鎌原城

  • 読み:かんばらじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡嬬恋村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:鎌原氏
  • 文化財指定:嬬恋村指定史跡(昭和48年12月18日)
  • 訪問日:平成20年10月18日

鎌原城は、吾妻川と通称うしろの沢に挟まれた尾根の先端部に築かれた城で、応永4年(1397)に海野一族の鎌原氏によって築かれたのが始まりとされています。
鎌原氏は、鎌倉時代には三原庄を支配し、室町時代初期には三原庄の地頭となり、西吾妻一の豪族となります。幸重の時(ただし年代でいうと幸政のころ)に山内上杉氏が平井城に入り関東管領になるとその配下となります。
天文20年(1551)に上杉憲政が北条氏によって平井城を追われ越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ると、上州一帯は大大名の空白地帯となり小豪族が乱立。鎌原氏を初めとする小豪族は、吾妻最大の勢力を持っていた岩櫃城の斉藤氏に従います。永禄3年(1560)、鎌原幸重・重澄親子は、同じ海野一族の真田幸隆の紹介で信玄に謁見し、その麾下となり、鎌原氏は武田氏を後ろ盾として斉藤憲広と抗争を繰り返します。永禄5年(1562)に一時斉藤氏麾下の羽尾氏に鎌原城を奪われ、信濃へ退去しますが、武田氏と真田氏の支援を受けて鎌原城を奪還。その後、幸重は真田氏に属して斉藤憲広を吾妻から追い、岩櫃城代に任じられました。
天正10年(1582)には嫡男幸澄が長篠の合戦で戦死。武田氏が滅亡すると、後を継いだ重春は真田昌幸に従い、真田信幸が沼田城に入ると、信幸に従います。重春の息子重宗は沼田藩家老となりますが、天和元年(1681)に真田信利が改易となると、鎌原氏は松代真田氏に出仕しました。また、天領となった西吾妻の大笹の関守を明治の廃関まで務めています。

吾妻川対岸の西窪城付近から見た鎌原城。
断崖に守られている様子がわかります。

北側から三郭を見たところ。
木々の中は鎌原氏の霊域となっています。

鎌原氏霊域。
今も鎌原氏子孫の方による祭祀が続いているようで、お盆の迎え火送り火の跡が見られました。

三郭と二郭を隔てる堀。
城域を南北に貫く農道の西側は、笹に埋もれてしまっています。往時はもっと深かったものと思われます。

同じく三郭と二郭を隔てる堀。
農道の東側は、キャベツ畑とするために埋められていますが、端部に堀切の名残が見られます。

北側を二郭を見たところ。奥に三郭が見えます。
三郭から二郭、主郭と向かうにつれて低くなっていく構造です。

二郭の南端から見た主郭の様子。
主郭と二郭の間に堀が設けられています。

主郭と二郭を仕切る堀。
農道に西側は埋められてしまっていますが、東側ははっきりと残っています。
写真奥の森のあたりに東曲輪がありますが、藪になっていて近寄ることができません。

主郭先端部。
群馬テレビの三原中継所が建っています。三原・大前約900世帯をカバーしています。

主郭背後の堀切。
左の主郭と右の笹曲輪を隔てています。
この写真の奥と手前は断崖絶壁になっています。

笹曲輪。
この先端に、下から登ってくる道があったと伝えられていますが、発見できませんでした。

主郭から見た吾妻川対岸の西窪城の様子。
西窪発電所の鉄管路の左側の山が西窪城です。

吾妻川と通称うしろの沢に挟まれた尾根の先端部に築かれた城で、主郭、二郭、三郭、笹曲輪、東曲輪が設けられました。三郭から二郭、主郭に向かうにつれて低くなっていく構造や、三郭・二郭・主郭のラインに並行する曲輪の存在、主郭背後の笹曲輪の存在など、名胡桃城とよく似ています。