岩櫃城

  • 読み:いわびつじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:吾妻氏、斉藤氏、真田氏
  • 文化財指定:東吾妻町指定史跡(昭和47年3月1日指定)
  • 訪問日:平成18年3月18日・21日、平成20年12月23日

岩櫃城は、岩櫃山の東面中腹に築かれた山城です。鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮が築城したと伝えられていますが、これは伝説の域を出ません。南北朝時代に斉藤氏によって築城され、戦国時代にはその居城として、白井城の支城としての役目を負い、永禄6年(1563)に武田氏配下の真田幸隆が奪取したとされていますが、近年の研究では、斉藤氏が居城とし真田氏が奪取したのは岩櫃城の西方3kmにある岩下城のことであり、岩櫃城は武田氏の吾妻進出の際に取り立てられ拡張されたものと考えられています。

永禄6年に幸隆が岩櫃城に入って以降は、沼田方面攻略の拠点となり、沼田城を奪取してからは上田・沼田間の中継点としての役目を負っています。天正10年(1582)、武田氏が織田・徳川連合軍に攻められ、真田昌幸が武田勝頼に岩櫃城での建て直しを勧めた際には、郷原支城西方にその居館を用意しますが、勝頼は天目山で自刃したため、勝頼を岩櫃城に迎えることはかないませんでした。武田氏滅亡後、独立した真田氏は沼田城を巡って北条氏と争い、豊臣秀吉の仲介で沼田城は北条氏のものとなりますが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡すると沼田城は再び真田氏のものとなり、岩櫃城はその支城として出浦氏が城代に置かれました。慶長19年(1614)、大阪の陣に際し、沼田城の真田信之によって廃城となりました。

本城

城の口。
岩櫃城の大手で、岩櫃山への登山口でもあります。この城の口も岩櫃城に張り巡らされた竪堀の一部です。
写真左手には休憩所があり、岩櫃城の案内板が設置されています。

城の口の右手に広がる平岩集落。
集落の中にも竪堀が張り巡らされています。

城の口の背後に設けられた天狗曲輪。
真田忍者の活動拠点であったといわれています。
奥の針葉樹の森には岩櫃神社が建てられています。

中城。
二郭の東に位置し、三郭とも呼べる場所です。政務などはここで執り行われたと考えられています。

海野屋敷。
中城の少し南に位置していますが、現在は果樹園となっていて面影はまったくありません。

二郭。
主郭の東に位置し、戦闘指揮所とも呼べる場所です。
ここから数本の竪堀が放射状に伸び、兵士の出撃路となっていました。

主郭と二郭を隔てる堀切。
写真は北側から撮ったもので、左が二郭、右が主郭となっています。

主郭。
居館があったとされる場所です。写真奥には周囲に目を光らせていた櫓台跡があります。

主郭の北側に設けられた土塁。
土塁の上は岩櫃山への登山道の一部になっています。

主郭南面の竪堀。
岩櫃城で最大の竪堀です。

二郭から眺める柳沢支城。
岩櫃城の北に位置する柳沢支城は修験者の城であったとも考えられ、そう簡単には近づけない険しい城です。
支城の向こうには原町の町並みが広がっています。

主郭から岩櫃山登山道を登っていくと、このような削平地がいくつか見られます。
何らかの曲輪の跡と思われ、岩櫃城の城域がかなり上の方まで広がっていたことが推測されます。

水曲輪。
主郭の北に位置し、場内の水を確保していた場所です。
ここから写真右方向へ降りていくと、城の口へ戻ります。

柳沢支城

柳沢支城の登城口。
大きな岩がごろごろしています。

登城口から少し登ったところには、金堀穴があります。

柳沢支城のある観音山には奇岩も多くあり、写真のものは「象ヶ鼻」と呼ばれています。

このように鎖が設けられているところもあります。
もちろん、往時には鎖はありません。

山頂の少し下にある見晴台から見た本城。

観音山山頂。
ここに狼煙台が置かれ、本城への連絡を取っていたものと思われます。

山頂の曲輪の西側には、一段低くなった削平地が設けられています。

そのさらに西には大規模な堀切が設けられています。

郷原支城

郷原支城。
本城からは死角になる岩櫃山南麓の監視の役目を負っていたと思われます。
写真奥に数段の曲輪が続く小規模な城です。

郷原支城はこのような崖に囲まれています。

郷原支城の西に残る潜龍院跡。
真田昌幸が武田勝頼を迎えるために築いた御殿ですが、勝頼はここへたどり着くことなく、天目山で自刃してしまいます。
御殿はその後、潜龍院という寺になり、現在は石垣だけが残されています。

岩櫃山東面中腹に築かれた城です。その縄張りは吾妻ではほかに例がなく、縦横無尽に張り巡らされた堀切が大きな特徴です。城域は130haに及び、さらに北東に柳沢支城、南西に郷原支城を抱えています。本城、天狗の丸、柳沢支城に囲まれた平沢集落は根小屋であったと考えられ、集落内にも堀切の跡が見られます。