松本城

  • 読み:まつもとじょう
  • 別名:深志城、烏城
  • 所在地:長野県松本市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:島立氏、坂西氏、小笠原氏、石川氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和5年11月19日)、国宝(天守)(昭和27年3月29日)
  • 訪問日:平成19年9月2日、平成24年3月20日

松本城は元の名を深志城といい、永正年間(1504~1520)に小笠原氏が建てた林城の支城のひとつとして建てられたのが始まりといわれています。天文年間(1532~1554)になると、甲斐の武田信玄の進攻を受け天文19年(1550)、小笠原氏は没落。信玄は林城を破棄して深志城に大幅な改良を加え、北信濃進攻の拠点とします。

天正10年(1582)に武田氏が滅びると、大大名の空白地となった信濃に徳川家康が進出。その配下になった小笠原貞慶が旧領を回復し、深志城は松本城と改められました。天正18年(1590)に小田原征伐によって北条氏が滅びると、徳川家康は関東に移封、配下の小笠原秀政も下総古河へ移り、松本城へは石川数正が入場します。石川氏によって天守、城郭が整備されますが、数正の子康長が大久保長安事件によって改易され、小笠原秀政が松本城へ復帰。大坂の陣以降は、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田松平氏の居城として機能しました。

本丸の北西、若宮八幡跡から埋橋越しに望む松本城天守。
かつて天守最上階には廻縁(バルコニー)がありましたが、後に廻縁部分の外側に壁が造られたため、頭でっかちな印象を受ける天守になっています。
赤い埋橋の先には本丸の入口の埋門があります。

二の丸の南西から望む天守。

本丸御殿跡から望む天守。
五重六階の天守の右に三重四階の乾小天守、左に月見櫓が造られています。

埋橋から見る内堀。
かなりの幅があります。

天守の脇にある清正馬繋ぎの桜。
加藤清正がこの城を訪れたときにここに馬をつないだといわれていますが、清正が本丸まで馬を曳くような真似をしたかどうか疑問です。

月見櫓の脇の水門。
内堀へ出られる船着場になっています。
※写真提供:phos様

天守最上階から見下ろした本丸。
写真中央には本丸御殿跡があり、瓦でその区画が平面復元されています。

本丸の南の端に設けられた黒門。
昭和35年(1960)に復元されたものです。

本丸の北の門。

二の丸の東に設けられた太鼓橋。
平成11年(1999)に復元されたものです。

太鼓橋から見た外堀。

天守内部

乾小天守1階。
天守の北にあるのに「乾(北西)」小天守と名づけられたのは、北は「敗北」につながるからだといわれています。

天守に設けられた狭間。
手前が矢狭間、奥が鉄砲狭間です。

天守3階。
天守3階には窓がなく、外からはその存在がわからないようになっています。

天守4階。

天守4階に設けられた御座所。
非常時には城主はここへ詰めるようになっていたようです。

天守5階の破風。
破風内部は武者隠しになっていたといわれています。

天守6階。
最上階です。壁際にかつての廻縁の名残が見られます。

6階から上を見上げると、二十六夜様が祀られているのが見えます。
享保の火災のときに、天守を火から守ったとされています。

月見櫓内部。
赤い手摺のある廻縁が設けられています。 現存する城郭建築の中で天守と一体となった月見櫓を持つのは松本城だけです。

松本城は松本市街の中央に造られた城で、現存天守は国宝に指定されています。ユネスコ世界文化遺産の暫定リストにも記載されています。松本城は松本市の一大観光地で、いつでも多くの見物客でにぎわっています。