長野原城

  • 読み:ながのはらじょう
  • 別名:箱岩城
  • 所在地:群馬県吾妻郡長野原町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:斉藤氏、常田氏、羽尾氏、湯本氏
  • 文化財指定:長野原町指定文化財(平成2年3月27日)
  • 訪問日:平成20年6月8日

吾妻川と白砂川(旧称・須川)が合流する舌状台地に長野原の町並みが広がっています。長野原城はその町並みの北側にそびえる急峻な岩山の尾根に設けられた東西約700メートルの細長い城郭です。その築城年代はわかっていません。
武田信玄が上州への進攻を開始すると、武田の上州攻略先鋒方真田幸隆は永禄5年(1562)に斉藤氏のものであった長野原城を落とします。長野原城には幸隆の弟・常田隆永が入り、岩櫃城の斉藤憲広(上杉氏配下)とにらみ合います。永禄6年(1563)、斉藤憲広は農繁期のため郷士が地方に戻り手薄となった長野原城の攻略に動きます。常田隆永は自ら須川西岸の諏訪神社の辺りまで出て斉藤方を迎撃しますが討死し、長野原城は斉藤方の手に渡りました(このとき討死したのは常田隆永の息子の俊綱で、隆永は元亀3年(1572)の上杉方との戦いで戦死したとも伝えられています)。斉藤氏が奪い返した長野原城には、羽尾幸全、海野幸光が入りますが、間もなく真田氏に奪い返され、草津の領主であった湯本善太夫が城主となりました。
天正10年(1582)以降はどのような変遷をたどったのかはわからず、廃城の時期も不明となっています。

かみつけ信用組合長野原支店付近からJR吾妻線の線路を渡ると、大手道になっています。
大手門には、長野原で最古の部類に入る瑠璃光薬師堂が建っています。

大手道は九十九折になっています。

九十九折の大手道をしばらく登ると、箱岩出丸が見えてきます。王城火山群の噴出物の一部が地上に露出して固まったもので、ほぼ垂直な箱型の岩場が出城的な曲輪として利用されました。
長野原城の別名「箱岩城」の名は、この箱岩出丸から名づけられています。

箱岩出丸に建つ伴僧坊大権現。
浜松奥山の伴僧坊大権現を分霊したもので、現在の建物は昭和28年(1953)に立て直されたものです。

尾根に設けられた出丸。
写真の階段の上に建てられた石碑は、かつて秋葉社が建っていたことを物語る碑です。
長野原城は尾根上に点在するこのような曲輪をつないだ形式になっています。

出丸から西へ50~60メートルほど離れた尾根上に設けられた主郭。
「長野原城本丸址」の碑が建てられています。

主郭の西にこのような竪堀が設けられています。
白砂川の流れる城の北側へ向かって延びています。

尾根の東側に位置する物見台。
現在は木々が生い茂り、見晴らしはあまりよくありません。

物見台のさらに東の尾根上に位置する天狗岩。
ここも見晴らしがよいことから、見張台として使われていたものと思われます。

天狗岩からの眺め。
吾妻川の向こうに丸岩城柳沢城が見えます。

長野原中心街の背後にそびえる山の尾根上に築かれた東西700メートルほどの城です。丸岩城、柳沢城が近くに見え、これらの城と連携をとっていたものと考えられます。