伏見城

  • 読み:ふしみじょう
  • 別名:木幡山城
  • 所在地:京都府京都市伏見区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:豊臣氏、徳川氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年6月21日

伏見城は、文禄元年(1592)に豊臣秀吉の隠居城として築かれたのが始まりです。この時の伏見城は宇治川沿いの指月の岡に築かれ、「指月山伏見城」と呼ばれています。文禄4年(1595)に聚楽第が廃城となるとその建物が移築されますが、指月山伏見城は、慶長元年(1596)に近畿地方を襲った大地震により倒壊。その後、地盤の強固な木幡山で再建されました。震災後に再建された伏見城は「木幡山伏見城」と呼ばれています。

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康がこの城に入り政務を行うようになります。家康はやがて石田三成と対立し、慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いに先立ち石田三成が伏見城を攻撃。家康の家臣鳥居元忠らが守りましたが落城し、焼失しました。

関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康により、伏見城は大坂城の豊臣氏への牽制として再建されますが、慶長20年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると伏見城の存在意義は薄れ、寛永2年(1625)に廃城となりました。廃城にあたり、伏見城の建物の多くが移築され、石垣が淀城大坂城へ、大手門が御香宮神社の表門へ、櫓が福知山城の伏見櫓に、天守が二条城へ移されました。

廃城後、城郭一帯は桃畑として開墾され、桃山と呼ばれるようになります。大正になると、本丸部分は明治天皇の御陵とされ現在では無許可での立ち入りは禁じられています。また花畑跡には昭和39年(1964)、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が造られ、そのシンボルとして鉄筋コンクリート造の模擬天守が築かれました。伏見桃山城キャッスルランドは平成15年(2003)に廃園となり、京都市営の伏見桃山城運動公園として整備されました。この際、模擬天守の取り壊しも検討されましたが、地元の要望もあり現在も残されています。

京阪宇治線桃山南口駅付近から見た伏見城址。
階段の上には明治天皇陵が築かれています。
200段以上あるこの階段は、付近の学校の運動部が体力づくりに利用しています。

上の写真の階段を登っていくと明治天皇陵があります。
後ろの山の上が伏見城本丸ですが、現在は宮内庁管理区画となり無許可での立ち入りはできません。

JR奈良線桃山駅から明治天皇陵への参道の脇には、石垣に用いられたと考えられる石材が並んでいます。
これらの石材は、下水道工事の際に発掘されています。

明治天皇陵から桓武天皇陵へ向かう道の脇に見える池。
伏見城の堀の跡なのかはわかりません。

花畑跡に造られた模擬城門。

模擬城門の脇には、伏見城の石垣に用いられた石材が鎮座しています。

伏見桃山城。
秀吉の造った伏見城をイメージして造られた模擬天守です。伏見桃山城キャッスルランドの目玉アトラクションでした。
廃園後も地元の強い要望により残されています。

天下統一を果たした豊臣秀吉が自身の隠居城として築いた城です。震災前の指月山伏見城、震災後から伏見城の戦いまでの木幡山伏見城、関ヶ原後の徳川氏による木幡山伏見城と、約30年間で3つの城が築かれました。
廃城後、城郭施設が各地へ移築され、石垣の石材も淀城、大坂城へ転用されたことから、遺構はほとんど残っていません。現在は大部分が宮内庁管理区域になっており、無許可での立ち入りは禁じられています。