猪苗代城

  • 読み:いなわしろじょう
  • 別名:亀ヶ城
  • 所在地:福島県耶麻郡猪苗代町
  • 主要城主:猪苗代氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科・松平氏
  • 文化財指定:福島県指定史跡(平成13年3月30日)
  • 訪問日:平成20年9月20日

源頼朝によって猪苗代の地頭に任じられた佐原経連によって築かれたといわれていますが、その築城年代ははっきりしていません。佐原氏は後に猪苗代氏を名乗り、同じく佐原氏の出である若松の芦名氏に対しては、反逆と従属を繰り返します。最終的に天正17年(1589)の摺上原の戦いの直前、猪苗代盛国が米沢の伊達政宗に内応、芦名氏を滅亡に追い込みました。その後、小田原の役での伊達氏の遅参による仕置で伊達氏が領地を没収され会津を離れると、猪苗代氏も猪苗代を離れ、400年に及ぶ猪苗代氏の支配は終焉を迎えます。
その後、会津領主は蒲生氏、上杉氏、蒲生氏、加藤氏、保科・松平氏と続き、猪苗代城は会津の重要拠点として城代が置かれました。寛永20年(1643)に保科正之が会津藩主になると、その後明治維新まで保科・松平氏(3代藩主正容の時に松平氏を名乗る)による支配が続きました。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、会津藩は東軍(奥羽越列藩同盟、新選組)に属し、西軍(薩摩藩、長州藩)と戦いますが、母成峠の戦いで西軍が東軍を破って会津に侵入すると、猪苗代城代高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、猪苗代城はその役目を終えました。

城の南側、猪苗代町役場付近から見た猪苗代城。
中央の木々の茂る山が猪苗代城です。背後に聳える山は磐梯山です。

城の東麓に築かれた二の丸馬場。
現在は駐車場になっています。

城址公園入口の枡形門の跡。
石垣がはっきりと残っています。
大手門はさらに東側の三の丸にありましたが、三の丸は宅地化、農地化が著しく、往時の面影は見られません。

枡形門をくぐったところ。
写真右側の三本の杉の下には、三本杉の井戸の跡が見られます。
階段は昭和30年ごろの失業対策事業で造られたもので、遺構ではありません。

上の写真の道を登ると現れる虎口。
上へ登ると本丸の城壁に突き当たり、左へ向かうと胴丸に行き当たります。

上の写真を左に行くと現れる胴丸。
写真は南から北側へ向かって撮影したものです。

虎口から登ったところを、二の丸から見下ろしたところ。
下から登ると、道が突き当たり左右に分かれる様子がよくわかります。道を右に曲がると本丸、左へ行くと二の丸へ行けます。

二の丸の北の虎口。
おそらくはこちら側が大手の道だったと思われます。

二の丸の南側にある、アメリカから寄贈された野口英世の頭部像。
野口英世は猪苗代町の出身で、幼い頃は猪苗代城の城跡でよく遊んでいたといいます。

野口英世像付近から見た二の丸。
写真左上は本丸です。その右には二の丸の北の虎口が見えます。

本丸の南に位置する黒門。
二の丸と本丸を仕切っていました。

上の写真に写っている展望台から本丸を見下ろした様子。
本丸を囲む土塁がよく残っているのがわかります。

本丸の土塁上から西側を見下ろした様子。
空堀が二重構造になっている様子がわかります。

二重空堀の下側の堀の内部の様子。
かなり広く、腰曲輪といってもいいほどです。

二の丸の南側から望む景色。
写真ではわかりづらいですが、水田の広がる先に猪苗代湖が見えます。

本丸の北側から望む景色。
手前の緑の屋根の建物は猪苗代小学校、高く聳える山は磐梯山です。

本丸の北側に位置する曲輪。
現在は児童公園になっています。
左の土塁の上は本丸です。

上の写真の下に位置する稲荷社。

稲荷社の西側に位置する曲輪。
現在は農地になっていますが、往時は城代屋敷がありました。

猪苗代湖北岸に広がる平地のほぼ中央に位置する丘の上に築かれた城です。丘の上の本丸、二の丸と、その東麓に広がる三の丸がありましたが、三の丸は宅地化、農地化が進み遺構はほとんど見られません。
伊達氏が芦名氏を滅ぼして以降、猪苗代城は会津若松城の支城となり、会津若松城の支配者が代わっても、戊辰戦争まで一貫して会津若松城の支城としての役目を果たし続けました。