米沢城

  • 読み:よねざわじょう
  • 別名:舞鶴城、松ヶ岬城
  • 所在地:山形県米沢市
  • 主要城主:長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年9月11日

米沢城は、暦仁元年(1238)に長井郷の地頭に封ぜられた大江時広が築城したと伝えられています。時広は赴任地の地名から長井氏を名乗り、以後150年近く長井氏の支配が続きました。室町時代初期には伊達宗遠が長井広房を追い、米沢は伊達氏の支配下に入りました。
天文17年(1548)には晴宗が桑折西山城から米沢城へ本拠を移し、永禄10年(1567)には息子の政宗がこの城で生まれています。天正17年(1589)に政宗は芦名氏を破って領地を会津へ広げますが、天正18年(1590)の小田原の役への遅参による仕置を受け、天正19年(1591)に領地を没収され岩出山城へ移封となり、代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷が米沢を支配します。しかし、文禄4年(1595)の氏郷の急死によって蒲生氏が没落すると、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命で蒲生氏は宇都宮へ転封となり、代わって上杉景勝が越後から会津に入部。米沢城には直江兼続が入りました。米沢城は兼続の時代に改修を受け、現在の規模になっています。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍支持を表明した上杉氏は、領地を伊達・信夫・置賜の30万石に減らされ、以後、明治維新まで米沢城は上杉家の居城となりました。寛文4年(1664)には、上杉綱勝が嗣子を定めないまま急死。綱憲を養子と迎えることを認められたものの領地は置賜15万石に減らされ、米沢藩の財政は逼迫することになりましたが、明和4年(1767)に藩主となった治憲(鷹山)の藩政改革により、財政再建を果たしました。
戊辰戦争では奥羽列列藩同盟に組し、明治新政府軍と戦いますが降伏。その後は新政府軍に加わり、庄内藩に兵を出しています。戊辰戦争後は14万7000石に減封されたものの家名は存続し、明治4年(1871)の廃藩置県で廃藩となりました。
現在は、本丸が上杉神社になっています。

本丸の東側入口にあたる舞鶴橋。
奥に上杉神社の本殿が見えます。

舞鶴橋から見た本丸の堀。

舞鶴橋から本丸に入ってすぐのところに、伊達政宗生誕の地の碑が建っています。

伊達政宗生誕の地の碑の隣に立つ9代藩主上杉鷹山像。
逼迫した米沢藩の財政再建を果たした藩主です。

本丸奥御殿の跡に建つ上杉神社本殿。
上杉家の祖・謙信と、中興の祖・鷹山を祀っています。

上杉家の祖・上杉謙信の像。
本丸の東側に立っています。

二の丸から本丸北西端を見たところ。
土塁の上に三層の隅櫓が建っていました。

西参道の様子。
門の跡と枡形が残っているように見えますが、後世の改変で、往時はここに入口はありませんでした。

北参道の様子。

北参道から見た堀の様子。
このあたりの幅が最も広く、30メートルほどあります。

本丸北東端に建つ上杉曦山(13代藩主斉憲)の碑。
往時にはここに北西端と同じような三層の隅櫓が建っていました。

本丸南東端。
ここは周りよりも少し高くなっていて、上杉謙信の遺骸を祀る御堂の跡(写真左)と、招魂碑が建っています。

南参道の菱門橋。

本丸北西端に建つ春日神社。
元は越後の春日山城にありましたが、上杉氏の米沢への移封にともなってここへ移されました。
大正8年(1919)の米沢大火で上杉神社と共に焼失し、松岬神社に合祀されていましたが、昭和56年(1981)に再建されました。

二の丸東部、世子御殿跡に建つ松岬神社。
上杉景勝・直江兼継・竹俣当綱・莅戸善政・上杉治憲(鷹山)・鷹山の師、細井平洲の6人が祀られています。

二の丸南部に建つ上杉伯爵邸。
明治29年(1896)に上杉茂憲伯爵の本宅として建てられましたが、米沢大火で焼失。現在の建物は大正11年(1922)に再建されたものです。

上杉伯爵邸の南と東を取り囲む堀。

米沢市のほぼ中央に位置する平城で、方形の本丸を二の丸がぐるりと取り囲む輪郭式の城郭です。伊達氏、上杉氏といった大大名が居城としましたが、天守は造られず、石垣も用いられない質素な土塁の城となっています。
現在は本丸に上杉神社、二の丸東部に松岬神社と上杉博物館、二の丸南部に上杉伯爵邸が建っています。