戸石城

  • 読み:といしじょう
  • 別名:砥石城
  • 所在地:長野県上田市
  • 主要城主:村上氏、真田氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和44年5月15日)
  • 訪問日:平成19年6月2日

天文10年(1541)、葛尾城に本拠を置く村上義清は、小県の海野平へ侵出。海野棟綱ら滋野一族を上州へと追いやります。戸石城は葛尾城の属城としてこの頃に整備されたものと考えられていますが、はっきりした築城年代はわかっていません。
天文19年(1550)9月、北進する武田信玄は村上氏の支配する戸石城を攻撃します。しかし10日たっても落城の気配はなく、さらに背後の寺尾城が攻撃を受けているとの報を受け、撤退を開始します。そこへ村上義清の軍が追撃をかけ、殿軍の横田高松ら1000人あまりが戦死。この戦は武田信玄の数少ない負け戦の一つとして、「戸石崩れ」の名で語られています。翌天文20年(1551)、信玄は配下の真田幸隆に戸石城の攻略を命令。幸隆は謀略を用い、僅かな手勢を率いてあっさりと戸石城乗っ取りに成功します。どのような謀略を用いたかははっきりとしていませんが、海野平に縁のある幸隆が城内に内通者を出させたのではないかとも言われています。
その後、戸石城は真田幸隆に預けられ、武田氏滅亡後も真田氏の拠点の一つとなりました。上田城が築城されてからは、上田城の背後を守る役目を負い、二度にわたる徳川との戦いでは重要な役割を果たしています。
元和8年(1622)、真田信幸の松城転封にともない、戸石城は廃城となりました。

矢沢城から見た戸石城。
戸石城、本城、枡形城、内小屋、米山城からなる複合城砦群です(米山城を戸石城と別の城とする考え方もあります)。

戸石城登山口。
この道は米山城への大手になっています。

上の写真の道をしばらく登っていくと、このような分岐に出ます。奥が米山城、右手前が戸石城、左手前が登山口です。
この場所は馬場と伝えられていますが、この尾根に馬を放せるのか、また放す必要があるのかは疑問です。

米山城

馬場から米山城側。
写真ではわかりづらいですが、かなりの急坂で昇り降りは大変です。

急坂を登っていくと、このような石垣の名残が見られます。
この裏手は米山城の主郭になっています。

米山城主郭。
村上義清の碑が建っています。

米山城二郭。
主郭の南に一段低くなった二郭が設けられています。

米山城三郭。
二郭のさらに南に三郭が設けられています。
主郭・二郭ほどの広さはない簡素なものです。

三郭の下に設けられた腰曲輪。
写真の右手前から、ふもとへ続く細い道が続いています。

戸石城

戸石城・米山城連絡路。
馬場から戸石城側。偽木の階段が延々と続いています。この上には岩場もあります。

戸石城主郭。
戸石城は南側を望む高台にあり、南方に注意を払う物見台としての役目を負いました。

戸石城主郭からの展望。
手前の森が米山城。その奥に上田市街が望めます。

主郭の北側はこのような切岸になっていて、戸石城の物見台としての性質がよくわかる構造をしています。 。
現在は写真の右側に上へ登る道が造られていますが、往時は梯子を使って昇り降りしていたと伝えられています。

本城

本城大手口。
戸石城から北へ行くと、平坦な幅広の尾根が広がります。
手前が戸石城。右は本城への大手の道で、内小屋からつながっています。

本城四郭。
本城は戸石城郭の中で最も規模が大きく、広い曲輪が南北に6つ連続しています。

主郭の虎口の脇に残る石垣跡。
戸石城は基本的に土の城ですが、このような石垣も所々に用いられました。

本城主郭。
戸石城郭群の中枢部で、居館が置かれていました。

主郭背後の堀切。
戸石城主郭の背後にも堀切がありますが、こちらのものはよりはっきりと残っています。

主郭背後の堀切の北に、矢の材料にしたと思われる矢竹の名残があります。

枡形城

本城主郭から北へ向かうと、枡形城主郭の南に設けられた腰曲輪に行き当たります。

北方に睨みを利かせる枡形城主郭。
戸石城砦群の最高地点で、ここが本城となったこともあります。

枡形城の名前の由来となった南虎口の枡形。規模はかなり小さなものです。

主郭の北には深さ2メートルほどの空堀が設けられ、その先に小さな曲輪が造られています。

枡形城からの展望。
真田郷から上信国境までを一望できます。

内小屋

山麓の陽泰寺。
この背後の山の上は本城になります。

三方を尾根に囲まれた内小屋。
家臣団の住居跡と考えられています。

内小屋はほとんどが農地化していますが、このような堀切の名残も見られます。

大手口。
内小屋から本城へ至る道の入口で、本来の大手口です。

真田昌幸が上田城を築く以前の真田氏の拠点の一つ。戸石城、本城、枡形城、米山城、内小屋からなる複合城砦群です(米山城は戸石城に含めない場合もあります)。 遊歩道は整備されていますが、それでも武田信玄を退けた城というだけのことはあり、生半可な気持ちでこの城に登るのは困難を極めます。