沼田城

  • 読み:ぬまたじょう
  • 別名:蔵内城
  • 所在地:群馬県沼田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:沼田氏、真田氏、本多氏、黒田氏、土岐氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和51年3月30日)
  • 訪問日:平成20年9月27日・10月31日

沼田城は、幕岩城の沼田顕泰が新たな本拠として享禄2年(1529年に)築いたのが始まりとされています。北条氏が関東管領上杉憲政を追い、上州に背力を伸ばすと、顕泰はその配下となり、越後の上杉謙信が関東へ攻め込むと顕泰は謙信に降伏し、その配下となります。しかし、永禄12年(1569)、家督をめぐって沼田氏に内乱が起き、顕泰は沼田を脱出。会津の芦名氏を頼って落ち延び、沼田氏は衰退。沼田城には上杉氏の城代が入るようになりました。
天正6年(1578)に謙信が死亡すると、上杉家では後継者の座をめぐって内乱がおき、その隙を突いて北条氏が沼田城を奪い取ります。一方、西からは武田勝頼の命を受けた真田昌幸が沼田城攻略に乗り出し、天正8年(1580)にこれを奪取。その後、北条氏と真田氏の間で沼田争奪戦が繰り広げられます。天正17年(1589)、豊臣秀吉仲裁に入り、沼田城は北条氏のもの、名胡桃城は真田氏のものと取り決めますが、沼田城代猪俣邦憲は名胡桃城を急襲してこれを奪取。これを知った秀吉は激怒し、翌天正18年(1590)、小田原を攻撃し、北条氏を滅ぼしました。
その後、沼田城は昌幸の嫡男信幸(信之)に与えられます。関ヶ原の戦いでは信幸は徳川側につき、戦後はその領地を安堵されます。元和8年(1622)に真田氏は上田から松代へ移封となり、沼田は松代藩の飛び地となりました。明暦4年(1658)、信之の孫の信利の下で沼田藩が成立しますが、寛文2年(1662)の検地で所領3万石を14万4千石と幕府に過大申告して領民を重税に苦しめることとなりました(松代10万石への対抗意識の表れといわれています)。延宝8年(1680)、沼田藩は両国橋架け替えの用材調達を請け負いますが、重税に苦しめられた領民のサボタージュに遭い、納期に間に合わなかった責任を問われ改易となり、以降しばらくの間、利根沼田・吾妻は天領となりました。
元禄16年(1703)、下総国舟戸藩から本多正長が入り、沼田藩が再び興りました。享保15年(1730)に本多氏は駿河国田中藩へ転封。代わって常陸国下館藩から黒田氏が入部します。黒田氏は寛保2年(1742)に上総国久留里藩へ転封となり、代わって老中であった土岐頼稔が駿河国田中藩から入部し、以降明治4年(1871)の廃藩置県まで土岐氏が沼田藩を治めました。現在は、沼田公園となっています。

沼田公園駐車場の入口に残る三の丸土塁。

三の丸土塁の下には、堀の名残があります。

沼田公園入口から見た本丸の様子。
写真右方向に、真田信之が慶長年間(1596年~1614)に建てた五重の天守がありました。

天守跡。
高さ8間(14.4メートル)の石垣の上に、五重の天守が建っていましたが、信利改易後に幕府によって破却されました。

本丸に建つ鐘楼。
沼田城といえばこの鐘楼ですが、かつて大手の外側にあったものをこの場所に復元したものです。

本丸北西の西櫓跡。
沼田城は真田氏改易後に一度破却され、本多氏以降は陣屋程度のものが築かれただけですが、このように真田時代の以降がわずかに残っている部分もあります。

西櫓跡の石垣。
高さ2メートルほどですが、往時はもっと高かったといわれています。

本丸の北側に設けられた捨曲輪。

捨曲輪内にある平八郎石。
真田昌幸が沼田城を奪取した際、沼田平八郎義景の首実検をした石といわれています。

捨曲輪から見た月夜野方面。

本丸の東にわずかに残る堀の跡。
石垣は往時のものです。

本丸御門跡。
右奥の電柱の向こうに堀の跡が見えます。

二の丸。
現在は野球場になっています。

利根川、薄根川、片品川が合流する崖の上に築かれた崖端城です。上杉、武田、北条の三大勢力の最前線の一つであり、絶えず争奪戦が繰り広げられました。真田氏の時代には、上州最大の五層の天守が築かれましたが、改易後に城は一度破却され、本多氏以降は陣屋程度のものが築かれたものの市街化がすすみ、遺構はあまり見られません。現在は沼田公園として沼田市民の憩いの場になっています。