箕輪城

  • 読み:みのわじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県高崎市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長野氏、井伊氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和62年12月17日)
  • 訪問日:平成21年1月4日

箕輪城は、長野尚業によって築城されたのが始まりとされています。その築城年代には諸説あり、永正9年(1512)とも大永6年(1526)ともいわれています。この頃の箕輪城は、二郭、主郭、御前曲輪程度のもので、現在搦手となっている東明屋方面が大手でした。長野氏は平井城の関東管領山内上杉氏に代々仕えました。天文21年(1552)に平井城は北条氏の攻撃を受け、関東管領上杉憲政は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の元へ逃げ延びましたが、長野氏は北条氏に対し抗戦し、箕輪城を守っています。

天文23年(1554)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の間で甲相駿三国同盟が結ばれ、氏康は信玄に西上州の攻略を促します。弘治3年(1557)、信玄は西上州へ進撃し箕輪城を三度攻撃しますが、長野業政はこれを防ぎ、同年10月に信玄は一度甲府へ帰陣しています。

永禄4年(1561)、信玄は再び西上州へ進撃。永禄6年(1563)に和田城(高崎城の前身)の和田業繁が武田に寝返ったことで西上州は一気に武田の支配下に入り、業政の後を継いだ業盛の守る箕輪城は孤立。永禄9年(1566)9月、箕輪城は落城し、城主業盛は御前曲輪で自刃しました。その後長野氏は鷹留城主であった業通が吾妻の長野原へ逃げ延びたと伝えられてます。

武田氏の支配下に入った箕輪城には内藤氏が入りますが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると織田氏配下の滝川一益が入城。同年6月に本能寺の変が起こり、滝川一益が上州から撤退すると北条氏邦が箕輪城を占拠します。天正18年(1590)の小田原征伐では、前田利家、上杉景勝の連合軍の前に無血開城し、北条氏の滅亡後は徳川家康配下の井伊直政が12万石で箕輪城に入城します。井伊氏は箕輪城を大改築し、現在の規模のものとしますが、慶長3年(1598)、交通の便の良い和田城跡に高崎城を築城して移ったため廃城となりました。

城域の東側に位置する東明屋の砦。

東の出入口である搦手口。
長野氏の時代にはこちら側が大手でした。

搦手口の南の堀の様子。
城域の南に位置した榛名沼の水はこの辺りまで入り込んでいたものと思われます。

二郭の虎口。
奥が搦手口です。

二郭。
縦横80メートルほどの郭で、四方へ出撃するための拠点となっていました。

二郭から東側を見たところ。
遠くに赤城山が見えます。

二郭と主郭の間に設けられた門馬出し。

門馬出しから見た二郭と主郭の間の堀。
深さ10メートルにも及ぶ巨大な堀が箕輪城中枢部を取り囲んでいます。

主郭。
南北100メートル、東西70メートルほどで、持久防御のための拠点となっていました。

堀の際に築かれた石垣。
三段構造で、堀が崩れないようになっています。

主郭の東端に設けられた土塁。
下部を石垣で覆った腰巻土塁です。

主郭の二郭方面へ突き出した部分。
ここから門馬出しの内外を攻撃できるようになっていました。

主郭と御前曲輪の間の堀。
この堀は主郭・二郭・御前曲輪を取り囲む堀へ降りるための通路であったと考えられています。

御前曲輪。
主郭の詰めにあたる曲輪で、箕輪城の精神的中心でした。
長野業盛はこの曲輪にあった持仏堂で自刃しました。

二郭と郭馬出しを結ぶ土橋。
写真奥が郭馬出し、手前が二郭です。

郭馬出しの土橋から見る大堀切。
箕輪城はこの大堀切によって南北に分断され、この場所にある土橋のみで南北が連結されています。
これにより、城の一方を失っても、残った一方のみで戦うことができる仕組みになっています。

郭馬出し。
写真奥に二郭が見えます。

木俣。
道が5方向に分かれる曲輪なので、木俣と名づけられています。

椿名口。
城の南東の入口です。

椿名尾根の堀切。
椿名口から木俣への通路です。
椿名の名は、このあたりに咲く椿からとられています。

城の南端に位置する水の手曲輪。
現在は法峯寺が建っています。

観音口。
水の手曲輪の上からの入口です。

観音口の西に位置する大手尾根口。

南の入口になっています。

二郭の西に位置する三郭。

三郭西面の石垣。
井伊氏の時代になると城の西側が大手となり、目立つ部分に石垣が使われるようになります。

三郭の西に位置する鍛冶曲輪。
武具を製造した火事場があったところです。

鍛冶曲輪の石垣。

大手虎韜門。
井伊氏の時代にはこちら側が大手になりました。
兵法書「六韜」のうちの一巻の名から「虎韜門」と名づけられています。

大手虎韜門から榛名白川方面へと続く白川口埋門。
埋門跡が残っているのは、上州ではここだけです。

三郭の北に位置する蔵屋敷。

蔵屋敷と主郭の間の堀。
右が蔵屋敷、左が主郭です。
この位置には、主郭と蔵屋敷をつなぐ橋が架かっていました。

御前曲輪北堀。
箕輪城に張り巡らされた堀がここで合流しています。
この辺りから北側の堀は、往時は水堀となっていました。

丸馬出し。
往時は周囲を水に囲まれた半円型の曲輪でした。

新曲輪。
箕輪城の弱点とも言える場所で、初陣の武田勝頼がここを攻めようとしたこともあります。

稲荷曲輪。
防御の劣る新曲輪方面をカバーする曲輪でした。

榛名白川と井野川に挟まれた高台に築かれた山城で、関東三大山城、日本の城百選にも選ばれています。現在の遺構は井伊氏の時代のもので、長野氏の時代のものとはかなり異なっています。