平の上の平。
往時はここに物見台か狼煙台が設けられていたものと思われます。

城域北端も断崖絶壁になっています。
建物の裏が土塁のようになっていますが、遺構なのか建物が建ったことによってできたものなのかはわかりません。

西、北、東を吾妻川の断崖によって囲まれた丘の上に築かれた城で、広大な城の平とその北の諏訪神社の丘で構成されています。物見台もしくは狼煙台として使われていたと考えられていますが、遺構はほとんど見られません。

  • 読み:たけやまじょう
  • 別名:嶽山城、岳山城、武山城
  • 所在地:群馬県吾妻郡中之条町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:斉藤氏
  • 文化財指定:中之条町指定文化財(昭和63年3月26日)
  • 訪問日:平成20年5月3日

中之条盆地を見下ろす嵩山は、標高789メートルの台地上の岩山で、古くから祖霊を祀る霊山として信仰を集めました。
永禄6年(1563)に真田幸隆の吾妻郡進攻により岩櫃城が陥落すると、岩櫃城主だった斉藤憲広、憲宗父子は越後の上杉謙信を頼って敗走。憲広の末子城虎丸は嵩山城に立てこもり、中山氏、尻高氏の支援を受け岩櫃城を奪った真田氏と四万川を挟んで対峙します。
永禄8年(1565)11月、真田幸隆は嵩山方の池田佐渡守父子を内通者として味方につけ、11月16日に五反田の台で激突。同日夕方には戦闘は嵩山城に移行し、翌17日に嵩山城は落城しました。越後からの増援を率いていた斉藤憲宗は自刃。城虎丸は大天狗から身を投げて自害し、斉藤氏は滅亡しました。その後まもなく嵩山城は廃城となり、元の信仰の山に戻っています。

吾妻川対岸の東吾妻町岩井地区から見る嵩山城。

ふもとの親都神社から見上げる嵩山城。
岩櫃山に負けず劣らずの天嶮で、修験道の山として信仰を集めました。

大手の道。
ふもとのたけやま館から頂上への道が続いていますが、こちらは西側の登山道です。

このような岩場もあります。岩を削った階段が設けられていますが、これは後世の改編かもしれません。

上の写真の少し上から中之条盆地と榛名山を望んだところです。

大手道を登りあげると天狗の平に到着します。
この平も曲輪としての機能を持っていたのではないかと思われます。
手前側が小天狗方面、右が大手道です。奥の道は中天狗、実城の平、大天狗に続いています。

嵩山の西の頂、小天狗。
この写真の奥、右、左は数百メートルの断崖絶壁です。

小天狗から岩櫃城(写真中央)を望んだところ。
かなり近く、真田氏と対峙していた頃には小競り合いが頻発していたものと思われます。

小天狗から美野原方面を望んだところ。
写真左の平で、真田軍と斉藤軍が激突しました。

小天狗から嵩山東側を望んだところ。
写真右の頂が中天狗、左の頂が大天狗です。

中天狗と大天狗の間の削平地は実城の平と呼ばれ、主郭になっています。
御城の平、無常の平とも呼ばれています。
写真の石仏群は、合戦後に設置されたものです。

実城の平の近くにある経塚。
嵩山合戦の戦没者を弔うために造られました。

嵩山の東の頂、大天狗。
真田勢に追い詰められた斉藤城虎丸はこの上から身を投げ自害したと伝えられています。
鎖を伝って頂上へ行くことができます。

ふもとに築かれた親都神社。

中之条盆地を見下ろす台地上の嵩山に築かれた城です。天然の地形を利用した城で、遺構と呼べるものは実城の平とその周辺の腰曲輪をのぞくとほとんどありません。ふもとの親都神社は5月に嵩山祭が行われ、多くの人が訪れます。

  • 読み:ながのはらじょう
  • 別名:箱岩城
  • 所在地:群馬県吾妻郡長野原町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:斉藤氏、常田氏、羽尾氏、湯本氏
  • 文化財指定:長野原町指定文化財(平成2年3月27日)
  • 訪問日:平成20年6月8日

吾妻川と白砂川(旧称・須川)が合流する舌状台地に長野原の町並みが広がっています。長野原城はその町並みの北側にそびえる急峻な岩山の尾根に設けられた東西約700メートルの細長い城郭です。その築城年代はわかっていません。
武田信玄が上州への進攻を開始すると、武田の上州攻略先鋒方真田幸隆は永禄5年(1562)に斉藤氏のものであった長野原城を落とします。長野原城には幸隆の弟・常田隆永が入り、岩櫃城の斉藤憲広(上杉氏配下)とにらみ合います。永禄6年(1563)、斉藤憲広は農繁期のため郷士が地方に戻り手薄となった長野原城の攻略に動きます。常田隆永は自ら須川西岸の諏訪神社の辺りまで出て斉藤方を迎撃しますが討死し、長野原城は斉藤方の手に渡りました(このとき討死したのは常田隆永の息子の俊綱で、隆永は元亀3年(1572)の上杉方との戦いで戦死したとも伝えられています)。斉藤氏が奪い返した長野原城には、羽尾幸全、海野幸光が入りますが、間もなく真田氏に奪い返され、草津の領主であった湯本善太夫が城主となりました。
天正10年(1582)以降はどのような変遷をたどったのかはわからず、廃城の時期も不明となっています。

かみつけ信用組合長野原支店付近からJR吾妻線の線路を渡ると、大手道になっています。
大手門には、長野原で最古の部類に入る瑠璃光薬師堂が建っています。

大手道は九十九折になっています。

九十九折の大手道をしばらく登ると、箱岩出丸が見えてきます。王城火山群の噴出物の一部が地上に露出して固まったもので、ほぼ垂直な箱型の岩場が出城的な曲輪として利用されました。
長野原城の別名「箱岩城」の名は、この箱岩出丸から名づけられています。

箱岩出丸に建つ伴僧坊大権現。
浜松奥山の伴僧坊大権現を分霊したもので、現在の建物は昭和28年(1953)に立て直されたものです。

尾根に設けられた出丸。
写真の階段の上に建てられた石碑は、かつて秋葉社が建っていたことを物語る碑です。
長野原城は尾根上に点在するこのような曲輪をつないだ形式になっています。

出丸から西へ50~60メートルほど離れた尾根上に設けられた主郭。
「長野原城本丸址」の碑が建てられています。

主郭の西にこのような竪堀が設けられています。
白砂川の流れる城の北側へ向かって延びています。

尾根の東側に位置する物見台。
現在は木々が生い茂り、見晴らしはあまりよくありません。

物見台のさらに東の尾根上に位置する天狗岩。
ここも見晴らしがよいことから、見張台として使われていたものと思われます。

天狗岩からの眺め。
吾妻川の向こうに丸岩城柳沢城が見えます。

長野原中心街の背後にそびえる山の尾根上に築かれた東西700メートルほどの城です。丸岩城、柳沢城が近くに見え、これらの城と連携をとっていたものと考えられます。

  • 読み:なかやまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡高山村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:阿左美・中山氏、赤見氏
  • 文化財指定:高山村指定史跡(平成元年11月30日)
  • 訪問日:平成20年12月13日

建保2年(1214)に武蔵児玉党の阿左美氏によって築かれたのが始まりとされています。この頃の城は現在の位置よりも東の山の上にあり、現在「中山古城」と呼ばれています。阿左美氏はやがて中山氏を名乗り、武田氏が吾妻へ侵攻してくると、徐々に武田氏配下の真田氏に従うようになります。しかし天正10年(1582)に北条方の白井長尾氏の攻撃を受け中山古城は落城。北条氏は現在の位置に城を築き、赤見氏が中山城に入ります。天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると、城は廃城となりました。

国道145号線沿いに立つ中山城址の碑。
ここからは城内には入れず、回り込んで入ることになります。

北東から見た中山城。

三郭と捨曲輪を隔てる堀。
右が三郭、左が捨曲輪です。
この堀は城を東西に貫いています。

城域の南部に設けられた捨曲輪。
現在は一部が蒟蒻畑になっているほかは、藪になっています。

捨曲輪北端から見た三郭、二郭、主郭。
三郭と捨曲輪の間には土橋が設けられていたと伝えられています。

三郭の南西端には、中山氏の家臣奈良氏が建てた草蔵寺の跡があります。

三郭から城の西側を見たところ。

二郭と三郭を隔てる堀。
右が二郭、左が三郭です。
往時はもっと深かったと思われますが、現在は埋められて蒟蒻畑になり、わずかに堀の跡が残っています。

二郭の北部と西部を仕切る掘切。
堀はまっすぐに伸びて主郭北西端に突き当たり、左右に分かれます。
通路も兼ねていたと考えられています。

主郭。

主郭には、中山氏末裔の方によって城明神が祀られています。

北曲輪と北の帯曲輪を隔てる堀。

北曲輪。
農地化が進んでいます。

城の東端に築かれた下曲輪。

三国街道と沼田街道が交差する交通の要所に築かれた城です。主郭の北・西・南を二郭が取り囲み、二郭の西・南を三郭が囲む半囲郭構造となっています。大部分が農地と藪になっていますが、主郭を取り囲む堀をはじめ遺構がよく残されています。

  • 読み:なぐるみじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県利根郡みなかみ町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:沼田氏、真田氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和24年12月20日)
  • 訪問日:平成20年9月27日

名胡桃城は、湯舟沢の断崖の上に築かれた山城で、応永年間(1394年~1427)に沼田氏が沼田城の支城として築いたのが始まりとされています。戦国末期には上杉氏、武田氏、北条氏の三勢力が、沼田領有のための足掛かりとして争奪を繰り返します。天正6年(1578)には、真田氏配下の真田昌幸が、北条氏の沼田城攻略の足掛かりとするためにこの城を押さえ、城代に鈴木主水重則を置きました。天正7年(1579)には、北条氏が2度にわたり名胡桃城を攻撃しますが、真田氏は防衛に成功。翌天正8年(1580)には、真田氏はこの城から出撃して沼田城を攻略し、名胡桃城は岩櫃城沼田城の中継地点となりました。
その後も、北条氏との間で沼田をめぐる抗争が繰り返されましたが、天正17年(1589)に豊臣秀吉の仲裁で沼田は北条氏のものと決められました。しかし真田氏は、「名胡桃城には祖先の墳墓があるので残してほしい」と訴え(本当は名胡桃城には真田氏の墳墓はない)、名胡桃城だけは真田氏の所領として残されました。同年11月、沼田城代の猪俣邦憲は、計略をもって鈴木重則を名胡桃城外に誘い出し、名胡桃城を攻撃、これを奪い取り、謀られたことを知った鈴木重則は、沼田にて自害します。このことを知った秀吉は激怒し、北条氏討伐を決定。翌天正18年(1590)、小田原を攻撃し、北条氏を滅ぼしました。その後、沼田城が真田氏に与えられたことで名胡桃城の存在意義も薄れ、間もなく廃城になったと考えられています。

城の西側に設けられた丸馬出し。

丸馬出しと三郭を隔てる堀。
右側が三郭です。

三郭の様子。
虎口があったことを示す案内板が立っていますが、現在はまっ平でその面影は見られません。

三郭の北端から見た二郭の様子。
三郭と二郭は堀で隔てられ、その間は土橋で結ばれていますが、土橋は後世につけられたもので、往時は木橋が架けられていました。

三郭と二郭を隔てる堀。
右が二郭です。三郭の堀よりもはっきりと残っています。

二郭の入口には喰違い虎口の案内板が立っていますが、三郭同様まっ平で、その形跡は見られません。

二郭の北端から見た主郭の様子。
主郭の堀には二郭の堀と同様に土橋が設けられていますが、ここも後世に設けられたもので、往時は木橋が架かっていました。

主郭。
名胡桃城址の碑が立っています。

主郭の南側はこのような断崖になっていて、その下を湯舟沢が流れています。
主郭崩壊の危機にさらされていたため、治山工事が行われました。

すぐ南に位置する榛名峠城を主郭から見たところ。
名胡桃事件の際、沼田城代猪俣邦憲はこの城から出撃し、名胡桃城を奪い取りました。睨み合いどころか罵り合いになりそうな距離です。

主郭北端から見た笹曲輪の様子。
二郭、主郭の堀と同じような構造になっています。

笹曲輪には土塁が残されています。
月夜野町教育委員会が行った発掘調査で、土塁の基礎に石垣が用いられていることが判明しています。

笹曲輪の東に設けられた袖曲輪。
笹曲輪との間に堀切はなく、笹曲輪よりも一段低くなっています。

袖曲輪から見た沼田方面。

袖曲輪のさらに一段下に設けられた物見曲輪。
その名のとおり物見台の役割を負っていたようですが、現在は藪になって訳がわからなくなっています。

三郭の北に設けられた般若曲輪。
城主の居館が建っていたと考えられています。
現在は駐車場になっています。

湯舟沢左岸の崖上に築かれた城で、豊臣秀吉の小田原征伐のきっかけとなった城です。主郭、二郭、三郭、般若曲輪、笹曲輪、物見曲輪、外曲輪が設けられましたが、外曲輪は大部分が農地化して遺構はあまり見られなくなっています。また、丸馬出し・般若曲輪と外曲輪の間を国道17号バイパスが横切っています。
丸馬出しから東の城域は比較的よく残され、歴史が動いた城として群馬県の史跡に指定されています。

  • 読み:ぬまたじょう
  • 別名:蔵内城
  • 所在地:群馬県沼田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:沼田氏、真田氏、本多氏、黒田氏、土岐氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和51年3月30日)
  • 訪問日:平成20年9月27日・10月31日

沼田城は、幕岩城の沼田顕泰が新たな本拠として享禄2年(1529年に)築いたのが始まりとされています。北条氏が関東管領上杉憲政を追い、上州に背力を伸ばすと、顕泰はその配下となり、越後の上杉謙信が関東へ攻め込むと顕泰は謙信に降伏し、その配下となります。しかし、永禄12年(1569)、家督をめぐって沼田氏に内乱が起き、顕泰は沼田を脱出。会津の芦名氏を頼って落ち延び、沼田氏は衰退。沼田城には上杉氏の城代が入るようになりました。
天正6年(1578)に謙信が死亡すると、上杉家では後継者の座をめぐって内乱がおき、その隙を突いて北条氏が沼田城を奪い取ります。一方、西からは武田勝頼の命を受けた真田昌幸が沼田城攻略に乗り出し、天正8年(1580)にこれを奪取。その後、北条氏と真田氏の間で沼田争奪戦が繰り広げられます。天正17年(1589)、豊臣秀吉仲裁に入り、沼田城は北条氏のもの、名胡桃城は真田氏のものと取り決めますが、沼田城代猪俣邦憲は名胡桃城を急襲してこれを奪取。これを知った秀吉は激怒し、翌天正18年(1590)、小田原を攻撃し、北条氏を滅ぼしました。
その後、沼田城は昌幸の嫡男信幸(信之)に与えられます。関ヶ原の戦いでは信幸は徳川側につき、戦後はその領地を安堵されます。元和8年(1622)に真田氏は上田から松代へ移封となり、沼田は松代藩の飛び地となりました。明暦4年(1658)、信之の孫の信利の下で沼田藩が成立しますが、寛文2年(1662)の検地で所領3万石を14万4千石と幕府に過大申告して領民を重税に苦しめることとなりました(松代10万石への対抗意識の表れといわれています)。延宝8年(1680)、沼田藩は両国橋架け替えの用材調達を請け負いますが、重税に苦しめられた領民のサボタージュに遭い、納期に間に合わなかった責任を問われ改易となり、以降しばらくの間、利根沼田・吾妻は天領となりました。
元禄16年(1703)、下総国舟戸藩から本多正長が入り、沼田藩が再び興りました。享保15年(1730)に本多氏は駿河国田中藩へ転封。代わって常陸国下館藩から黒田氏が入部します。黒田氏は寛保2年(1742)に上総国久留里藩へ転封となり、代わって老中であった土岐頼稔が駿河国田中藩から入部し、以降明治4年(1871)の廃藩置県まで土岐氏が沼田藩を治めました。現在は、沼田公園となっています。

沼田公園駐車場の入口に残る三の丸土塁。

三の丸土塁の下には、堀の名残があります。

沼田公園入口から見た本丸の様子。
写真右方向に、真田信之が慶長年間(1596年~1614)に建てた五重の天守がありました。

天守跡。
高さ8間(14.4メートル)の石垣の上に、五重の天守が建っていましたが、信利改易後に幕府によって破却されました。

本丸に建つ鐘楼。
沼田城といえばこの鐘楼ですが、かつて大手の外側にあったものをこの場所に復元したものです。

本丸北西の西櫓跡。
沼田城は真田氏改易後に一度破却され、本多氏以降は陣屋程度のものが築かれただけですが、このように真田時代の以降がわずかに残っている部分もあります。

西櫓跡の石垣。
高さ2メートルほどですが、往時はもっと高かったといわれています。

本丸の北側に設けられた捨曲輪。

捨曲輪内にある平八郎石。
真田昌幸が沼田城を奪取した際、沼田平八郎義景の首実検をした石といわれています。

捨曲輪から見た月夜野方面。

本丸の東にわずかに残る堀の跡。
石垣は往時のものです。

本丸御門跡。
右奥の電柱の向こうに堀の跡が見えます。

二の丸。
現在は野球場になっています。

利根川、薄根川、片品川が合流する崖の上に築かれた崖端城です。上杉、武田、北条の三大勢力の最前線の一つであり、絶えず争奪戦が繰り広げられました。真田氏の時代には、上州最大の五層の天守が築かれましたが、改易後に城は一度破却され、本多氏以降は陣屋程度のものが築かれたものの市街化がすすみ、遺構はあまり見られません。現在は沼田公園として沼田市民の憩いの場になっています。

  • 読み:はねおじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡長野原町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:羽尾氏、海野氏、湯本氏
  • 文化財指定:長野原町指定史跡(昭和49年9月21日)
  • 訪問日:平成19年8月17日

築城年代は定かではありませんが、天文年間(1532~1555)に羽尾幸全によって築城されたといわれています。武田信玄が西上州攻略を開始する以前、吾妻郡西部一帯は海野一族と呼ばれる豪族たちが支配しており、現在の長野原町大字羽根尾周辺は、羽尾氏の勢力下にあり、羽根尾城はその本拠でした。その頃、武田氏によって海野平を追われていた真田幸隆が一時期羽尾幸全の元へ身を寄せていました。
その後、幸隆は箕輪城の長野氏の元へ身を寄せましたが、旧領回復を目指す幸隆はかつての敵であった武田氏に恭順。西上州攻略の先方を任じられます。羽尾幸全は吾妻を追われ、幸全の弟海野幸光・輝幸兄弟が吾妻郡を任せられます。しかし天正9年(1581)、海野兄弟に対する誤解から真田昌幸はこれを急襲し、滅ぼしました。主を失った羽根尾城には湯本三郎右衛門が入城しましたが、やがて廃されました。

主郭。
木々が生い茂り、その全容を一目で確認することはできません。
主郭内には残念ながら、鉄塔が建ってしまっています。

腰曲輪。
主郭の南に土塁を挟んで腰曲輪が存在しています。
主郭よりも大きな木々に覆われているため、下草は多くありません。

主郭と腰曲輪を隔てる土塁。
高さは1メートルほど。右が主郭で左が腰曲輪です。
土塁の上には、長野原町教育委員会が建てた碑と案内板があります。

腰曲輪と二郭を仕切る堀切。
左側が二郭、右側が腰曲輪。
羽根尾城の堀切は、最も城の面影を残す遺構の一つです。

主郭北側の堀切。
左側を登っていくと、水の手があるとのことですが発見できませんでした。

二郭。
堀切を挟んで腰曲輪の南に伸びる尾根の上に設けられています。
南北に細長く、4~50メートルほど続いています。

山の麓にある海野長門守の墓。

城峯山の山頂に設けられた城で、主郭、二郭、三郭が残っています。が、三郭は発見できませんでした。ふもとには長野原町指定史跡の海野長門守の墓が残っています。

  • 読み:はこだじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県渋川市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長尾氏
  • 文化財指定:渋川市指定史跡(昭和47年12月7日)
  • 訪問日:平成20年6月14日・11月3日

箱田城の築城年代ははっきりとしていませんが、木曽義仲の郎党であった今井氏・高梨氏・小野沢氏の末裔「箱田衆」の手によって、白井城の長尾氏の出城として戦国期に築かれたのが始まりとされています。
現在、主郭内には模擬天守「たちばなの郷 城山」が建ち、東南には日帰り温泉「ばんどうの湯」が建っています。

西麓の国道17号沿いのセブンイレブンから見た箱田城。
土塁の中に模擬天守「たちばなの郷 城山」が建っているのが見えます。

ばんどうの湯駐車場から見た主郭土塁。
土塁が二段構造になっているのがわかります。

大手虎口付近。
ここから先は、「たちばなの郷 城山」利用者以外は立入禁止です。

搦手から見た主郭土塁。
わずかに堀の跡が見て取れます。

利根川東岸の小高い丘の上に築かれた単郭式城郭です。付近の真壁城などとともに白井城につながる城であったと考えられています。
主郭内部には櫓台などが残っているようですが、「たちばなの郷 城山」の利用者以外は立ち入りできません。

  • 読み:ひらいじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県藤岡市
  • 主要城主:山内上杉氏、北条氏、長尾・上杉氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(平成11年4月30日)
  • 訪問日:平成20年12月16日

平井城は、永享10年(1438)に起きた永享の乱で鎌倉公方と対立した関東管領山内上杉憲実が、総社長尾忠房に命じて築城させたとも、応仁元年(1467)に上杉顕定が築城したとも、憲実の時代に築城したものを顕定が大改修したともいわれています。
山内上杉氏は、文明8年(1476)の家宰職相続をめぐる内紛をきっかけに、扇谷上杉氏と対立し抗争を繰り返しますが、永正2年(1505)に扇谷上杉朝定が実質降伏する形で和睦し、北関東へ勢力を伸ばしつつある北条氏と対立するようになります。天文14年(1545)、上杉憲政は扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏らとともに、北条綱成の守る川越城を包囲しますが、北条氏康の奇襲により包囲軍は壊滅、上杉朝定は自刃し、憲政は平井城へ敗走しました。天文21年(1552)、平井城は北条氏康による攻撃を受け、憲政は平井城を脱出。越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへ逃れ、山内上杉の家督と関東管領職を景虎に譲りました。
その後、景虎によって平井城は北条氏から奪還されますが、上杉政虎と名を変えた景虎は永禄3年(1560)に関東に置ける拠点を厩橋城に移し、平井城は廃城となりました。

主郭西端に復元された土塁。
土塁の向こうには詰めの城である平井金山城が見えます。

復元された土塁の上部から三郭方向(北側)を見たところ。
宅地化が進んで遺構は残っていません。

復元された土塁の上部から二郭方向(西側)を見たところ。
農地の端にわずかに土塁の跡が見て取れます。
道路の辺りに堀があったと見られています。

土塁上部から主郭南側を見たところ。
主郭は北西を頂点とするほぼ正五角形の曲輪でした。

土塁上部から主郭北側を見たところ。
芝生の向こうに見える建物の辺りが主郭東部ですが、現在は畜産農家になっています。

主郭から南東を流れる鮎川を見下ろしたところ。
この方向は崖になっており、こちらから攻めることはできません。

復元された主郭東の曲輪。
土橋も復元されています。

主郭の東の堀とそこにかかる橋も復元されています。

復元された竪堀。

関東管領山内上杉氏の本拠となった城です。山内上杉氏最盛期の平井地区は、鎌倉と遜色のない繁栄振りでしたが、現在ではその面影もなくほとんど宅地化・農地化しています。主郭の一部は公園化され、土塁や堀が復元されています。

  • 読み:まえばしじょう
  • 別名:厩橋城
  • 所在地:群馬県前橋市
  • 主要城主:長野氏、北条(きたじょう)氏、滝川氏、平井氏、酒井氏、松平氏
  • 文化財指定:前橋市指定史跡(昭和49年9月21日)
  • 訪問日:平成19年5月30日・6月9日

太田道灌が築城したとの説もありますが、延徳年間(1490年ごろ)に、長尾忠房が開城したのが始まりとされます。この城は利根川の氾濫により大部分が流出してしまいましたが、箕輪城の長野氏により再建され、箕輪城の支城となりました。
永禄3年(1560)以降は、越後の上杉謙信の関東出陣の拠点となり、永禄6年(1563)には北条(きたじょう)高広を城代に置きます。謙信が死ぬと、城は武田勝頼の手に落ちますが、天正10年(1582)に武田氏が滅びると、関東管領としで織田氏配下の滝川一益が入城します。同年、本能寺の変で織田信長が死ぬと、滝川一益は前橋を離れ、城は北条氏のものとなります。
天正18年(1590)、北条氏が滅びると、城は徳川氏のものとなり、平岩親吉が入城します。その後江戸期には酒井氏、松平氏が城主を務めました。明和5年(1768)、度重なる利根川の氾濫により一時廃城となりますが、幕末の文久3年(1863)、江戸北方の防備の必要から再築。しかし明治になると廃城になり、現在は群馬県庁となっています。

本丸。
現在は群馬県庁舎が建っています。手前は昭和庁舎、奥の高いビルが新庁舎。写真の右方向には群馬県警察本部、左奥方向には議会庁舎が建っています。
酒井氏の時代には前橋城にも天守がありましたが、現在はその面影を見ることはできません。天守は現在の議会庁舎のあたりにあったと考えられます。

わずかに残る土塁。
群馬県警察本部の裏手に残る土塁。高さは5メートルほど。

土塁の断面。
本丸西端に残る土塁の断面。
高さ5メートル、底辺10メートルほどの巨大な土塁です。
本来、本丸の西側に門はなく、この断面は後世になって切り崩された結果できたものです。

高浜門。
本丸の北側、現在の群馬県警察本部の裏手に設けられた高浜門。
門の面影を残す唯一の遺構です。

県庁32階展望台から見る二の丸周辺。
二の丸の一部は前橋市議会庁舎になっています。

県庁32階展望台から見る三の丸外郭周辺。
三の丸外郭は前橋公園になっています。
かつての利根川は写真中央に見える柳原放水路のあたりを流れていたと伝えられ、前橋城は何度も洪水の被害を受けています。

三の丸外郭の土塁。

上杉謙信が関東出陣の拠点とした城です。当時の前橋周辺は、上杉、武田、北条の三勢力の最前線であり、利根川の対岸に武田氏が石倉城を築き、川をはさんで睨み合うこともありました。
現在の前橋城は市街化が進み、本丸は群馬県庁、二の丸は前橋市役所、三の丸は前橋地方裁判所、三の丸外郭は前橋公園となっており、前橋城の面影を残すのは群馬県警本部を囲む土塁などごく僅かとなっています。

  • 読み:まるいわじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡長野原町
  • 主要城主:羽尾氏、真田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年3月22日

永禄年間(1558~1570)に羽根尾城の羽尾幸全が築城したともいわれていますが、定かではありません。北条氏の西吾妻進行に備えて真田昌幸が築城したともいわれています。「加沢記」に何度か丸岩城の名が登場していますが、その築廃城時期については不明な点が多い城です。
天正10年(1582)、武田氏滅亡により空白地帯となった吾妻へ進行を始めた北条氏は、須賀尾峠を越えて西吾妻へ入ろうとしますが、元武田氏配下で西吾妻を領有していた真田昌幸は、湯本氏、西窪氏、横谷氏、鎌原氏など西吾妻の武将を丸岩城に交代で駐屯させ、これに対抗しています。
丸岩城の近くには柳沢城があり、丸岩城と柳沢城が連携して須賀尾峠、吾妻街道に目を光らせていたものと考えられています。

丸岩城遠望。
吾妻側の対岸、林地区から望む丸岩城(中央やや右の断崖絶壁の山)。
頂上の標高は1130メートル。ふもとを流れる吾妻川の標高は約570メートル。比高560メートルにも及ぶ断崖絶壁の上に築かれた城です。

丸岩城入口。
国道406号須賀尾峠のすぐ下に丸岩への登山口があり、城の大手の道が登山道になっています。

大手の道。
岩がごろごろとしています。

さらに進むと人一人が通るもやっとの細い箇所もあります。

天然の堀切。
丸岩城には目立った堀切はありませんが、ここは天然の堀切のようになっています。左側が丸岩で、完全な独立峰になっています。

丸岩城主郭へと登る大手の道。
写真中央やや左には50cmほど高くなった土塁が設けられています。風除けのために造られたといわれていますが、この規模では風除けにはなりませんし、これがないからといって通れないわけでもありません。

主郭。
高さ50cmほどの土塁で囲まれた丸岩頂上です。さほど広くなく、狼煙台に用いられていたものと考えられます。

主郭北の曲輪。
一段低くなった曲輪が主郭の北に設けられています。小屋程度の建物が建てられそうですが、まとまった兵力は駐屯できそうにありません。

主郭の東側には一段低くなった曲輪が伸びています。

東へ伸びる曲輪には、最近になっておかれたと思われる祠らしきものがあります。写真ではわかりづらいですが「大弁才天」と読めます。

東へ伸びる曲輪の北にこのような腰曲輪が数段設けられています。
丸岩北面は断崖絶壁で防御の必要がないため、吾妻街道の監視のために設けられたと考えられます。

吾妻川の南岸にそびえる丸岩の頂上に築かれた山城です。付近に築かれた柳沢城と一体となり、須賀尾峠と吾妻街道の動向を監視していたと考えられています。
防御の必要がない丸岩北面に設けられた腰曲輪については、余湖氏が「旗指物をいくつも並べて大軍がいるように見せかけ、吾妻街道を行く者を欺いていたのではないか」との説を唱えています。

  • 読み:みょうとくじじょう
  • 別名:天神山城
  • 所在地:群馬県利根郡みなかみ町
  • 主要城主:沼田氏、上杉氏、北条氏、真田氏
  • 文化財指定:みなかみ町指定史跡(昭和45年4月1日)
  • 訪問日:平成20年11月8日

南北朝時代に、会津の芦名氏の侵攻に備えて荘田城の沼田氏が築いた天神山砦が始まりとされています。戦国時代に入り沼田氏が滅亡すると、沼田一帯は上杉氏の領有を経て、天正7年(1879)に北条氏のものとなります。翌天正8年1月、明徳寺城は真田昌幸の急襲を受けて落城。城は真田氏によりさらに補強されます。天正17年(1589)、豊臣秀吉の仲裁により、名胡桃城以外の利根を北条氏、吾妻を真田氏のものと定め、明徳寺城は再び北条氏のものとなります。しかし沼田城代猪俣憲直がこの協定を破って名胡桃城を奪取したことをきっかけに、翌天正18年(1590)に北条氏は滅ぼされ、利根が再び真田氏のものとなると、明徳寺城はその存在意義を失い廃城となりました。

北側の虎口。
土塁が二重構造になっているのがわかります。

主郭内部。
郭内は農地として利用され、桑が植わっています。

北の虎口付近の土塁を主郭内部から見たところ。
高さ3メートルほどの堅固な土塁です。

主郭の西側の腰曲輪に建てられた水子地蔵。

水子地蔵から山の麓へ続く道。
明徳寺へ続いているものと思われますが、藪化しています。

南北朝時代から始まる古い城で、城の麓に建てられた明徳寺の名をとって明徳寺城と呼ばれるのが一般的になっています。単郭の単純なつくりですが、主郭は南北180メートルほどもある大きなものとなっています。

  • 読み:よこおはちまんじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡中之条町
  • 主要城主:尻高(しったか)氏、真田氏
  • 文化財指定:中之条町指定史跡(昭和63年3月26日)
  • 訪問日:平成20年3月29日

「吾妻記」によると、大永年間(1521~1528)に尻高三河守によって築城されたと伝えられています。天正8年(1580)に真田昌幸がこの地へ進出すると、富沢豊前守が配置されました。天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると吾妻地域が空白地帯となり、さらに同年6月に起きた本能寺の変によって織田氏配下の滝川一益が厩橋城から引き揚げると、上州南部までを支配していた北条氏が北上を開始し、吾妻・利根を支配する真田氏と対立するようになります。
天正12年(1584)、上田城を築いた真田昌幸は吾妻・利根の二郡を長男の信幸に任せます。天正17年12月には北条氏邦が白井城から攻め寄せますが、富沢氏、渡辺氏、金子氏、尻高氏、鎌原氏、湯本氏、川原氏などの吾妻勢がこの城に篭り、これを退けたと伝えられています。

主郭。
八幡山の頂上に20~30メートル四方の主郭が設けられています。
周囲を高さ1.5メートルほどの土塁が取り囲んでいます。

主郭を囲む腰曲輪の南側から見た主郭。
腰曲輪からの土塁の高さは4メートル近くあります。
ふもとの案内板には、「主郭の南の腰曲輪には井戸がある」とありましたが、発見できませんでした。

主郭をぐるりと取り囲む腰曲輪。
写真は東側から南側に向かって撮影したところ。

枡形的な虎口。
主郭南の腰曲輪の南端には、このような地形が見られ、門の跡と考えられます。

北を赤坂川、東を名久田川に囲まれた段丘の上にある八幡山の頂上部に築かれた山城です。本来の名は「八幡城」ですが、八幡の名を持つ城は多いため、ほかと区別するために大字名の横尾をつけて「横尾八幡城」と呼ばれています。

天正10年(1582)の武田氏滅亡後、自立の道を歩み始め、周辺諸大名についたり離れたりを繰り返していた真田昌幸が、利根・吾妻を攻める北条氏に対処する新たな拠点として翌天正11年から築城を開始した城です。築城開始時は徳川家康の傘下に入っていましたが、天正13年(1585)に上州の帰属をめぐって家康と対立。同年8月には徳川勢7000が上田城に迫りましたが、上田城でこれを撃破しました(第一次上田合戦)。時代は下って慶長5年(1600)。天下統一を果たした豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立。関ヶ原の戦いが起こります。このとき上田城の昌幸・幸村は三成方(西軍)に、沼田城の信幸は家康方(東軍)につき、真田家は敵味方に分かれました。家康は東軍を二つに分け、自らは東海道を、三男秀忠には中山道を進ませます。秀忠は道中の上田城を攻略しようとしますが、昌幸・幸村親子の前に苦戦。足止めを喰らい、関ヶ原合戦に遅参します(第二次上田会戦)。

しかし、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、昌幸・幸村親子は紀州九度山に流され、上田城は徹底的に破却されます。その後上田城は信幸に与えられますが、 元和8年 (1622)に松代へ転封。小諸から仙石忠政が入城します。宝永3年(1706)には仙石氏が但馬出石へ転封となり、松平氏が入城。城は明治の廃藩置県まで存続しました。

本丸櫓門と北櫓。
本丸櫓門は本丸と二の丸を区切っており、櫓門の向こう側が本丸になっています。
櫓門は近年になって復元されたものです。

本丸櫓門前から見る堀。
堀は本丸の東、北、西を囲んでいます。
本丸を囲む堀には桜が植えられ、春には花見客で賑わいを見せます。

枝垂桜と北櫓。
北櫓は民間に払い下げられ移築されていたものを買い戻したものです。

本丸櫓門前の真田石。
写真ではわかりづらいですが、かなり大きな石です。
転封の際、信之が松代へ<持って行こうと試みましたが、びくともせず、結局ここに置いていったと伝えられています。

本丸櫓門をくぐり本丸に入ると、正面に真田神社が現れます。
真田昌幸・幸村親子が智恵の神として祀られています。

真田井戸。
真田神社拝殿の裏手にあり、太郎山へ繋がる抜け穴が続いていたともいわれています。

本丸。
本丸の東側から西側へ向かって撮影。
写真の場所は真田神社のある場所よりも一段高くなっていて、東、北、西を土塁で囲まれています。

本丸。
上の写真とは反対に、西側から東へ向かって撮影。

本丸を取り囲む土塁。
写真は北西部。土塁の角には、二重櫓が建てられていました。
上田城には全部で7つの櫓がありましたが、残っているのは北櫓、南櫓、西櫓の3つだけです。

西櫓。
仙石氏築城の頃から残る上田城最古の建造物です。

尼ヶ淵から見上げた西櫓。
かつては千曲川の流れがここまで来ていました。

尼ヶ淵から見上げた南櫓。
南櫓も民間に払い下げられ移築されていたものを買い戻したものです。
民間に払い下げられていた頃は、一時期遊郭に利用されていたそうです。
南櫓は内部の見学が可能です。

二の丸と小泉曲輪を仕切る空堀。
左側(東)が二の丸西虎口付近。右側(西)が小泉曲輪です。
堀は奥(南)の方で鉤状に屈曲しています。

上の写真の空堀内部から小泉曲輪を見上げたところです。

その小泉曲輪の上部。
一部は駐車場になっています。

二の丸の土塁。
写真は西端に設けられた土塁。
二の丸は西と北を土塁によって囲まれていました。

二の丸に鎮座する上田招魂社。
本丸の北に位置しています。

二の丸から本丸北東端を望む。
本丸土塁の角が内側に欠かれているのは、鬼門除けのためと考えられています。
欠けた部分の両側に二重櫓が一つずつ建っていました。

二の丸の北虎口の枡形門。
後世の復元のようです。

二の丸の東虎口。
現在は上田市立博物館の入口として利用されています。

二の丸の東の堀。
写真は、二の丸の東虎口から見下ろしたところ。かつては水をたたえていました。
この堀が線路に転用されていた時代もあります。

真田昌幸が新たな居城として上田平に築城した城です。あまり大きな城ではありませんが、周囲の山城と連携することで効果を発揮し、徳川の大軍を二度にわたり撃破しています。真田氏が建造したものは家康によってすべて破却されており、現在の上田城はほとんどが仙石氏の時代のものです。

  • 読み:さなだしほんじょう
  • 別名:真田城、松尾城、松尾新城、住連寺城
  • 所在地:長野県上田市
  • 主要城主:真田氏
  • 文化財指定:上田市指定史跡(昭和47年4月1日)
  • 訪問日:平成18年3月11日、平成21年3月7日

天文年間(1532年~1555)に真田氏が築城したといわれていますが、鎌倉時代に横尾氏が築城したとも、前真田氏が現在の信綱寺にあった居館から居を移したともいわれています。
真田氏がこの城を本拠とし始めたのは、武田信玄の信州先方衆であった真田幸隆が天文二十(1551)に戸石城を攻略して小県周辺の所領をまかされた頃からと推定されています。
幸隆の死後は長男真田信綱が後を継ぎますが、天正3年(1575)の長篠の合戦で、武田側に参加していた信綱と次兄昌輝が戦死してしまいます。これにより、幸隆の三男武藤喜兵衛(真田昌幸)が家督を継ぐことになりました。
天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると真田家は自立の道を歩み始め、翌天正11年には上田平に新たな居城・上田城の築城を開始します上田城は天正13年(1585)に完成し、これにともなって真田氏本城は廃城となりました。

南東麓の幸村の郷からの遠望。
下から見上げると、この城が山城であることが実感できます。

主郭土塁。
すぐ近くまで道路が開いているため、容易にたどり着けます。

主郭。
土塁によって背後の大地と遮られています。

二郭。
写真は二郭の末端から主郭に向かって撮影したところです。
各郭は段差によって区切られ、堀切は見当たりません。

三郭。
三郭の周囲は傾斜のきつい崖になっています。

三郭から望む松尾古城
手前に真田郷、奥に四阿山が見えます。

三郭から望む戸石城

主郭から望む打越城洗馬城曲尾城横尾城

主郭の背後50メートルほどの所に設けられた堀切。
天白城の続きの峰を断ち切っています。

真田昌幸が上田城を築城する以前に、居城としていたと推定されている山城です。真田郷のほぼ中央にある小高い山に、自然の地形を巧みに利用して造られています。平時は南西麓の真田氏館が居館として利用され、戦時にはこの城で指揮を執ったと推測されます。ここからは上田盆地、真田郷を見渡すことができ、小県と上州を結ぶ街道を押さえるには絶好の場所といえます。

  • 読み:さなだしやかた
  • 別名:御屋敷
  • 所在地:長野県上田市
  • 主要城主:真田氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和42年10月23日)
  • 訪問日:平成19年5月19日

真田幸隆自身が築いたとも、嫡男真田信綱が築いたとも言われ、その築城時期は、武田信玄の信州先方衆であった真田幸隆が天文二十(1551)に戸石城を攻略して小県周辺の所領をまかされた頃からと推定されています。
幸隆の死後は長男真田信綱が後を継ぎますが、天正3年(1575)の長篠の合戦で、武田側に参加していた信綱と次兄昌輝が戦死してしまいます。これにより、幸隆の三男武藤喜兵衛(真田昌幸)が家督を継ぐことになりました。
天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると真田家は自立の道を歩み始め、翌天正11年には上田平に新たな居城・上田城の築城を開始します。上田城は天正13年(1585)に完成し、これにともなって真田氏館は廃されました。現在敷地に立つ皇大神宮は、館敷地の荒廃を防ぐため勧進されたものと伝えられています。

館の南面に設けられた大手門。
土塁の断面は半円形になっています。

西曲輪を北側から見たところ。
館内は東から西に向かって緩やかに傾斜しており、西曲輪は館内で最も低い箇所です。
西曲輪内は、グランドゴルフのコースになっています。

西曲輪の北西端に設けられた厩の跡。
このように厩の跡が残っているのは全国的にもあまり例がありません。

館の北面に設けられた搦手門。
大手門の反対側になります。

東曲輪。
つつじの名所にもなっています。

東南端部分。
この部分は、鬼門(北東)でもないのに鬼門除けのように角が内側に欠かれている奇妙な構造になっています。
ここには出入口が設けられていますが、後世になって造られたものです。

東曲輪内の皇大神宮。
昌幸が館跡の荒廃を防ぐために勧進したものです。館内の最高所で、屋敷はこの場所に建っていたと思われます。

真田昌幸が上田城を築城する以前に、平時の居館としていた館です。平時はここが居館として利用され、戦時には北東の小高い山に造られた真田氏本城で指揮を執ったと推測されます。

  • 読み:たつおかじょう
  • 別名:龍岡五稜郭
  • 所在地:長野県佐久市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:大給(おぎゅう)松平氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年5月1日)
  • 訪問日:平成18年7月29日、平成20年4月5日

三河奥殿藩の大給松平氏は、信州佐久に12,000石、三河に4,000石の領地を持ち、三河には本拠を、佐久には陣屋を置いて統治を続けていました。しかし、文久3年(1863)1月、前年の参勤交代制度の緩和により家臣の在国期間が長くなり、三河の4,000石の本領では手狭になったことから、最後の藩主松平乗謨(のりかた)は信州佐久への本領移転と新陣屋五稜郭の建設を願い出ます。翌元治元年(1864)3月から着工が始まり、3年後の慶応3年(1867)に竣工。地字名を取って龍岡城と名づけられました。
しかし、明治4年(1872)の廃藩置県とともに、兵部省は全国の城郭の取り壊しを布告。龍岡城は石垣と土塁を残し、払い下げられてしまいます。しかし、御殿の一部の御台所は、翌年の学制発布により学校としての利用が認められ、現在まで残されています。
龍岡城は、函館五稜郭とともに日本に二つしかない五稜郭で、貴重な史跡であることから、昭和9年(1934)に文部省指定の史跡になっています。

北東の凹部に設けられた大手門。
城内は大半が田口小学校の敷地になっています。

大手門の右手にある大給恒(おぎゅうゆずる)の胸像。
龍岡城を築いた最後の藩主松平乗謨は、明治2年に大給恒と改名しています。明治17年(1884)に子爵、明治40年(1907)には伯爵に叙せられています。
日本赤十字社の前身である博愛社の創設と育成に貢献し、「日本赤十字社をつくり育てた人」と称えられています。

大手門の東側の堀。
このあたりの堀の幅は最も広く、9.1メートルほどあります。

石垣の高さは堀の底から3.64メートル。最上部には石垣をよじ登ろうとする敵兵の侵入を防ぐ武者返しが設けられています。

北の凸角から大手門方向。
土塁の内側に見える建物は、田口招魂社です。

北の凸角から黒門方向。

北西の凹部に設けられた黒門。
内部に田口小学校の校舎が見えます。

西の凸角から黒門方向。
このあたりは資金不足で堀が造られていません。
石垣の上に設けられた土塁は、上部の武者走りで幅が2メートルほどあります。

西の稜堡付近にある御台所。
元は東の通用門の近くにありましたが、昭和4年(1929)に現在の位置に移されました。

西の凸角に設けられた砲台。

砲台を下から。
このあたりの石垣は配列を菱型にした亀甲積みです。

砲台から南方向。

南の凸角から砲台方向。
南の凸角は、なぜか角が丸くなっています。

南の凸角から穴門方向。
南の稜堡の外側には射撃場があったと伝えられています。

南の凹部。
この内側に穴門がありましたが、現在は校舎になっています。
堀はここから東回りで黒門まで造られ、水が湛えられています。

南東の凸角から穴門方向。

南東の凸角から通用門方向。

東の凹部に設けられた通用門。
グラウンドの向こうに移築された御台所が見えます。

通用門から南側。

北東の凸角から通用門方向。
通用門の向こうに体育館が見えます。

北東の凸角。

北東の稜堡から城内を見渡します。
かつてはグラウンドの中央あたりに御殿がありました。

日本に二つしかない五稜郭のうちのひとつです。もうひとつは、函館五稜郭です。函館のものよりも規模がかなり小さいので、地上からでも星型の城であることが実感できます。

  • 読み:といしじょう
  • 別名:砥石城
  • 所在地:長野県上田市
  • 主要城主:村上氏、真田氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和44年5月15日)
  • 訪問日:平成19年6月2日

天文10年(1541)、葛尾城に本拠を置く村上義清は、小県の海野平へ侵出。海野棟綱ら滋野一族を上州へと追いやります。戸石城は葛尾城の属城としてこの頃に整備されたものと考えられていますが、はっきりした築城年代はわかっていません。
天文19年(1550)9月、北進する武田信玄は村上氏の支配する戸石城を攻撃します。しかし10日たっても落城の気配はなく、さらに背後の寺尾城が攻撃を受けているとの報を受け、撤退を開始します。そこへ村上義清の軍が追撃をかけ、殿軍の横田高松ら1000人あまりが戦死。この戦は武田信玄の数少ない負け戦の一つとして、「戸石崩れ」の名で語られています。翌天文20年(1551)、信玄は配下の真田幸隆に戸石城の攻略を命令。幸隆は謀略を用い、僅かな手勢を率いてあっさりと戸石城乗っ取りに成功します。どのような謀略を用いたかははっきりとしていませんが、海野平に縁のある幸隆が城内に内通者を出させたのではないかとも言われています。
その後、戸石城は真田幸隆に預けられ、武田氏滅亡後も真田氏の拠点の一つとなりました。上田城が築城されてからは、上田城の背後を守る役目を負い、二度にわたる徳川との戦いでは重要な役割を果たしています。
元和8年(1622)、真田信幸の松城転封にともない、戸石城は廃城となりました。

矢沢城から見た戸石城。
戸石城、本城、枡形城、内小屋、米山城からなる複合城砦群です(米山城を戸石城と別の城とする考え方もあります)。

戸石城登山口。
この道は米山城への大手になっています。

上の写真の道をしばらく登っていくと、このような分岐に出ます。奥が米山城、右手前が戸石城、左手前が登山口です。
この場所は馬場と伝えられていますが、この尾根に馬を放せるのか、また放す必要があるのかは疑問です。

米山城

馬場から米山城側。
写真ではわかりづらいですが、かなりの急坂で昇り降りは大変です。

急坂を登っていくと、このような石垣の名残が見られます。
この裏手は米山城の主郭になっています。

米山城主郭。
村上義清の碑が建っています。

米山城二郭。
主郭の南に一段低くなった二郭が設けられています。

米山城三郭。
二郭のさらに南に三郭が設けられています。
主郭・二郭ほどの広さはない簡素なものです。

三郭の下に設けられた腰曲輪。
写真の右手前から、ふもとへ続く細い道が続いています。

戸石城

戸石城・米山城連絡路。
馬場から戸石城側。偽木の階段が延々と続いています。この上には岩場もあります。

戸石城主郭。
戸石城は南側を望む高台にあり、南方に注意を払う物見台としての役目を負いました。

戸石城主郭からの展望。
手前の森が米山城。その奥に上田市街が望めます。

主郭の北側はこのような切岸になっていて、戸石城の物見台としての性質がよくわかる構造をしています。 。
現在は写真の右側に上へ登る道が造られていますが、往時は梯子を使って昇り降りしていたと伝えられています。

本城

本城大手口。
戸石城から北へ行くと、平坦な幅広の尾根が広がります。
手前が戸石城。右は本城への大手の道で、内小屋からつながっています。

本城四郭。
本城は戸石城郭の中で最も規模が大きく、広い曲輪が南北に6つ連続しています。

主郭の虎口の脇に残る石垣跡。
戸石城は基本的に土の城ですが、このような石垣も所々に用いられました。

本城主郭。
戸石城郭群の中枢部で、居館が置かれていました。

主郭背後の堀切。
戸石城主郭の背後にも堀切がありますが、こちらのものはよりはっきりと残っています。

主郭背後の堀切の北に、矢の材料にしたと思われる矢竹の名残があります。

枡形城

本城主郭から北へ向かうと、枡形城主郭の南に設けられた腰曲輪に行き当たります。

北方に睨みを利かせる枡形城主郭。
戸石城砦群の最高地点で、ここが本城となったこともあります。

枡形城の名前の由来となった南虎口の枡形。規模はかなり小さなものです。

主郭の北には深さ2メートルほどの空堀が設けられ、その先に小さな曲輪が造られています。

枡形城からの展望。
真田郷から上信国境までを一望できます。

内小屋

山麓の陽泰寺。
この背後の山の上は本城になります。

三方を尾根に囲まれた内小屋。
家臣団の住居跡と考えられています。

内小屋はほとんどが農地化していますが、このような堀切の名残も見られます。

大手口。
内小屋から本城へ至る道の入口で、本来の大手口です。

真田昌幸が上田城を築く以前の真田氏の拠点の一つ。戸石城、本城、枡形城、米山城、内小屋からなる複合城砦群です(米山城は戸石城に含めない場合もあります)。 遊歩道は整備されていますが、それでも武田信玄を退けた城というだけのことはあり、生半可な気持ちでこの城に登るのは困難を極めます。

  • 読み:まつおこじょう
  • 別名:松尾城、角間の城
  • 所在地:長野県上田市
  • 主要城主:真田氏
  • 文化財指定:上田市指定史跡(昭和47年4月1日)
  • 訪問日:平成19年6月16日

築城年代や歴史的背景は定かではありませんが、真田幸隆以前の前真田氏によって築城されたのではないかと考えられています。真田氏以降は、小県・吾妻間の街道監視の役目を負っていたものと思われます。

真田氏本城から眺める松尾古城。
鉄塔の上のピークが遠見番所、その下のピークが松尾古城主郭です。

松尾古城への登山口。
このすぐ上に日向畑遺跡があります。ここの石垣は松尾古城のものと同じ積み方です。

日向畑遺跡。
上田市指定史跡で、幸隆以前の前真田氏の墳墓と考えられています。また、この辺りは真田氏の角間屋敷の西端と考えられています。

日向畑遺跡の東に位置する安智羅明神宮。
十二神将像が安置されていましたが、そのうち安智羅像は幸隆をモデルにしているといわれています。

日向畑遺跡の脇から西へ向かって続く登山道。
この道は後世造られたもので、大手の道は別にあります。

秋葉社。
上の写真の道は、尾根に出て大手の道とぶつかります。大手の道を尾根沿いに登るとこの秋葉社が見えてきます。

秋葉社の上にはこのような岩場がありますが、現在では取り巻きの道がつけられています。

さらに登ると、このような尾根閉塞の石垣が見えてきます。
この上は五郭にあたります。

高さ3メートルになろうかという石垣。
この上は四郭になります。

松尾古城で最も広い曲輪である二郭。
馬場と伝えられますが、麓からここまで馬を連れてこられないように思えます。

主郭。
二郭から少し登ったところに主郭が設けられています。このような石垣が周囲を取り囲むいびつな三角形の曲輪です。

深さ10メートルにも及ぶ主郭背後の堀切。
左が主郭、右の尾根を登っていくと遠見番所です。

遠見番所

主郭から30分ほど尾根を登るとこのような鉄塔が見えてきます。現在の遠見番所付近で見晴らしが効くのはここだけです。

鉄塔からの展望。
真田郷、真田氏本城戸石城、上田市街が一望できまする。写真ではわかりづらいですが、遠く北アルプスも見えます。

遠見番所。
鉄塔から20分ほど登ると尾根道は平坦になり、尾根を閉塞する石垣が現れます。石垣は麓へ向かって口をあけたコの字型をしています。狼煙台として使われていたと考えられています。

上の写真の反対側から。
石垣の裏側はこのようになっています。城が現役の頃はここから上の写真のような景色が見えていました。

西上州へ抜ける鳥居峠、角間峠、和熊峠の三峠を把握する松尾山の中腹に松尾古城は築かれています。土塁の代わりに石垣が築かれ、「石塁」とも呼ぶべき遺構が残っています。さらに上には「遠見番所」と呼ばれる曲輪があります。
麓の角間集落には、前真田氏の墳墓と推定される日向畑遺跡や、安智羅明神宮など真田氏にゆかりのある遺構が残されています。

  • 読み:まつもとじょう
  • 別名:深志城、烏城
  • 所在地:長野県松本市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:島立氏、坂西氏、小笠原氏、石川氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和5年11月19日)、国宝(天守)(昭和27年3月29日)
  • 訪問日:平成19年9月2日、平成24年3月20日

松本城は元の名を深志城といい、永正年間(1504~1520)に小笠原氏が建てた林城の支城のひとつとして建てられたのが始まりといわれています。天文年間(1532~1554)になると、甲斐の武田信玄の進攻を受け天文19年(1550)、小笠原氏は没落。信玄は林城を破棄して深志城に大幅な改良を加え、北信濃進攻の拠点とします。

天正10年(1582)に武田氏が滅びると、大大名の空白地となった信濃に徳川家康が進出。その配下になった小笠原貞慶が旧領を回復し、深志城は松本城と改められました。天正18年(1590)に小田原征伐によって北条氏が滅びると、徳川家康は関東に移封、配下の小笠原秀政も下総古河へ移り、松本城へは石川数正が入場します。石川氏によって天守、城郭が整備されますが、数正の子康長が大久保長安事件によって改易され、小笠原秀政が松本城へ復帰。大坂の陣以降は、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田松平氏の居城として機能しました。

本丸の北西、若宮八幡跡から埋橋越しに望む松本城天守。
かつて天守最上階には廻縁(バルコニー)がありましたが、後に廻縁部分の外側に壁が造られたため、頭でっかちな印象を受ける天守になっています。
赤い埋橋の先には本丸の入口の埋門があります。

二の丸の南西から望む天守。

本丸御殿跡から望む天守。
五重六階の天守の右に三重四階の乾小天守、左に月見櫓が造られています。

埋橋から見る内堀。
かなりの幅があります。

天守の脇にある清正馬繋ぎの桜。
加藤清正がこの城を訪れたときにここに馬をつないだといわれていますが、清正が本丸まで馬を曳くような真似をしたかどうか疑問です。

月見櫓の脇の水門。
内堀へ出られる船着場になっています。
※写真提供:phos様

天守最上階から見下ろした本丸。
写真中央には本丸御殿跡があり、瓦でその区画が平面復元されています。

本丸の南の端に設けられた黒門。
昭和35年(1960)に復元されたものです。

本丸の北の門。

二の丸の東に設けられた太鼓橋。
平成11年(1999)に復元されたものです。

太鼓橋から見た外堀。

天守内部

乾小天守1階。
天守の北にあるのに「乾(北西)」小天守と名づけられたのは、北は「敗北」につながるからだといわれています。

天守に設けられた狭間。
手前が矢狭間、奥が鉄砲狭間です。

天守3階。
天守3階には窓がなく、外からはその存在がわからないようになっています。

天守4階。

天守4階に設けられた御座所。
非常時には城主はここへ詰めるようになっていたようです。

天守5階の破風。
破風内部は武者隠しになっていたといわれています。

天守6階。
最上階です。壁際にかつての廻縁の名残が見られます。

6階から上を見上げると、二十六夜様が祀られているのが見えます。
享保の火災のときに、天守を火から守ったとされています。

月見櫓内部。
赤い手摺のある廻縁が設けられています。 現存する城郭建築の中で天守と一体となった月見櫓を持つのは松本城だけです。

松本城は松本市街の中央に造られた城で、現存天守は国宝に指定されています。ユネスコ世界文化遺産の暫定リストにも記載されています。松本城は松本市の一大観光地で、いつでも多くの見物客でにぎわっています。

  • 読み:あいづわかまつじょう
  • 別名:鶴ヶ城、黒川城
  • 所在地:福島県会津若松市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科・松平氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年12月28日)
  • 訪問日:平成20年9月10日

佐原一族の芦名直盛が、正平3年(1384)に城を築いたのが始まりといわれています。この頃の城は黒川城と呼ばれていました。芦名氏は、同じく佐原氏の出である猪苗代の猪苗代氏に対しては、対立と支配を繰り返しますが、最終的に天正17年(1589)の摺上原の戦いの直前、猪苗代盛国が米沢の伊達政宗に内応、芦名氏は滅亡に追い込みまれ、会津には伊達氏が入りました。

その後、小田原の役での伊達氏の遅参による仕置で伊達氏が領地を没収されると、会津には蒲生氏郷が入部しました。氏郷によって城は大改修を受け、天守は七重にも及ぶ壮大なものが築かれました。しかし、文禄4年(1595)の氏郷の急死によって蒲生氏が没落すると、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命で蒲生氏は宇都宮へ転封となり、代わって上杉景勝が越後から入部します。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に組した景勝は米沢30万石に減封され、会津には宇都宮から蒲生秀行が再入部します。しかし、秀行の後を継いだ忠郷が跡継ぎを残さずに急死し、寛永4年(1627)に蒲生氏は伊予山30万石へ転封となり、入れ替わりで加藤嘉明が入部します。嘉明は天守を現在の五重のものに改めますが、息子の明成の時代の寛永20年(1643)に家中騒動の末改易させられ、会津には保科氏(3代藩主正容の時に松平氏を名乗る)が入り、以後、戊辰戦争まで松平氏の支配が続きます。

最後の藩主・松平容保は京都守護職に就き、京都の治安維持に当たり尊王討幕派の取り締まりに当たっていましたが、慶応3年(1867)に薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と鳥羽伏見で衝突。会津藩は旧幕府側に組して新政府軍と戦い、会津戦争では篭城を図るも降伏。会津藩は領地を没収され、明治新政府の直轄領となりますが、明治2年(1869)に嫡男・容大は家名存続を許され、陸奥国斗南(現在の青森県むつ市)に斗南藩(3万石)を興しました。しかし間もなく明治4年(1871)の廃藩置県で斗南藩は廃藩となりました。

西出丸。
現在は有料駐車場になっています。

西出丸と帯郭をつなぐ土橋。
高さのある土塁の設けられた立派な土橋です。

帯郭枡形。
西出丸から土橋を通ってきたところです。

鉄門。
柱や扉の木の部分を全て鉄で覆っているためこの名がつきました。

鉄門前から見た帯郭内の様子。

鉄門から見上げた天守。現在の天守は昭和40年(1965)に再建されたものです。

北出丸の様子。
北出丸は加藤明成の時代に、馬出しを改良して造られたもので、大手を守る重要な場所になっています。
北出丸に侵入した敵を、西、東、南の三方から攻撃することができたことから、「皆殺し丸」ともいわれています。

大手に当たる椿坂。
北出丸と本丸をつなぐ城への玄関口です。

太鼓門。
椿坂を登りきると現れる大手門です。
かつて太鼓が置かれ、藩士の登城の際には太鼓が鳴らされたことから太鼓門と呼ばれています。

帯郭と本丸をつなぐ門。

本丸の東に位置する二の丸と本丸をつなぐ廊下橋。
加藤明成による大改修前までは、ここが大手でした。
芦名氏の時代には屋根のついた廊下造りだったため、廊下橋と呼ばれています。

廊下橋から南側の堀を見たところ。
このあたりの石垣は高さ20メートルを超え、忍者落としと呼ばれています。

廊下橋を渡り帯郭に入ったところの枡形。

本丸内部から見た天守。
天守、多門櫓、鉄門が一体となっている様子がわかります。
手前は本丸御殿跡です。

鉄門付近から見た南走長家と干飯櫓。
平成13年(2001)に復元されたものです。

本丸の東南端に築かれた月見櫓。
ここから眺める月が絶景であったことからその名がつきました。

月見櫓の北に築かれた茶壷櫓。

本丸内部に築かれた御三階。
数寄屋風の楼閣状の建物が建っていました。
現在は市内の阿弥陀寺に移築されています。

茶室麟閣。
蒲生氏郷に匿われた千利休の弟子・少庵が、その恩義に報いて建てたものです。

廊下橋前から見た二の丸の様子。
現在はテニスコートになっています。

二の丸の南端の石垣。

二の丸の堀の南端。
何かが釣れるらしく、釣り人の姿が見られます。

二の丸の堀の東側。

二の丸と三の丸をつなぐ土橋部分。

三の丸。
遺構はほとんどなく、現在は県立博物館が建っています。

三の丸の南側部分。
この辺りには土塁が残っています。

三の丸の南端の南門。
この石垣は後世の改変で、往時は土塁の門でした。

南門付近から見た三の丸の堀。

天守からの展望

北東の展望。
白虎隊が終焉を迎えた飯盛山が見えます。

南東の展望。
小田山が見えます。明治新政府軍はここから会津若松城に向けて砲撃をしました。

南西の展望。
会津若松城の支城だった岩崎山城(向羽黒山城)が見えます。

会津若松市の旧市街の南端に築かれた城です。鶴ヶ城の呼び名で知られていますが、「鶴ヶ城」は通称で、国の史跡としての名は「若松城跡」です。会津戦争で明治新政府軍の攻撃を受け荒廃しましたが、天守、南走長家、干飯櫓が再建され、現在は鶴ヶ城公園になっています。

  • 読み:いなわしろじょう
  • 別名:亀ヶ城
  • 所在地:福島県耶麻郡猪苗代町
  • 主要城主:猪苗代氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科・松平氏
  • 文化財指定:福島県指定史跡(平成13年3月30日)
  • 訪問日:平成20年9月20日

源頼朝によって猪苗代の地頭に任じられた佐原経連によって築かれたといわれていますが、その築城年代ははっきりしていません。佐原氏は後に猪苗代氏を名乗り、同じく佐原氏の出である若松の芦名氏に対しては、反逆と従属を繰り返します。最終的に天正17年(1589)の摺上原の戦いの直前、猪苗代盛国が米沢の伊達政宗に内応、芦名氏を滅亡に追い込みました。その後、小田原の役での伊達氏の遅参による仕置で伊達氏が領地を没収され会津を離れると、猪苗代氏も猪苗代を離れ、400年に及ぶ猪苗代氏の支配は終焉を迎えます。
その後、会津領主は蒲生氏、上杉氏、蒲生氏、加藤氏、保科・松平氏と続き、猪苗代城は会津の重要拠点として城代が置かれました。寛永20年(1643)に保科正之が会津藩主になると、その後明治維新まで保科・松平氏(3代藩主正容の時に松平氏を名乗る)による支配が続きました。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、会津藩は東軍(奥羽越列藩同盟、新選組)に属し、西軍(薩摩藩、長州藩)と戦いますが、母成峠の戦いで西軍が東軍を破って会津に侵入すると、猪苗代城代高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、猪苗代城はその役目を終えました。

城の南側、猪苗代町役場付近から見た猪苗代城。
中央の木々の茂る山が猪苗代城です。背後に聳える山は磐梯山です。

城の東麓に築かれた二の丸馬場。
現在は駐車場になっています。

城址公園入口の枡形門の跡。
石垣がはっきりと残っています。
大手門はさらに東側の三の丸にありましたが、三の丸は宅地化、農地化が著しく、往時の面影は見られません。

枡形門をくぐったところ。
写真右側の三本の杉の下には、三本杉の井戸の跡が見られます。
階段は昭和30年ごろの失業対策事業で造られたもので、遺構ではありません。

上の写真の道を登ると現れる虎口。
上へ登ると本丸の城壁に突き当たり、左へ向かうと胴丸に行き当たります。

上の写真を左に行くと現れる胴丸。
写真は南から北側へ向かって撮影したものです。

虎口から登ったところを、二の丸から見下ろしたところ。
下から登ると、道が突き当たり左右に分かれる様子がよくわかります。道を右に曲がると本丸、左へ行くと二の丸へ行けます。

二の丸の北の虎口。
おそらくはこちら側が大手の道だったと思われます。

二の丸の南側にある、アメリカから寄贈された野口英世の頭部像。
野口英世は猪苗代町の出身で、幼い頃は猪苗代城の城跡でよく遊んでいたといいます。

野口英世像付近から見た二の丸。
写真左上は本丸です。その右には二の丸の北の虎口が見えます。

本丸の南に位置する黒門。
二の丸と本丸を仕切っていました。

上の写真に写っている展望台から本丸を見下ろした様子。
本丸を囲む土塁がよく残っているのがわかります。

本丸の土塁上から西側を見下ろした様子。
空堀が二重構造になっている様子がわかります。

二重空堀の下側の堀の内部の様子。
かなり広く、腰曲輪といってもいいほどです。

二の丸の南側から望む景色。
写真ではわかりづらいですが、水田の広がる先に猪苗代湖が見えます。

本丸の北側から望む景色。
手前の緑の屋根の建物は猪苗代小学校、高く聳える山は磐梯山です。

本丸の北側に位置する曲輪。
現在は児童公園になっています。
左の土塁の上は本丸です。

上の写真の下に位置する稲荷社。

稲荷社の西側に位置する曲輪。
現在は農地になっていますが、往時は城代屋敷がありました。

猪苗代湖北岸に広がる平地のほぼ中央に位置する丘の上に築かれた城です。丘の上の本丸、二の丸と、その東麓に広がる三の丸がありましたが、三の丸は宅地化、農地化が進み遺構はほとんど見られません。
伊達氏が芦名氏を滅ぼして以降、猪苗代城は会津若松城の支城となり、会津若松城の支配者が代わっても、戊辰戦争まで一貫して会津若松城の支城としての役目を果たし続けました。

  • 読み:にほんまつじょう
  • 別名:霞ヶ城、白旗城
  • 所在地:福島県二本松市
  • 主要城主:畠山氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年9月10日

二本松城は、応永21年(1414)に畠山満泰によって築かれたのが始まりとされています。畠山氏は南北朝時代から二本松周辺を支配していましたが、天文13年(1585)に伊達氏との抗争に敗北し降伏。以後、二本松城は伊達氏のものとなり、伊達氏は米沢、会津、二本松を支配します。
その後、会津の領主は伊達氏、蒲生氏、上杉氏、蒲生氏、加藤氏とかわり、寛永20年(1643)に会津には保科氏が、二本松には白河から丹羽氏が入り、以後、戊辰戦争まで丹羽氏の支配が続きます。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、二本松藩は奥羽越列藩同盟に組して新政府軍と戦い、白河口の戦いでは12~3歳の少年兵も動員されました。戊辰戦争後、二本松藩は減封され、明治4年(1871)の廃藩置県で二本松藩は廃藩となりました。

山上部

本丸の東側、乙森の曲輪からみる本丸。
乙森までは車で来ることができます。

本丸の下南面に残る大石垣。
二本松城に残る最も古い石垣の一つです。

本丸虎口。
典型的な枡形構造になっています。

天守台。
実際には天守台の上に天守は築かれませんでした。

天守台の脇にある城代丹羽和左衛門と勘定奉行安部井又之丞の自尽の碑。

東櫓台。
天守台と石垣でつながっています。

西櫓台。
向こうに見える山は安達太良山です。

天守台の北西面下に残る二重石垣。
天守台の構築を意識して造られた、二本松城最古の石垣の一つです。

本丸の西にある搦手門。
かなり大規模な石垣が築かれています。

本丸の北には、このような空堀も残されています。

山麓部

山麓部大手の千人溜にある二本松少年隊の像。
戊辰戦争では12~3歳の少年兵が動員され、その多くが討ち死にしました。
後ろは箕輪門。

二本松城の正門にあたる箕輪門。
戊辰戦争で灰燼に帰しましたが、昭和57年(1982)に再建されました。

箕輪門前から見た千人溜。
戊辰戦争では実際にここに兵が集結し、出撃していきました。

三の丸。
秋には菊人形展が開催されます。

千人溜の西から見上げた三の丸の様子。

三の丸の北西に造られた洗心亭。
城内にいくつかあった茶亭の一つ。天保8年(1837)に崖崩れのために阿武隈河畔へ移築したものを、明治31年(1898)に再移築したものです。

丹羽氏の時代の面影を残す「るり池」。
池の水は安達太良山の中腹から二合田用水で引水されたものです。

二本松市街の北に位置する山に築かれた平山城です。伊達氏の時代以降、会津若松城の支城の役割を果たしてきましたが、二本松が会津から分離すると、二本松藩の拠点となりました。
丹羽氏の時代には、政庁としての役割は山麓部に移り、山上部は使用されていなかったものと思われています。

  • 読み:よねざわじょう
  • 別名:舞鶴城、松ヶ岬城
  • 所在地:山形県米沢市
  • 主要城主:長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年9月11日

米沢城は、暦仁元年(1238)に長井郷の地頭に封ぜられた大江時広が築城したと伝えられています。時広は赴任地の地名から長井氏を名乗り、以後150年近く長井氏の支配が続きました。室町時代初期には伊達宗遠が長井広房を追い、米沢は伊達氏の支配下に入りました。
天文17年(1548)には晴宗が桑折西山城から米沢城へ本拠を移し、永禄10年(1567)には息子の政宗がこの城で生まれています。天正17年(1589)に政宗は芦名氏を破って領地を会津へ広げますが、天正18年(1590)の小田原の役への遅参による仕置を受け、天正19年(1591)に領地を没収され岩出山城へ移封となり、代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷が米沢を支配します。しかし、文禄4年(1595)の氏郷の急死によって蒲生氏が没落すると、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命で蒲生氏は宇都宮へ転封となり、代わって上杉景勝が越後から会津に入部。米沢城には直江兼続が入りました。米沢城は兼続の時代に改修を受け、現在の規模になっています。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍支持を表明した上杉氏は、領地を伊達・信夫・置賜の30万石に減らされ、以後、明治維新まで米沢城は上杉家の居城となりました。寛文4年(1664)には、上杉綱勝が嗣子を定めないまま急死。綱憲を養子と迎えることを認められたものの領地は置賜15万石に減らされ、米沢藩の財政は逼迫することになりましたが、明和4年(1767)に藩主となった治憲(鷹山)の藩政改革により、財政再建を果たしました。
戊辰戦争では奥羽列列藩同盟に組し、明治新政府軍と戦いますが降伏。その後は新政府軍に加わり、庄内藩に兵を出しています。戊辰戦争後は14万7000石に減封されたものの家名は存続し、明治4年(1871)の廃藩置県で廃藩となりました。
現在は、本丸が上杉神社になっています。

本丸の東側入口にあたる舞鶴橋。
奥に上杉神社の本殿が見えます。

舞鶴橋から見た本丸の堀。

舞鶴橋から本丸に入ってすぐのところに、伊達政宗生誕の地の碑が建っています。

伊達政宗生誕の地の碑の隣に立つ9代藩主上杉鷹山像。
逼迫した米沢藩の財政再建を果たした藩主です。

本丸奥御殿の跡に建つ上杉神社本殿。
上杉家の祖・謙信と、中興の祖・鷹山を祀っています。

上杉家の祖・上杉謙信の像。
本丸の東側に立っています。

二の丸から本丸北西端を見たところ。
土塁の上に三層の隅櫓が建っていました。

西参道の様子。
門の跡と枡形が残っているように見えますが、後世の改変で、往時はここに入口はありませんでした。

北参道の様子。

北参道から見た堀の様子。
このあたりの幅が最も広く、30メートルほどあります。

本丸北東端に建つ上杉曦山(13代藩主斉憲)の碑。
往時にはここに北西端と同じような三層の隅櫓が建っていました。

本丸南東端。
ここは周りよりも少し高くなっていて、上杉謙信の遺骸を祀る御堂の跡(写真左)と、招魂碑が建っています。

南参道の菱門橋。

本丸北西端に建つ春日神社。
元は越後の春日山城にありましたが、上杉氏の米沢への移封にともなってここへ移されました。
大正8年(1919)の米沢大火で上杉神社と共に焼失し、松岬神社に合祀されていましたが、昭和56年(1981)に再建されました。

二の丸東部、世子御殿跡に建つ松岬神社。
上杉景勝・直江兼継・竹俣当綱・莅戸善政・上杉治憲(鷹山)・鷹山の師、細井平洲の6人が祀られています。

二の丸南部に建つ上杉伯爵邸。
明治29年(1896)に上杉茂憲伯爵の本宅として建てられましたが、米沢大火で焼失。現在の建物は大正11年(1922)に再建されたものです。

上杉伯爵邸の南と東を取り囲む堀。

米沢市のほぼ中央に位置する平城で、方形の本丸を二の丸がぐるりと取り囲む輪郭式の城郭です。伊達氏、上杉氏といった大大名が居城としましたが、天守は造られず、石垣も用いられない質素な土塁の城となっています。
現在は本丸に上杉神社、二の丸東部に松岬神社と上杉博物館、二の丸南部に上杉伯爵邸が建っています。

  • 読み:あさかいよりいじょう
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県南魚沼郡湯沢町
  • 主要城主:上杉氏
  • 文化財指定:湯沢町指定史跡(昭和46年6月1日)
  • 訪問日:平成20年11月8日

元亀2年(1571)、関東管領上杉謙信が三国峠越えのための宿所として苗場に築いた城です。以後、謙信は関東進出の度にこの城を宿所として利用しました。

主郭。
往時は主郭の下に二郭、三郭が続く連郭式城郭でしたが、現在は開発が進み主郭のみが残されています。

主郭の土塁。

上杉謙信が関東進出の宿所として築いた城です。謙信はこの城で一泊してから三国峠を越え、関東へ出向いていきました。同じように上州側の猿ヶ京にも宿所(宮野城)が築かれました。
現在はホテル、リゾートマンションなどの開発により主郭のみが残されています。

  • 読み:あらとじょう
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県南魚沼郡湯沢町
  • 主要城主:上杉氏、北条氏
  • 文化財指定:新潟県指定史跡(昭和51年5月31日)
  • 訪問日:平成20年11月8日

天正6年(1578)に上杉謙信が急死した後、上杉景勝(坂戸長尾氏出身)と上杉景虎(北条氏出身)が後継者の座をめぐって争った御館の乱の際、景勝が景虎支援の北条氏の侵攻を防ぐために築いた城です。同年8月、北条氏はこの城を奪い取り、さらに北の坂戸城を攻めます。しかし、同盟関係にあった武田氏が景勝支援回り、さらに景虎本人が殺されたこともあって、北条氏の越後進出はうまくいかず、翌天正7年(1579)3月、景勝派が荒戸城を奪還します。以降、荒戸城は三国峠を押さえる番所として機能し、上杉氏が会津へ移った後も、幕末までその機能を有しました。

国道17号の芝原トンネルの真上に残る旧三国街道。
この先から上へ登る道が荒戸城の大手です。

大手口。

大手口から5分ほど登ると二郭の下に到着します。
下草もなくきれいに整備されています。

馬出し。

二郭。
坂の上は主郭になっています。
二郭の一部は主郭西側に向かって細長く伸び、腰曲輪のようになっています。

二郭の腰曲輪部分には竪堀が築かれています。

主郭虎口。
写真は二郭から登ってきたところです。

主郭。
土塁もしっかりと残っています。

三郭へ続く主郭虎口。

三郭。
土手の上が主郭になっています。

三郭から降りてきたところに搦手が設けられています。

北条氏による御館の乱への介入を防ぐために築かれた山城です。国道17号芝原トンネルの真上にある芝原峠に築かれています。一時北条氏に占領され、北条氏の北方最大進出線となりました。
大きな城ではありませんが、下草がまったくなく、とても見学しやすい城です。

  • 読み:ほそのしやかた
  • 別名:大高山城
  • 所在地:群馬県吾妻郡六合村
  • 主要城主:細野氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:未踏査

寿永3年(1184)の粟津の戦いで源義経軍に敗れた木曽義仲の配下であった細野御殿介が、義仲の胤を宿した娘を守り隠れ住むために築いた館といわれています。建久4年(1193)、源頼朝が浅間山北麓に狩りに訪れた際に御殿介はその案内をし(ただし頼朝の浅間狩りは伝説)、草津温泉を発見したことから湯本の姓と草津の地を与えられ、戦国時代に真田氏に仕えた湯本氏の祖となったと伝えられています。

細野氏館遠望。
上信国境の大高山の麓・細野平(天狗平)に細野御殿介が隠れ住んだ館があったと伝えられています。
周囲にはミドノ(御殿)尾根、オッタテ(御館)の峰など、細野氏館に由来するような地名も残されています。

上信国境大高山の麓、標高1700メートルの高地に築かれたといわれる館です。実際に細野氏が隠れ住んだかどうかは定かではありませんが、由来不明の石垣が付近から発見されるなど、人の住んだ形跡が残されています。

  • 読み:こうふじょう
  • 別名:舞鶴城、甲斐府中城
  • 所在地:山梨県甲府市
  • 主要城主:平岩氏、羽柴氏、加藤氏、浅野氏、徳川氏
  • 文化財指定:山梨県指定史跡(昭和43年12月12日)
  • 訪問日:平成19年9月1日

甲府城のある小山は、古くから城として利用されていたようです。この場所に城が置かれたことが文献に登場するのは、天正11年(1583)のことで、徳川氏配下の平岩親吉によって城が築かれたのが始まりとされています。
天正18年(1590)に小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、国替えにより徳川家康は関東に移封され、甲府には羽柴秀勝が入ります。秀勝の死後は、加藤光泰、浅野長政・幸長らが城主となりました。
関ヶ原の戦い後には、甲府は再び徳川氏のものとなり、甲府城には城代が置かれました。
現在、城址は舞鶴城公園、山梨県庁、甲府駅になっています。

舞鶴城公園の北西の入口に当たる内松陰門。

本丸の西の入口になっている銅門。
写真は本丸の内部から撮影しています。

本丸。
甲府城の本丸はかなり凸凹しています。
本丸の東側には天守台が設けられていまが、どのような天守が造られていたのかはわかっていません。

天守台の上から本丸の南半分を見たところ。
石垣の上へ登るための石段が設けられているのがわかります。

天守台の上から本丸の北半分を見たところ。
甲府城が甲府市街の真っ只中にあることがわかります。

天守台の上から北側に位置する稲荷曲輪を見下ろしたところ。
写真中央は近年復元された稲荷櫓です。

稲荷曲輪。
写真は西から東に向かって撮影したところです。

稲荷櫓。
内部は見学可能です。

中の門。
本丸の南側を降りたところです。

二の丸を北から南に向かって撮影したところです。
現在は武徳館が建っています。
石垣の上は本丸です。

二の丸から楽屋曲輪を見下ろしたところ。
現在は山梨県庁が建っています。

本丸の南に位置する鍛冶曲輪。
石垣の一段上が天守曲輪。さらに上が本丸です。

甲府市街の真っ只中。城域に甲府駅や山梨県庁など、山梨県の重要施設を抱える城です。城址公園化され、櫓などの復元が進んでいますが、忠魂碑などが建ち、改変部分も多く見られます。天守台の上に乗っていたであろう天守については資料が発見されていないため、復元がなされていません。

  • 読み:たけだしやかた
  • 別名:躑躅ヶ崎館
  • 所在地:山梨県甲府市
  • 主要城主:武田氏、平岩氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和13年5月30日)
  • 訪問日:平成19年9月1日

永正16年(1519)、武田信虎がそれまで石和にあった居館をこの地に移したのが始まりとされています。以後、信虎、信玄、勝頼の三代に渡り、武田氏の本拠となります。
しかし、天正3年(1575)の長篠の合戦の大敗を受け、勝頼は韮崎の七里岩に居城を移すことを決定。真田昌幸に新府城の築城を命じ、天正9年(1580)12月に居を移しました。このとき、古府中の居館は徹底的に破却されています。
天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田信長配下の川尻秀隆が甲府に入りますが、本能寺の変後に甲斐国内に起きた一揆で川尻秀隆は殺害されます。その後、北条氏と徳川氏が甲斐の領有をめぐって争いますが、和睦により甲斐は徳川領となり、武田氏館跡に平岩親吉が入ります。平岩親吉は翌天正11年(1583)には甲府城の築城を開始。天正18年(1590)に徳川家康が関東へ移封させられると、甲府には羽柴秀勝が入ります。平岩親吉は甲府城を完成させて移ったため、古府中の館はこの時廃城となりました。

武田氏館は現在、武田神社となっています。
写真は館南の正面入口ですが、神社建設に伴って造られたもので、本来の虎口はここにはありません。

正面の堀。
案内板によると幅は10間(約18メートル)。本来は空堀だったようです。

館の東、大手馬出し。
土塁の跡が見られます。

館の東の虎口、大手門。

武田神社の境内となっている主郭。
主郭は一辺200メートルほどの正方形の曲輪になっています。
写真は神社拝殿前から西に向かって撮影しています。

武田神社拝殿。
武田信玄が祀られています。

主郭内部にある信玄公御使用井戸。

主郭と西曲輪を結ぶ土橋。

西曲輪。
西曲輪は主郭の半分ほどの広さです。
勝頼の時代に増築されたものといわれています。

西曲輪には洋風の藤村記念館が建っています。

西曲輪の南側の虎口。

西曲輪の北部から、堀越しに主郭の天守台を見たところです。
この天守台は平岩親吉の時代に造られたもので、高さは15メートルほどあります。

西曲輪の北に位置する北曲輪。
土塁の跡が残っています。
ここも勝頼の時代に増築されたものといわれています。

現在の甲府市街の北部に位置する城郭跡で、現在は武田信玄を祀る武田神社になっています。信虎、信玄の時代は主郭だけの小さな館でしたが、勝頼の時代に西曲輪、北曲輪など拡張工事が進められています。

  • 読み:しんぷじょう
  • 別名:新府中韮崎城
  • 所在地:山梨県韮崎市
  • 主要城主:武田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和48年7月21日)
  • 訪問日:平成19年9月2日

天正9年(1581)に武田勝頼が配下の真田昌幸に命じて築城させた城です。正式名称は新府中韮崎城といい、同年12月に、甲府にあった拠点をまだ築城中の新府城に移しました。翌天正10年(1582)、織田・徳川の甲斐進行が始まると、未完の新府城は勝頼の手によって火を放たれて破棄されてしまいます。真田昌幸は岩櫃城での体勢の建て直しを進言しますが、勝頼は聞き入れず、小山田信茂の岩殿城へ移ることを決めます。しかし3月11日、笹子峠にて信茂の謀反に遭い、岩櫃城を目指し天目山へ入ったところを滝川一益の軍勢が立ち塞がり、勝頼親子は自刃。甲斐武田氏は滅亡しました。
その後、新府城の廃墟は信長や家康によって陣所として利用されました。特に家康は北条氏直との戦いで新府城の真価を発揮し、5倍の氏直の軍勢を翻弄しました。

東の堀から、本丸へと続く石段。
石段の上には神社が建てられています。神社と石段は勝頼の時代にはなく、後世になって造られたものです。

石段を登ると神社本殿が建っています。
新府藤武神社といい、「しんぷさん」と呼ばれ親しまれています。

新府城本丸。
東西90メートル、南北120メートルの広大な曲輪です。
写真は神社の裏手を北から南に向かって撮影したものです。

本丸北端の武田勝頼公霊社。
武田氏滅亡後、地元民によって造られたものです。

勝頼公霊社の両脇には、勝頼に従った武将の霊位が並んでいます。
写真は右から山方三郎兵衛昌景、高坂源五郎昌澄、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝の霊位です。

本丸の西に広がる二の丸。
新府城には石垣はなく、土塁が用いられています。
写真の奥は七里岩の断崖絶壁になっています。

二の丸から眺める釜無川。
この方向は七里岩の断崖絶壁になっていて、こちら側からの攻城は不可能です。

二の丸の北にある井戸。
すり鉢状の地形の中央をさらに掘り下げ水を得ていたものと思われます。

井戸の北の搦手の馬出し。
写真の手前が搦手門になっています。
左の土塁のむこうは、下の写真の堀になっています。

搦手脇の水堀。
写真右が上の写真の馬出しです。
このあたりの堀は現在も水をたたえています。

城の北西端に当たる搦手門。
写真左は七里岩の断崖絶壁です。
このあたりは、整備や発掘作業が進められています。

本丸の南にはいくつか腰曲輪が設けられています。

本丸の南に設けられた三の丸は土塁によって東西に仕切られています。写真は西三の丸。
写真奥の土塁のむこうが東三の丸になっています。

東三の丸。
東西を仕切る土塁は防衛のためよりも仕切りのための色合いが強いようです。

東三の丸の南に設けられた大手門。
大手門の南(写真手前)には丸馬出しが設けられています。

武田氏の城特有の三日月堀の遺構です。案内板によると、往時は水を湛えていたようです。
写真右の土塁の上が丸馬出し、さらに右が大手門となっています。

首洗池。
本丸の東、神社の石段のさらに東に位置する堀の一部です。
本当に首を洗っていたかは定かではありません。

東堀に突き出した出構えのひとつで、東出構えと呼ばれています。
ここに射撃兵を配置し迎撃しようとした他に類を見ない珍しい遺構です。
新府城にはもうひとつ西出構えがあります。

釜無川の東岸、七里岩の断崖の上に築かれた武田氏最後の城です。現在は本丸に神社が築かれ、そこへ向かうための車道が設けられているため、一部がかなり改編されてしまっています。しかし、それ以外の城域は遺構がよく残っている方で、発掘作業の進められている箇所もあります。

  • 読み:にじょうじょう
  • 別名:二条城新館、二条新御所、二条亭
  • 所在地:京都府京都市中京区
  • 主要城主:徳川氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和14年11月30日)、世界文化遺産(平成6年12月17日)、国宝(二の丸御殿)(昭和27年3月29日)
  • 訪問日:平成20年6月21日

関ヶ原の戦いで勝利を収め、天下を取った徳川家康が、慶長6年(1601)に西日本の諸大名に命じて築城させたのが始まりです。京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として現在の二の丸に造営されました。「朝廷の動向監視のために造られた」というのは俗説で、二条城の北にあった京都所司代がその役目を負っており、将軍不在の二条城には政庁としての機能はありませんでした。慶長19年(1614)、翌元和元年には、城内で大坂の陣の軍議を行い、ここから大坂城へ向けて出陣をしています。
寛永元年(1624)、第3代将軍徳川家光が城の拡張を命じ、寛永3年(1626)に現在の二条城とほぼ同じ規模となりました。この拡張工事では、現在の二の丸清流園にあった天守が伏見の淀城へ移築され、廃城となった伏見城の天守が新しく造られた本丸に移築されました。新天守移築完了後に旧天守移築が行われ、一瞬だけ二条城に天守が二つということが起こりました。新天守は、寛延3年(1750)8月に落雷の被害を受け、焼失。その後、天守が再建されることはありませんでした。
慶応2年(1866)第15代将軍徳川慶喜が城内で将軍職を継ぎますが、翌慶応3年10月、大政奉還を発表し、徳川の治世に幕を下ろしました。
大政奉還により二条城は朝廷のものとなり、明治17年(1884)7月に離宮となります。その後、昭和14年(1939)に京都市に下賜され、翌昭和15年に恩賜元離宮二条城として一般公開が始められました。
平成6年(1994)には、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。

地下鉄東西線の二条城前駅出口から見る東南隅櫓。
本来は二条城の四隅にこのような櫓が建っていましたが、天明8年(1788)の大火で東北隅櫓、西北隅櫓は焼失してしまい、現在はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っています。

東南隅から西南隅に向かってみる外堀。
南門は、大正4年(1915)に増築されたものです。

東大手門。
大手門の入口は橋ではなく土橋構造になっています。
東大手門は現在、二条城の入場口になっています。

東大手門前から東南隅を見たところ。
白壁の塀が東南隅櫓まで延びています。

東大手門前から東北隅を見たところ。
こちらは白壁の塀が途中で終わっています。

二の丸内部から見た東大手門。
東大手門の左の建物は、二条在番と呼ばれる江戸から派遣された警護の武士の詰め所として使われた番所のひとつです。

伏見城から移築された唐門。
二の丸御殿への入口になっています。

二の丸御殿。
手前の車寄から遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が、南東から北西にかけて並んでいます。
歩くと「きゅっきゅっ」と鳴る「うぐいす張りの廊下」でよく知られています。

二の丸御殿の縁の下をのぞいたところ。
床板を上から踏むと、かすがいと板がこすれあい音が鳴るようになっています。このようなうぐいす張りは、二条城のほか知恩院、養源院などに見られます。

※この写真はもらい物です。

二の丸御殿の南西に造られた二の丸庭園。
寛永3年(1626)に後水尾天皇の行幸御殿が池の南側に造られた際に改造されたといわれています。

二の丸庭園から見る二の丸御殿。
写っているのは慶応3年(1867)に徳川慶喜が大政奉還を発表した大広間の部分です。

本丸東橋と櫓門。

本丸東橋から南側の内堀を見たところ。

本丸東橋から北側の内堀を見たところ。

櫓門をくぐったところ。

上の写真を反対側から。
はっきりとした枡形構造になっています。

本丸御殿。
京都御所にあった旧桂宮御殿を明治26年~27年(1893年~94)に移築したものです。

天守台。
伏見城から移築した五重の天守がそびえていましたが、落雷で焼失しています。

天守台の上から南東側を見たところ。
桃山門と南中仕切門が見えます。

天守台の上から北西側を見たところ。
本丸西虎口とその奥に土蔵が見えます。

天守台の上から北東の本丸御殿を見たところ。

本丸西虎口の石垣。

本丸西虎口から見た天守台。
3つ上の写真の反対方向から撮ったものです。

二の丸の西側に目立たずに残る西門。
大政奉還後、徳川慶喜はこの門から大阪城へ向かって逃げたともいわれています。

内堀の北西端から見た本丸。

北側の内堀。

北中仕切門。

内堀の北東端から南側を見たところ。

北大手門。
普段は閉鎖されています。

徳川家康が御所の守護と将軍上洛の際の宿泊のために築城を命じた城です。家康と豊臣秀頼の会見、大坂の陣の軍議、大政奉還の発表と江戸時代の始まりと終わりを見守ってきた城で、修学旅行の定番コースになっています。平成6年(1994)12月には世界文化遺産に登録されています。
江戸城とよく似た雰囲気の箇所が多く見られます。

  • 読み:ふしみじょう
  • 別名:木幡山城
  • 所在地:京都府京都市伏見区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:豊臣氏、徳川氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年6月21日

伏見城は、文禄元年(1592)に豊臣秀吉の隠居城として築かれたのが始まりです。この時の伏見城は宇治川沿いの指月の岡に築かれ、「指月山伏見城」と呼ばれています。文禄4年(1595)に聚楽第が廃城となるとその建物が移築されますが、指月山伏見城は、慶長元年(1596)に近畿地方を襲った大地震により倒壊。その後、地盤の強固な木幡山で再建されました。震災後に再建された伏見城は「木幡山伏見城」と呼ばれています。

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康がこの城に入り政務を行うようになります。家康はやがて石田三成と対立し、慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いに先立ち石田三成が伏見城を攻撃。家康の家臣鳥居元忠らが守りましたが落城し、焼失しました。

関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康により、伏見城は大坂城の豊臣氏への牽制として再建されますが、慶長20年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると伏見城の存在意義は薄れ、寛永2年(1625)に廃城となりました。廃城にあたり、伏見城の建物の多くが移築され、石垣が淀城大坂城へ、大手門が御香宮神社の表門へ、櫓が福知山城の伏見櫓に、天守が二条城へ移されました。

廃城後、城郭一帯は桃畑として開墾され、桃山と呼ばれるようになります。大正になると、本丸部分は明治天皇の御陵とされ現在では無許可での立ち入りは禁じられています。また花畑跡には昭和39年(1964)、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が造られ、そのシンボルとして鉄筋コンクリート造の模擬天守が築かれました。伏見桃山城キャッスルランドは平成15年(2003)に廃園となり、京都市営の伏見桃山城運動公園として整備されました。この際、模擬天守の取り壊しも検討されましたが、地元の要望もあり現在も残されています。

京阪宇治線桃山南口駅付近から見た伏見城址。
階段の上には明治天皇陵が築かれています。
200段以上あるこの階段は、付近の学校の運動部が体力づくりに利用しています。

上の写真の階段を登っていくと明治天皇陵があります。
後ろの山の上が伏見城本丸ですが、現在は宮内庁管理区画となり無許可での立ち入りはできません。

JR奈良線桃山駅から明治天皇陵への参道の脇には、石垣に用いられたと考えられる石材が並んでいます。
これらの石材は、下水道工事の際に発掘されています。

明治天皇陵から桓武天皇陵へ向かう道の脇に見える池。
伏見城の堀の跡なのかはわかりません。

花畑跡に造られた模擬城門。

模擬城門の脇には、伏見城の石垣に用いられた石材が鎮座しています。

伏見桃山城。
秀吉の造った伏見城をイメージして造られた模擬天守です。伏見桃山城キャッスルランドの目玉アトラクションでした。
廃園後も地元の強い要望により残されています。

天下統一を果たした豊臣秀吉が自身の隠居城として築いた城です。震災前の指月山伏見城、震災後から伏見城の戦いまでの木幡山伏見城、関ヶ原後の徳川氏による木幡山伏見城と、約30年間で3つの城が築かれました。
廃城後、城郭施設が各地へ移築され、石垣の石材も淀城、大坂城へ転用されたことから、遺構はほとんど残っていません。現在は大部分が宮内庁管理区域になっており、無許可での立ち入りは禁じられています。

  • 読み:よどじょう
  • 別名:新淀城、てん城
  • 所在地:京都府京都市伏見区
  • 主要城主:久松松平氏、永井氏、石川氏、戸田松平氏、大給松平氏、稲葉氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年6月21日

伏見城廃城後の京都守衛の昨日を引き継ぐ新城として、元和9年(1623)に松平定綱によって築かれた城です。伏見城の廃材と二条城の天守が転用されました。桂川、宇治川、木津川の三川が合流する中州を干拓して城下町が形成され、その周囲を三川が取り囲む水上の城でした。淀城はこの中州の西部に築かれましたが、城下町を取り囲む三川が堀の役目を負い、古代中国の都城のような風体をしていました。
寛永10年(1633)になると、国替えにより永井尚政が入城。その後、諸大名が次々と入城します。享保8年(1723)には春日局の子孫に当たる稲葉正知が下総佐倉から移り、以後明治維新まで稲葉氏の居城となりました。
なお、淀殿ゆかりの淀城はこの城ではなく、北500メートルほどの納所地区にあったと伝えられ淀古城と呼んで区別されています。

本丸に建つ淀城址の石碑。

京阪宇治線淀駅改札口付近から見る天守台。
天守台には当初、伏見城の天守が移築される予定でしたが、伏見城の天守は二条城へ移築されることになり、代わって二条城の旧天守が移築されました。しかし伏見城の天守に合わせて造られた天守台はサイズが大きく、四隅に二重櫓を建て、その間を多門櫓で連結して空白地を埋めた連立式天守となりました。

本丸内部から見る天守台。
本丸は淀城公園となり、ブランコなどの遊具が置かれています。

天守台上部。
天守台への立ち入りは禁じられているので、三脚に取り付けたカメラを石垣の下から高く掲げて撮影したものです。
天守には穴蔵と呼ばれる穴から出入りしていたと伝えられています。

本丸北西端の石垣。
石垣の上には櫓が建っていたものと思われます。

本丸北西端から見る堀。
堀は本丸の西、南、東を囲んでいましたが、東側は後世に埋められています。

桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる水陸運の要衝・淀に築かれた城です。伏見城の後継となるべく築かれましたが、天守だけは二条城に持っていかれています。
現在、淀城の特異な連立式天守の復元計画が進められています。

  • 読み:よどこじょう
  • 別名:藤岡城
  • 所在地:京都府京都市伏見区
  • 主要城主:畠山氏、細川氏、豊臣氏、木村氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年6月21日

淀城の北500メートルほどの納所地区に築かれた城で、淀城と区別して「淀古城」と呼ばれています。淀古城の築城年代ははっきりとしていませんが、応仁の乱の際に畠山政長が西軍の畠山義就に備えるために、居城を勝龍寺城から淀古城へ移したのが始まりといわれています。
その後、細川政元が幕府の管領として淀古城に入りますが、永正元年(1504)に薬師寺元一が細川氏に反旗を翻し、この城の攻防を繰り返しました。永禄2年(1559)には三好長慶が今日を制し、細川氏綱を淀古城に配しますが、永禄11年(1568)に織田信長が上洛を果たし、織田勢の攻撃を受け落城しています。
天正17年(1589)、信長に代わり天下人となった秀吉は弟秀長に淀古城の大改修を命じ、淀古城には秀吉の側室茶々(この頃から茶々は「淀殿」と呼ばれるようになります)が入城します。淀殿は淀古城で鶴丸を出産しますが、鶴丸はわずか3歳で病死してしまいます。鶴丸の死で、秀吉の甥秀次が秀吉の養子となり関白となりますが、朝鮮の役のさなかに淀殿が秀頼を出産。秀次は淀殿との軋轢から破滅し、文禄元年(1592)から淀古城を預かっていた木村常陸介も秀次に連座。淀古城は文禄3年に廃城となり、その部材は伏見城に転用されました。

淀古城の一部であった妙教寺。

妙教寺境内に建つ石碑。
ここにかつて城があったことを伝えるのは、今ではこの石碑のみとなっています。

妙教寺本堂。
慶応3年(1967)の鳥羽伏見の戦いでの弾痕が残っているとのことです。

妙教寺の南を流れる小川。
淀古城の堀の跡と考えられています。桂川の宮前橋の北につながっています。

桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる水陸運の要衝・淀に築かれた城です。京を確保しようとする勢力により、たびたび攻防が繰り返されました。秀吉の側室茶々が出産のために入城したことから、「淀殿」と呼ばれるようになっています。
現在はわずかな堀の跡と石碑が残るのみで、遺構はまったく残されていません。

  • 読み:ごりょうかく
  • 別名:亀田役所土塁、函館五稜郭、函館城、柳野城
  • 所在地:北海道函館市
  • 主要城主:江戸幕府箱館奉行所、箱館政権(蝦夷共和国)政府
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和27年3月29日)
  • 訪問日:未探査

安政元年(1854)に日米和親条約により箱館を開港することとなった江戸幕府は、北方防備と蝦夷地開拓を目的として、箱館奉行所を再設置しました。当時の奉行所は函館山のふもとにありましたが、海上からの攻撃を受けやすい、函館山から覗かれやすいなど、軍事的に不利な条件であったことから、内陸部への移転が決まりました。工事は安政4年(1857)に始まり、工期中の元治元年(1864)に奉行所を移転して業務を開始、慶応2年(1866)に竣工し、亀田役土塁所と呼ばれました。当初は、街を取り込んだ巨大城郭となる予定でしたが、当時は幕府の財政も逼迫していたために大幅な規模縮小を余儀なくされ、奉行所を守る稜堡式の城郭になりました。
明治元年(1868)に戊辰戦争が起こり、新政府軍が幕府軍を北へ北へと追いやっていくと、箱館に逃れた幕府軍が10月に五稜郭を占領。榎本武明を総裁とする箱館政権(蝦夷共和国)を組織し、新政府軍と最後の戦いに臨みます。翌明治2年(1869)5月11日、新政府軍の総攻撃が始まり、5月18日に箱館政権は降伏。これにより戊辰戦争は終結しました。

五稜郭タワーから見た五稜郭の西半分。
50mm相当のレンズでは、その全容を一度で撮影することができません。

五稜郭タワーから見た五稜郭の東半分。
手前にはラヴェラン(半月堡)が設けられています。

日本に二つしかない五稜郭のひとつです。もうひとつの五稜郭は信州佐久の龍岡城ですが、函館のものは佐久のものに比べてよく知られているため、単に「五稜郭」といえば函館の五稜郭を指すことが多いほどです。

五稜郭は未踏査の城です。写真はもらい物です。

  • 読み:ざきみじょう、ざきみぐすく
  • 別名:-
  • 所在地:沖縄県中頭郡読谷村
  • 主要城主:護佐丸
  • 文化財指定:国指定指定史跡(昭和47年5月15日)、世界文化遺産(平成12年12月2日)
  • 訪問日:平成16年5月22日

15世紀初頭に築城家として名高い護佐丸(ごさまる)が築城したといわれています。城は標高120メートルの小高い台地の上に、石灰岩の切石積みで取り囲んで造られ、主郭と二郭からなる連郭式となっています。主郭と二郭にはアーチ門が一つずつ設けられていますが、アーチ石のかみ合う部分に楔石が使われています。他のグスクには類例がないことから、座喜味城のアーチ門は沖縄最古のものと考えられています。
城は護佐丸が中城城へ移った1440年以降も使用され、16世紀には廃城となりました。第二次世界大戦では、日本軍の高射砲陣地が主郭内に築かれ、沖縄戦では城壁の一部が破壊されました。戦後は米軍のレーダー基地が置かれましたが、昭和48年(1973)に返還されています。

二郭正門。
2個のアーチ石の隙間に楔石がはめ込まれています。

主郭城壁から見下ろした二郭。 西側に向かって細長く伸びた部分が特徴です。

二郭西側の細長く伸びた部分。
右は主郭の城壁で、高さは約9メートルあります。

主郭。
殿舎があったと考えられています。

殿舎跡。
殿舎の屋根は板葺きもしくは茅葺きだったと考えられています。

主郭城壁。
城壁は所々で幅が広くなり、崩れにくいように工夫されています。

首里、那覇、ケラマ諸島、久米島、伊江島、伊平屋諸島を一望できる台地の上に建設された城です。沖縄のグスクの中では中規模です。2000年に琉球王国のグスク・関連遺産群の1つとして世界遺産に指定されました。

  • 読み:しゅりじょう、すいぐすく
  • 別名:-
  • 所在地:沖縄県那覇市
  • 主要城主:第一尚氏、第二尚氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和47年5月15日)、世界文化遺産(平成12年12月2日)
  • 訪問日:平成16年5月20日

首里城は標高120メートルの丘陵地に築かれた沖縄最大の城で、東西350メートル、南北200メートルの楕円形をしています。築城時期は明らかになっていませんが、14世紀末の三山鼎立時代には、中山の城として使われていたことがわかっています。尚巴志が三山を統一して琉球王朝を起こすと、首里城は王城として使われ、明治の琉球処分まで首里は琉球王国の首都であり続けました。
明治12年(1879)の琉球王国終焉以降、城は荒廃しますが、昭和に入ると正殿などが国宝に指定され、大規模な修理が行われます。しかし、第二次世界大戦で首里城は要塞化され、米軍の標的となり、昭和20年(1945)の沖縄戦で集中砲火を浴び、跡形もなく焼失してしまいます。
第二次世界大戦後、「首里城の復元なくして沖縄の戦後は終わらない」と語られ、昭和33年(1958)に守礼門を復元。昭和57年(1982)には跡地にあった琉球大学の移転が完了し、平成元年(1989)から正殿復元が始まり、平成4年(1992)に竣工しています。現在も、首里城の復元作業が進められています。

首里城復元の第一歩となった守礼門。
昭和33年(1958)に復元された守礼門は、二千円札にも描かれています。

守礼門をくぐって東へ進むと歓会門が見えます。
首里城外郭最初の門で。石のアーチ門の上に木造の櫓が載っています。

歓会門をくぐり上へ登ると瑞泉門が見えます。
双璧の上に櫓が載っているタイプです。

歓会門をくぐり東へ進むと漏刻門が見えます。
この門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計っていたといわれています。

漏刻門をくぐり、那覇市街を望んだところ。
奥には歓会門、手前には久慶門が見えます。

広福門。
建物そのものが門の機能を有しています。

首里森御嶽(すいむうたき)。
琉球開闢神話によると、神が造った聖地とされています。国王が外出するときはここで祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼を行いました。

首里城正殿のある御庭(うなー)の入口である奉神門。
門は三つあり、真ん中の門は国王と中国からの冊封使など身分の高いものだけが通ることを許されました。
なお、ここから中は有料です。

首里城正殿。
正殿一階「下庫理(しちゃぐい)」は国王が政治や儀式を執り行う場、正殿二階「大庫理(うふぐい)」は国王と親族、女官らが儀式を行う場でした。

久慶門。
歓会門が正門であるのに対し、ここは通用門として使われ、主に女性が使っていたといわれています。
現在は首里城見学の出口専用の門になっています。

首里城の城壁。
真ん中のプレートの下が遺構石積、上が復元石積です。

三山統一以来500年間にわたり琉球王国の王城だった城です。沖縄戦でアメリカ軍の集中砲火を浴び徹底的に破壊されましたが、戦後復元が始まり、現在も復元作業が進められています。

  • 読み:なきじんじょう、なきじんぐすく
  • 別名:北山城
  • 所在地:沖縄県国頭郡今帰仁村
  • 主要城主:北山王、北山監守
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和47年5月15日)、世界文化遺産(平成12年12月2日))
  • 訪問日:平成16年5月21日

築城年代は定かではありませんが、1322年頃に北山王の怕尼芝(はにじ)が城主になったという記録があることから、それ以前に築城されたものと考えられています。怕尼芝から攀安知に至るまでの94年間、北山王の居城でありつづけ、徐々に現在の規模になっていったと考えられています。
1416年、北山と琉球の覇権を争っていた中山王の尚巴志によって城は落とされ、北山は滅亡。以降、北山地方掌握のため今帰仁城には北山監守が置かれました。
1609年には薩摩軍との戦いで落城しましたが、その後も北山監守は1665年まで存続しつづけます。1665年には北山監守が首里に引き上げ、城は廃城となりましたが、その後も祭祀の場として重要な役目を負いました。

駐車場から見上げる大隅(うーしみ)の城壁。
石灰岩を積み上げた沖縄のグスク独特の城壁です。

平郎門。
内地で言うところの大手門で、門の両側にはのぞき穴が設けられています。
昭和42年(1967)に復元されました。

平郎門から参道を進んだ先にある大庭(うーみや)。
城内の祭祀を執り行う場所だったとされています。

今帰仁城の最高所にあたる主郭。
いくつかの建物があったことがわかっています。

主郭内の御嶽(うたき)。火の神を祀っています。
御嶽前に建つ石碑は、山北今帰仁城監守来歴碑です。

主郭の北側では修復作業が進められていました(2004年5月現在)。

御内原(うーちばる)から見下ろす大隅の城壁。
万里の長城のようにカーブを描いているのがわかります。

琉球の三山鼎立時代、琉球北部に勢力を張った北山王の居城です。周囲を崖に囲まれ、首里城と肩を並べる大グスクです。2000年に琉球王国のグスク・関連遺産群の1つとして世界遺産に指定されました。

  • 読み:みのわじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県高崎市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長野氏、井伊氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和62年12月17日)
  • 訪問日:平成21年1月4日

箕輪城は、長野尚業によって築城されたのが始まりとされています。その築城年代には諸説あり、永正9年(1512)とも大永6年(1526)ともいわれています。この頃の箕輪城は、二郭、主郭、御前曲輪程度のもので、現在搦手となっている東明屋方面が大手でした。長野氏は平井城の関東管領山内上杉氏に代々仕えました。天文21年(1552)に平井城は北条氏の攻撃を受け、関東管領上杉憲政は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の元へ逃げ延びましたが、長野氏は北条氏に対し抗戦し、箕輪城を守っています。

天文23年(1554)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の間で甲相駿三国同盟が結ばれ、氏康は信玄に西上州の攻略を促します。弘治3年(1557)、信玄は西上州へ進撃し箕輪城を三度攻撃しますが、長野業政はこれを防ぎ、同年10月に信玄は一度甲府へ帰陣しています。

永禄4年(1561)、信玄は再び西上州へ進撃。永禄6年(1563)に和田城(高崎城の前身)の和田業繁が武田に寝返ったことで西上州は一気に武田の支配下に入り、業政の後を継いだ業盛の守る箕輪城は孤立。永禄9年(1566)9月、箕輪城は落城し、城主業盛は御前曲輪で自刃しました。その後長野氏は鷹留城主であった業通が吾妻の長野原へ逃げ延びたと伝えられてます。

武田氏の支配下に入った箕輪城には内藤氏が入りますが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると織田氏配下の滝川一益が入城。同年6月に本能寺の変が起こり、滝川一益が上州から撤退すると北条氏邦が箕輪城を占拠します。天正18年(1590)の小田原征伐では、前田利家、上杉景勝の連合軍の前に無血開城し、北条氏の滅亡後は徳川家康配下の井伊直政が12万石で箕輪城に入城します。井伊氏は箕輪城を大改築し、現在の規模のものとしますが、慶長3年(1598)、交通の便の良い和田城跡に高崎城を築城して移ったため廃城となりました。

城域の東側に位置する東明屋の砦。

東の出入口である搦手口。
長野氏の時代にはこちら側が大手でした。

搦手口の南の堀の様子。
城域の南に位置した榛名沼の水はこの辺りまで入り込んでいたものと思われます。

二郭の虎口。
奥が搦手口です。

二郭。
縦横80メートルほどの郭で、四方へ出撃するための拠点となっていました。

二郭から東側を見たところ。
遠くに赤城山が見えます。

二郭と主郭の間に設けられた門馬出し。

門馬出しから見た二郭と主郭の間の堀。
深さ10メートルにも及ぶ巨大な堀が箕輪城中枢部を取り囲んでいます。

主郭。
南北100メートル、東西70メートルほどで、持久防御のための拠点となっていました。

堀の際に築かれた石垣。
三段構造で、堀が崩れないようになっています。

主郭の東端に設けられた土塁。
下部を石垣で覆った腰巻土塁です。

主郭の二郭方面へ突き出した部分。
ここから門馬出しの内外を攻撃できるようになっていました。

主郭と御前曲輪の間の堀。
この堀は主郭・二郭・御前曲輪を取り囲む堀へ降りるための通路であったと考えられています。

御前曲輪。
主郭の詰めにあたる曲輪で、箕輪城の精神的中心でした。
長野業盛はこの曲輪にあった持仏堂で自刃しました。

二郭と郭馬出しを結ぶ土橋。
写真奥が郭馬出し、手前が二郭です。

郭馬出しの土橋から見る大堀切。
箕輪城はこの大堀切によって南北に分断され、この場所にある土橋のみで南北が連結されています。
これにより、城の一方を失っても、残った一方のみで戦うことができる仕組みになっています。

郭馬出し。
写真奥に二郭が見えます。

木俣。
道が5方向に分かれる曲輪なので、木俣と名づけられています。

椿名口。
城の南東の入口です。

椿名尾根の堀切。
椿名口から木俣への通路です。
椿名の名は、このあたりに咲く椿からとられています。

城の南端に位置する水の手曲輪。
現在は法峯寺が建っています。

観音口。
水の手曲輪の上からの入口です。

観音口の西に位置する大手尾根口。

南の入口になっています。

二郭の西に位置する三郭。

三郭西面の石垣。
井伊氏の時代になると城の西側が大手となり、目立つ部分に石垣が使われるようになります。

三郭の西に位置する鍛冶曲輪。
武具を製造した火事場があったところです。

鍛冶曲輪の石垣。

大手虎韜門。
井伊氏の時代にはこちら側が大手になりました。
兵法書「六韜」のうちの一巻の名から「虎韜門」と名づけられています。

大手虎韜門から榛名白川方面へと続く白川口埋門。
埋門跡が残っているのは、上州ではここだけです。

三郭の北に位置する蔵屋敷。

蔵屋敷と主郭の間の堀。
右が蔵屋敷、左が主郭です。
この位置には、主郭と蔵屋敷をつなぐ橋が架かっていました。

御前曲輪北堀。
箕輪城に張り巡らされた堀がここで合流しています。
この辺りから北側の堀は、往時は水堀となっていました。

丸馬出し。
往時は周囲を水に囲まれた半円型の曲輪でした。

新曲輪。
箕輪城の弱点とも言える場所で、初陣の武田勝頼がここを攻めようとしたこともあります。

稲荷曲輪。
防御の劣る新曲輪方面をカバーする曲輪でした。

榛名白川と井野川に挟まれた高台に築かれた山城で、関東三大山城、日本の城百選にも選ばれています。現在の遺構は井伊氏の時代のもので、長野氏の時代のものとはかなり異なっています。

  • 読み:たかさきじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県高崎市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:井伊氏、酒井氏、戸田松平氏、藤井松平氏、安藤氏、大河内松平氏
  • 文化財指定:群馬県指定重要文化財(乾櫓)(昭和49年9月6日)、高崎市指定史跡(三の丸土塁・堀)(昭和57年2月17日)
  • 訪問日:平成21年1月12日

元々この地には、和田氏が築いた和田城が存在していました。和田氏は関東管領山内上杉氏に仕え、上杉憲政が越後へ逃げ延びると、上杉家を相続し関東管領となった上杉謙信の配下となりました。その後、和田氏は武田氏に内通し、最終的に北条氏に仕えますが、天正18年(1590)の小田原の役で上杉景勝、前田利家らの攻撃を受け落城しました。

慶長3年(1598)、徳川家康によって箕輪城に封じられていた井伊直政が、交通の要衝である和田の地に移り、和田城の廃墟の上に城を建設し、和田を高崎に改めました。しかし、井伊氏は高崎城築城後3年で彦根へ転封。その後、諏訪頼長が城番を務め、酒井氏、戸田松平氏、藤井松平氏、安藤氏と藩主が目まぐるしく代わります。寛永8年(1632)、安藤重長のときには、3代将軍徳川家光の実弟・忠長が駿河から配流され、高崎城で蟄居、翌年自害しています。

享保2年(1717)からは、大河内松平氏が高崎藩に入り、廃藩置県まで大河内松平氏が高崎藩を治めました。

明治になると、城の大部分が帝国陸軍歩兵第15連隊の施設として利用されました。

三の丸の高崎城公園内の乾櫓と東門。
乾櫓は元々は現在の日本たばこ高崎支社跡の位置にあり、明治維新後に払い下げられ、農家の納屋として使われていましたが、昭和51年(1976)に現在地の模擬石垣の上に移築復元されました。
東門も明治維新後に払い下げられましたが、昭和55年(1980)に現在地に移築復元されています。

三の丸を取り囲む堀と土塁。

第19回高崎城遺跡発掘調査

日本たばこ高崎支社跡地に医療保健センターと図書館の複合施設が建設されるのに伴い、高崎市教育委員会が発掘調査をしていた本丸堀の現地説明会の様子です。

今回の発掘調査で見つかった艮櫓付近の本丸堀。幅24メートル、深さ8メートルほどです。
中央に見える土留めは、明治になって堀を埋め戻した際に構築されたものと考えられています。

榎郭堀。

榎郭堀の底の様子。
底に掘り残した部分が見られ、障子堀または格子堀であったと見られています。
写真左下には、柵を立てたと思われる穴が見えます。

この辺りからは、和田城のものと見られる堀が見つかっています。

帝国陸軍第15歩兵連隊の施設と見られる煉瓦や排水路。

本丸堀から出土した鬼瓦。
乾櫓の鬼瓦と同じく、大河内松平氏の家紋が入っていることから、艮櫓のものと思われます。

烏川東岸に築かれた輪郭式城郭です。井伊氏、酒井氏など幕府の重要な役職を務めた大名が城主を務めています。現在は市街化が進み、往時のまま残されているのは三の丸の堀と土塁のみとなっています。