二本松城

  • 読み:にほんまつじょう
  • 別名:霞ヶ城、白旗城
  • 所在地:福島県二本松市
  • 主要城主:畠山氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年9月10日

二本松城は、応永21年(1414)に畠山満泰によって築かれたのが始まりとされています。畠山氏は南北朝時代から二本松周辺を支配していましたが、天文13年(1585)に伊達氏との抗争に敗北し降伏。以後、二本松城は伊達氏のものとなり、伊達氏は米沢、会津、二本松を支配します。
その後、会津の領主は伊達氏、蒲生氏、上杉氏、蒲生氏、加藤氏とかわり、寛永20年(1643)に会津には保科氏が、二本松には白河から丹羽氏が入り、以後、戊辰戦争まで丹羽氏の支配が続きます。
慶応4年(1868)の戊辰戦争では、二本松藩は奥羽越列藩同盟に組して新政府軍と戦い、白河口の戦いでは12~3歳の少年兵も動員されました。戊辰戦争後、二本松藩は減封され、明治4年(1871)の廃藩置県で二本松藩は廃藩となりました。

山上部

本丸の東側、乙森の曲輪からみる本丸。
乙森までは車で来ることができます。

本丸の下南面に残る大石垣。
二本松城に残る最も古い石垣の一つです。

本丸虎口。
典型的な枡形構造になっています。

天守台。
実際には天守台の上に天守は築かれませんでした。

天守台の脇にある城代丹羽和左衛門と勘定奉行安部井又之丞の自尽の碑。

東櫓台。
天守台と石垣でつながっています。

西櫓台。
向こうに見える山は安達太良山です。

天守台の北西面下に残る二重石垣。
天守台の構築を意識して造られた、二本松城最古の石垣の一つです。

本丸の西にある搦手門。
かなり大規模な石垣が築かれています。

本丸の北には、このような空堀も残されています。

山麓部

山麓部大手の千人溜にある二本松少年隊の像。
戊辰戦争では12~3歳の少年兵が動員され、その多くが討ち死にしました。
後ろは箕輪門。

二本松城の正門にあたる箕輪門。
戊辰戦争で灰燼に帰しましたが、昭和57年(1982)に再建されました。

箕輪門前から見た千人溜。
戊辰戦争では実際にここに兵が集結し、出撃していきました。

三の丸。
秋には菊人形展が開催されます。

千人溜の西から見上げた三の丸の様子。

三の丸の北西に造られた洗心亭。
城内にいくつかあった茶亭の一つ。天保8年(1837)に崖崩れのために阿武隈河畔へ移築したものを、明治31年(1898)に再移築したものです。

丹羽氏の時代の面影を残す「るり池」。
池の水は安達太良山の中腹から二合田用水で引水されたものです。

二本松市街の北に位置する山に築かれた平山城です。伊達氏の時代以降、会津若松城の支城の役割を果たしてきましたが、二本松が会津から分離すると、二本松藩の拠点となりました。
丹羽氏の時代には、政庁としての役割は山麓部に移り、山上部は使用されていなかったものと思われています。