会津若松城

  • 読み:あいづわかまつじょう
  • 別名:鶴ヶ城、黒川城
  • 所在地:福島県会津若松市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:芦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科・松平氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年12月28日)
  • 訪問日:平成20年9月10日

佐原一族の芦名直盛が、正平3年(1384)に城を築いたのが始まりといわれています。この頃の城は黒川城と呼ばれていました。芦名氏は、同じく佐原氏の出である猪苗代の猪苗代氏に対しては、対立と支配を繰り返しますが、最終的に天正17年(1589)の摺上原の戦いの直前、猪苗代盛国が米沢の伊達政宗に内応、芦名氏は滅亡に追い込みまれ、会津には伊達氏が入りました。

その後、小田原の役での伊達氏の遅参による仕置で伊達氏が領地を没収されると、会津には蒲生氏郷が入部しました。氏郷によって城は大改修を受け、天守は七重にも及ぶ壮大なものが築かれました。しかし、文禄4年(1595)の氏郷の急死によって蒲生氏が没落すると、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命で蒲生氏は宇都宮へ転封となり、代わって上杉景勝が越後から入部します。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に組した景勝は米沢30万石に減封され、会津には宇都宮から蒲生秀行が再入部します。しかし、秀行の後を継いだ忠郷が跡継ぎを残さずに急死し、寛永4年(1627)に蒲生氏は伊予山30万石へ転封となり、入れ替わりで加藤嘉明が入部します。嘉明は天守を現在の五重のものに改めますが、息子の明成の時代の寛永20年(1643)に家中騒動の末改易させられ、会津には保科氏(3代藩主正容の時に松平氏を名乗る)が入り、以後、戊辰戦争まで松平氏の支配が続きます。

最後の藩主・松平容保は京都守護職に就き、京都の治安維持に当たり尊王討幕派の取り締まりに当たっていましたが、慶応3年(1867)に薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と鳥羽伏見で衝突。会津藩は旧幕府側に組して新政府軍と戦い、会津戦争では篭城を図るも降伏。会津藩は領地を没収され、明治新政府の直轄領となりますが、明治2年(1869)に嫡男・容大は家名存続を許され、陸奥国斗南(現在の青森県むつ市)に斗南藩(3万石)を興しました。しかし間もなく明治4年(1871)の廃藩置県で斗南藩は廃藩となりました。

西出丸。
現在は有料駐車場になっています。

西出丸と帯郭をつなぐ土橋。
高さのある土塁の設けられた立派な土橋です。

帯郭枡形。
西出丸から土橋を通ってきたところです。

鉄門。
柱や扉の木の部分を全て鉄で覆っているためこの名がつきました。

鉄門前から見た帯郭内の様子。

鉄門から見上げた天守。現在の天守は昭和40年(1965)に再建されたものです。

北出丸の様子。
北出丸は加藤明成の時代に、馬出しを改良して造られたもので、大手を守る重要な場所になっています。
北出丸に侵入した敵を、西、東、南の三方から攻撃することができたことから、「皆殺し丸」ともいわれています。

大手に当たる椿坂。
北出丸と本丸をつなぐ城への玄関口です。

太鼓門。
椿坂を登りきると現れる大手門です。
かつて太鼓が置かれ、藩士の登城の際には太鼓が鳴らされたことから太鼓門と呼ばれています。

帯郭と本丸をつなぐ門。

本丸の東に位置する二の丸と本丸をつなぐ廊下橋。
加藤明成による大改修前までは、ここが大手でした。
芦名氏の時代には屋根のついた廊下造りだったため、廊下橋と呼ばれています。

廊下橋から南側の堀を見たところ。
このあたりの石垣は高さ20メートルを超え、忍者落としと呼ばれています。

廊下橋を渡り帯郭に入ったところの枡形。

本丸内部から見た天守。
天守、多門櫓、鉄門が一体となっている様子がわかります。
手前は本丸御殿跡です。

鉄門付近から見た南走長家と干飯櫓。
平成13年(2001)に復元されたものです。

本丸の東南端に築かれた月見櫓。
ここから眺める月が絶景であったことからその名がつきました。

月見櫓の北に築かれた茶壷櫓。

本丸内部に築かれた御三階。
数寄屋風の楼閣状の建物が建っていました。
現在は市内の阿弥陀寺に移築されています。

茶室麟閣。
蒲生氏郷に匿われた千利休の弟子・少庵が、その恩義に報いて建てたものです。

廊下橋前から見た二の丸の様子。
現在はテニスコートになっています。

二の丸の南端の石垣。

二の丸の堀の南端。
何かが釣れるらしく、釣り人の姿が見られます。

二の丸の堀の東側。

二の丸と三の丸をつなぐ土橋部分。

三の丸。
遺構はほとんどなく、現在は県立博物館が建っています。

三の丸の南側部分。
この辺りには土塁が残っています。

三の丸の南端の南門。
この石垣は後世の改変で、往時は土塁の門でした。

南門付近から見た三の丸の堀。

天守からの展望

北東の展望。
白虎隊が終焉を迎えた飯盛山が見えます。

南東の展望。
小田山が見えます。明治新政府軍はここから会津若松城に向けて砲撃をしました。

南西の展望。
会津若松城の支城だった岩崎山城(向羽黒山城)が見えます。

会津若松市の旧市街の南端に築かれた城です。鶴ヶ城の呼び名で知られていますが、「鶴ヶ城」は通称で、国の史跡としての名は「若松城跡」です。会津戦争で明治新政府軍の攻撃を受け荒廃しましたが、天守、南走長家、干飯櫓が再建され、現在は鶴ヶ城公園になっています。