新府城

  • 読み:しんぷじょう
  • 別名:新府中韮崎城
  • 所在地:山梨県韮崎市
  • 主要城主:武田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和48年7月21日)
  • 訪問日:平成19年9月2日

天正9年(1581)に武田勝頼が配下の真田昌幸に命じて築城させた城です。正式名称は新府中韮崎城といい、同年12月に、甲府にあった拠点をまだ築城中の新府城に移しました。翌天正10年(1582)、織田・徳川の甲斐進行が始まると、未完の新府城は勝頼の手によって火を放たれて破棄されてしまいます。真田昌幸は岩櫃城での体勢の建て直しを進言しますが、勝頼は聞き入れず、小山田信茂の岩殿城へ移ることを決めます。しかし3月11日、笹子峠にて信茂の謀反に遭い、岩櫃城を目指し天目山へ入ったところを滝川一益の軍勢が立ち塞がり、勝頼親子は自刃。甲斐武田氏は滅亡しました。
その後、新府城の廃墟は信長や家康によって陣所として利用されました。特に家康は北条氏直との戦いで新府城の真価を発揮し、5倍の氏直の軍勢を翻弄しました。

東の堀から、本丸へと続く石段。
石段の上には神社が建てられています。神社と石段は勝頼の時代にはなく、後世になって造られたものです。

石段を登ると神社本殿が建っています。
新府藤武神社といい、「しんぷさん」と呼ばれ親しまれています。

新府城本丸。
東西90メートル、南北120メートルの広大な曲輪です。
写真は神社の裏手を北から南に向かって撮影したものです。

本丸北端の武田勝頼公霊社。
武田氏滅亡後、地元民によって造られたものです。

勝頼公霊社の両脇には、勝頼に従った武将の霊位が並んでいます。
写真は右から山方三郎兵衛昌景、高坂源五郎昌澄、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝の霊位です。

本丸の西に広がる二の丸。
新府城には石垣はなく、土塁が用いられています。
写真の奥は七里岩の断崖絶壁になっています。

二の丸から眺める釜無川。
この方向は七里岩の断崖絶壁になっていて、こちら側からの攻城は不可能です。

二の丸の北にある井戸。
すり鉢状の地形の中央をさらに掘り下げ水を得ていたものと思われます。

井戸の北の搦手の馬出し。
写真の手前が搦手門になっています。
左の土塁のむこうは、下の写真の堀になっています。

搦手脇の水堀。
写真右が上の写真の馬出しです。
このあたりの堀は現在も水をたたえています。

城の北西端に当たる搦手門。
写真左は七里岩の断崖絶壁です。
このあたりは、整備や発掘作業が進められています。

本丸の南にはいくつか腰曲輪が設けられています。

本丸の南に設けられた三の丸は土塁によって東西に仕切られています。写真は西三の丸。
写真奥の土塁のむこうが東三の丸になっています。

東三の丸。
東西を仕切る土塁は防衛のためよりも仕切りのための色合いが強いようです。

東三の丸の南に設けられた大手門。
大手門の南(写真手前)には丸馬出しが設けられています。

武田氏の城特有の三日月堀の遺構です。案内板によると、往時は水を湛えていたようです。
写真右の土塁の上が丸馬出し、さらに右が大手門となっています。

首洗池。
本丸の東、神社の石段のさらに東に位置する堀の一部です。
本当に首を洗っていたかは定かではありません。

東堀に突き出した出構えのひとつで、東出構えと呼ばれています。
ここに射撃兵を配置し迎撃しようとした他に類を見ない珍しい遺構です。
新府城にはもうひとつ西出構えがあります。

釜無川の東岸、七里岩の断崖の上に築かれた武田氏最後の城です。現在は本丸に神社が築かれ、そこへ向かうための車道が設けられているため、一部がかなり改編されてしまっています。しかし、それ以外の城域は遺構がよく残っている方で、発掘作業の進められている箇所もあります。