名胡桃城

  • 読み:なぐるみじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県利根郡みなかみ町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:沼田氏、真田氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和24年12月20日)
  • 訪問日:平成20年9月27日

名胡桃城は、湯舟沢の断崖の上に築かれた山城で、応永年間(1394年~1427)に沼田氏が沼田城の支城として築いたのが始まりとされています。戦国末期には上杉氏、武田氏、北条氏の三勢力が、沼田領有のための足掛かりとして争奪を繰り返します。天正6年(1578)には、真田氏配下の真田昌幸が、北条氏の沼田城攻略の足掛かりとするためにこの城を押さえ、城代に鈴木主水重則を置きました。天正7年(1579)には、北条氏が2度にわたり名胡桃城を攻撃しますが、真田氏は防衛に成功。翌天正8年(1580)には、真田氏はこの城から出撃して沼田城を攻略し、名胡桃城は岩櫃城沼田城の中継地点となりました。
その後も、北条氏との間で沼田をめぐる抗争が繰り返されましたが、天正17年(1589)に豊臣秀吉の仲裁で沼田は北条氏のものと決められました。しかし真田氏は、「名胡桃城には祖先の墳墓があるので残してほしい」と訴え(本当は名胡桃城には真田氏の墳墓はない)、名胡桃城だけは真田氏の所領として残されました。同年11月、沼田城代の猪俣邦憲は、計略をもって鈴木重則を名胡桃城外に誘い出し、名胡桃城を攻撃、これを奪い取り、謀られたことを知った鈴木重則は、沼田にて自害します。このことを知った秀吉は激怒し、北条氏討伐を決定。翌天正18年(1590)、小田原を攻撃し、北条氏を滅ぼしました。その後、沼田城が真田氏に与えられたことで名胡桃城の存在意義も薄れ、間もなく廃城になったと考えられています。

城の西側に設けられた丸馬出し。

丸馬出しと三郭を隔てる堀。
右側が三郭です。

三郭の様子。
虎口があったことを示す案内板が立っていますが、現在はまっ平でその面影は見られません。

三郭の北端から見た二郭の様子。
三郭と二郭は堀で隔てられ、その間は土橋で結ばれていますが、土橋は後世につけられたもので、往時は木橋が架けられていました。

三郭と二郭を隔てる堀。
右が二郭です。三郭の堀よりもはっきりと残っています。

二郭の入口には喰違い虎口の案内板が立っていますが、三郭同様まっ平で、その形跡は見られません。

二郭の北端から見た主郭の様子。
主郭の堀には二郭の堀と同様に土橋が設けられていますが、ここも後世に設けられたもので、往時は木橋が架かっていました。

主郭。
名胡桃城址の碑が立っています。

主郭の南側はこのような断崖になっていて、その下を湯舟沢が流れています。
主郭崩壊の危機にさらされていたため、治山工事が行われました。

すぐ南に位置する榛名峠城を主郭から見たところ。
名胡桃事件の際、沼田城代猪俣邦憲はこの城から出撃し、名胡桃城を奪い取りました。睨み合いどころか罵り合いになりそうな距離です。

主郭北端から見た笹曲輪の様子。
二郭、主郭の堀と同じような構造になっています。

笹曲輪には土塁が残されています。
月夜野町教育委員会が行った発掘調査で、土塁の基礎に石垣が用いられていることが判明しています。

笹曲輪の東に設けられた袖曲輪。
笹曲輪との間に堀切はなく、笹曲輪よりも一段低くなっています。

袖曲輪から見た沼田方面。

袖曲輪のさらに一段下に設けられた物見曲輪。
その名のとおり物見台の役割を負っていたようですが、現在は藪になって訳がわからなくなっています。

三郭の北に設けられた般若曲輪。
城主の居館が建っていたと考えられています。
現在は駐車場になっています。

湯舟沢左岸の崖上に築かれた城で、豊臣秀吉の小田原征伐のきっかけとなった城です。主郭、二郭、三郭、般若曲輪、笹曲輪、物見曲輪、外曲輪が設けられましたが、外曲輪は大部分が農地化して遺構はあまり見られなくなっています。また、丸馬出し・般若曲輪と外曲輪の間を国道17号バイパスが横切っています。
丸馬出しから東の城域は比較的よく残され、歴史が動いた城として群馬県の史跡に指定されています。