淀古城

  • 読み:よどこじょう
  • 別名:藤岡城
  • 所在地:京都府京都市伏見区
  • 主要城主:畠山氏、細川氏、豊臣氏、木村氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成20年6月21日

淀城の北500メートルほどの納所地区に築かれた城で、淀城と区別して「淀古城」と呼ばれています。淀古城の築城年代ははっきりとしていませんが、応仁の乱の際に畠山政長が西軍の畠山義就に備えるために、居城を勝龍寺城から淀古城へ移したのが始まりといわれています。
その後、細川政元が幕府の管領として淀古城に入りますが、永正元年(1504)に薬師寺元一が細川氏に反旗を翻し、この城の攻防を繰り返しました。永禄2年(1559)には三好長慶が今日を制し、細川氏綱を淀古城に配しますが、永禄11年(1568)に織田信長が上洛を果たし、織田勢の攻撃を受け落城しています。
天正17年(1589)、信長に代わり天下人となった秀吉は弟秀長に淀古城の大改修を命じ、淀古城には秀吉の側室茶々(この頃から茶々は「淀殿」と呼ばれるようになります)が入城します。淀殿は淀古城で鶴丸を出産しますが、鶴丸はわずか3歳で病死してしまいます。鶴丸の死で、秀吉の甥秀次が秀吉の養子となり関白となりますが、朝鮮の役のさなかに淀殿が秀頼を出産。秀次は淀殿との軋轢から破滅し、文禄元年(1592)から淀古城を預かっていた木村常陸介も秀次に連座。淀古城は文禄3年に廃城となり、その部材は伏見城に転用されました。

淀古城の一部であった妙教寺。

妙教寺境内に建つ石碑。
ここにかつて城があったことを伝えるのは、今ではこの石碑のみとなっています。

妙教寺本堂。
慶応3年(1967)の鳥羽伏見の戦いでの弾痕が残っているとのことです。

妙教寺の南を流れる小川。
淀古城の堀の跡と考えられています。桂川の宮前橋の北につながっています。

桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる水陸運の要衝・淀に築かれた城です。京を確保しようとする勢力により、たびたび攻防が繰り返されました。秀吉の側室茶々が出産のために入城したことから、「淀殿」と呼ばれるようになっています。
現在はわずかな堀の跡と石碑が残るのみで、遺構はまったく残されていません。