龍岡城

  • 読み:たつおかじょう
  • 別名:龍岡五稜郭
  • 所在地:長野県佐久市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:大給(おぎゅう)松平氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年5月1日)
  • 訪問日:平成18年7月29日、平成20年4月5日

三河奥殿藩の大給松平氏は、信州佐久に12,000石、三河に4,000石の領地を持ち、三河には本拠を、佐久には陣屋を置いて統治を続けていました。しかし、文久3年(1863)1月、前年の参勤交代制度の緩和により家臣の在国期間が長くなり、三河の4,000石の本領では手狭になったことから、最後の藩主松平乗謨(のりかた)は信州佐久への本領移転と新陣屋五稜郭の建設を願い出ます。翌元治元年(1864)3月から着工が始まり、3年後の慶応3年(1867)に竣工。地字名を取って龍岡城と名づけられました。
しかし、明治4年(1872)の廃藩置県とともに、兵部省は全国の城郭の取り壊しを布告。龍岡城は石垣と土塁を残し、払い下げられてしまいます。しかし、御殿の一部の御台所は、翌年の学制発布により学校としての利用が認められ、現在まで残されています。
龍岡城は、函館五稜郭とともに日本に二つしかない五稜郭で、貴重な史跡であることから、昭和9年(1934)に文部省指定の史跡になっています。

北東の凹部に設けられた大手門。
城内は大半が田口小学校の敷地になっています。

大手門の右手にある大給恒(おぎゅうゆずる)の胸像。
龍岡城を築いた最後の藩主松平乗謨は、明治2年に大給恒と改名しています。明治17年(1884)に子爵、明治40年(1907)には伯爵に叙せられています。
日本赤十字社の前身である博愛社の創設と育成に貢献し、「日本赤十字社をつくり育てた人」と称えられています。

大手門の東側の堀。
このあたりの堀の幅は最も広く、9.1メートルほどあります。

石垣の高さは堀の底から3.64メートル。最上部には石垣をよじ登ろうとする敵兵の侵入を防ぐ武者返しが設けられています。

北の凸角から大手門方向。
土塁の内側に見える建物は、田口招魂社です。

北の凸角から黒門方向。

北西の凹部に設けられた黒門。
内部に田口小学校の校舎が見えます。

西の凸角から黒門方向。
このあたりは資金不足で堀が造られていません。
石垣の上に設けられた土塁は、上部の武者走りで幅が2メートルほどあります。

西の稜堡付近にある御台所。
元は東の通用門の近くにありましたが、昭和4年(1929)に現在の位置に移されました。

西の凸角に設けられた砲台。

砲台を下から。
このあたりの石垣は配列を菱型にした亀甲積みです。

砲台から南方向。

南の凸角から砲台方向。
南の凸角は、なぜか角が丸くなっています。

南の凸角から穴門方向。
南の稜堡の外側には射撃場があったと伝えられています。

南の凹部。
この内側に穴門がありましたが、現在は校舎になっています。
堀はここから東回りで黒門まで造られ、水が湛えられています。

南東の凸角から穴門方向。

南東の凸角から通用門方向。

東の凹部に設けられた通用門。
グラウンドの向こうに移築された御台所が見えます。

通用門から南側。

北東の凸角から通用門方向。
通用門の向こうに体育館が見えます。

北東の凸角。

北東の稜堡から城内を見渡します。
かつてはグラウンドの中央あたりに御殿がありました。

日本に二つしかない五稜郭のうちのひとつです。もうひとつは、函館五稜郭です。函館のものよりも規模がかなり小さいので、地上からでも星型の城であることが実感できます。