2009年3月アーカイブ

  • 読み:まつしろじょう
  • 別名:海津城
  • 所在地:長野県長野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:高坂氏、森氏、春日氏、村上氏、上条氏、須田氏、田丸氏、長沢松平氏、福井松平氏、酒井氏、真田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和56年4月11日)
  • 訪問日:平成21年2月7日

元々この地にあった清野氏の館を武田信玄が大改修し、川中島の押さえとして築城した海津城が始まりとされています。その築城時期は「甲陽軍鑑」によれば天文22年(1553)とされていますが、永禄2年(1559)から3年の間という説が主流です。永禄4年(1561)には信玄の重臣高坂弾正昌信が入城し、同年の第4次川中島合戦の舞台となっています。

天正10年3月(1582)に武田氏が滅亡すると、海津城には織田信長配下の森長可が入ります。しかし、同年6月に本能寺の変が起きると長可は海津城を放棄。空いた海津城には上杉景勝配下の春日信達が入りますが、信勝は上田の真田氏を通じて北条氏に内通しようとして誅殺されます。代わって村上義清の子・景国が入りますが、間もなく罷免。その後上条氏、須田氏と城主が代わります。

慶長3年(1598)、上杉景勝が会津へ移封となると松代は豊臣氏の領地となり、海津城には田丸直昌が入ります。慶長5年(1600)には徳川家康配下で森長可の弟・忠政が入り、慶長8年(1603)には家康の六男・松平忠輝が入ります。忠輝は元和3年(1617)に改易となり、その後松平昌、酒井忠勝らが城主を務めました。

元和8年(1622)、真田信之が上田から十万石で海津城へ封じられます。海津城はその後、松代城と名を改め、以後明治維新まで真田氏が松代藩を治めました。
明治以降、松代城は改変が著しく本丸以外の遺構はほとんど残っていませんでしたが、現在は石垣や城門、二の丸が復元されています。

二の丸南門。

復元された太鼓門、引橋門、前橋。
松代城といえばこの風景です。

二の丸南門付近から見た二の丸内部。

二の丸の南に突き出した円弧状の曲輪。
何のための曲輪なのか今ひとつよくわかりません。

二の丸西部と北部をつなぐ埋門。
人一人が通れる程度です。

搦手木戸付近から見た二の丸北部。
戌亥櫓台とその向こうに土塁と埋門が見えます。

搦手木戸付近から見た北不明門と丑寅櫓台。

搦手木戸を外側から見たところ。

二の丸の北に設けられた新堀。
往時はこのすぐ近くまで千曲川の流れが来ていました。

二の丸北部と二の丸東部を隔てる堀。
二の丸の外堀とつながっていたものです。

二の丸東部。二の丸御殿が建っていましたが、幕末には土蔵7棟が建ち並んでいました。

二の丸の東門・石場門。
実物は地中にあり、現在見ることができるのはレプリカです。

本丸南面の引橋門をくぐったところ。
枡形構造になっています。

太鼓門付近から本丸内部を見たところ。

戌亥櫓台。
天守台かと見紛うほどの石垣ですが、この上に建っていたのは二重櫓です。

戌亥櫓台上から北不明門を見たところ。
こちらも枡形構造になっています。

戌亥櫓台上から妻女山を見たところ。
第4次川中島合戦では、上杉軍が妻女山に布陣したと伝えられています。

川中島の要衝として武田信玄が築いた城です。多くの逸話を残した第4次川中島合戦の舞台となっています。
明治以降の改変が著しかったものの、国の指定となったことで史跡の整備が進み、城門、土塁、石垣が復元されています。

  • 読み:たかしまじょう
  • 別名:諏訪の浮城、島崎城
  • 所在地:長野県諏訪市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:日根野氏、諏訪氏
  • 文化財指定:諏訪市指定史跡(昭和54年2月15日)
  • 訪問日:平成21年2月11日

天正18年(1590)に豊臣秀吉配下の日根野高吉によって築かれたのが始まりです。諏訪湖にせり出す形で築かれた高島城は、諏訪湖の湖水と数条の河川が天然の堀の役割をし、あたかも諏訪湖に浮いているかのように見えたことから「諏訪の浮城」とも呼ばれました。

慶長6年(1601)には、武田信玄によって諏訪領主の座を追われ諏訪大社大祝を務めていた諏訪氏がこの地の領主に返り咲き、以後明治維新まで高島藩を治めました。諏訪氏は諏訪湖の干拓事業を進め、諏訪湖の水位は低下。1700年代にはすでに「諏訪の浮城」の面影はなくなっていたといわれています。

明治を迎えると高島城は廃城となり、城跡は高島公園として開放されました。現在の天守は昭和45年(1970)に復元されたものです。

東角櫓。

東隅櫓付近から見た冠木橋、冠木門、天守。
この付近だけを見ると、「諏訪の浮城」の名のとおりに見えます。

冠木橋と冠木門。

冠木門付近から本丸内部を見たところ。

本丸搦手にあたる土戸門。

川渡門。城が湖に面していた頃は、ここから舟で諏訪湖に出ることができました。
現在ここに建っているのは三の丸御殿裏門で、昭和63年(1988)に所有者から諏訪市に寄贈され移築されたものです。

本丸内に建つ諏訪護国神社。

本丸内部から見る三層三階の復元天守。
往時の天守は、湿地帯に建っていたことから重い瓦は使えず、杮葺きの屋根であったと伝えられています。復元天守の屋根は銅葺きになっています。

天守は天守台よりも若干小さめに造られていました。

天守台から本丸内部を見下ろしたところ。

天守台から東側を見たところ。
諏訪頼重最期の地・桑原城が見えます。

天守台から諏訪湖方面を見たところ。
かつては城の石垣を洗っていた諏訪湖も干拓事業により遠ざかってしまっています。

かつて「諏訪の浮城」と呼ばれ、中仙道の名城と歌われた城です。周辺は市街化が進み、本丸が公園として残されているだけになっています。
ちなみに高島城天守は、最も標高の高いところ(約800メートル)に造られた天守(模擬天守を除く)で もあります。

  • 読み:うちこしじょう
  • 別名:内小屋城
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:横尾氏、真田氏
  • 文化財指定:上田市指定史跡(横尾城とともに)(昭和47年4月1日)
  • 訪問日:平成21年2月28日

打越城の築城年代は不明ですが、横尾采女守が築いたものといわれています。天文19年(1550)の上田原合戦では采女守は村上義清に属して武田軍と戦い、戦死。残された幼君は家臣と共に上州へ逃れたと伝えられています。

翌天文20年に戸石城の村上義清を破った真田幸隆がこの地に入り、打越城は真田氏本城を築くまでの真田氏の本拠として利用されたと考えられています。

現在の城域は信綱寺の境内になっています。

真田氏本城から見た打越城。

古城緑地公園駐車場から見た打越城。
この山の向こう側に横尾氏・真田氏の居館があったといわれています。
打越城は、街道側から居館の様子をうかがうことを防ぐ目隠しの役目を負っています。

大手の枡形。
現在は信綱寺の入口になっています。

大手から続く道はなだらかな登り坂です。

堀切に築かれた信綱寺黒門。
この門をくぐり大柏山川を渡ると、信綱寺の本堂が見えてきます。
門の向こう側に三郭が見えています。

主郭から見た二郭の様子。
二郭の向こうには、墓地となっている三郭が見えます。
主郭、二郭、三郭が直線状に並ぶ単純な構造の城です。

主郭。

主郭背後の堀切。
ほとんど埋まってしまっています。

信綱寺。
長篠の合戦で戦死した真田信綱夫妻・昌輝の墓があります。
真田氏本城ができるまでは、この辺りが居館として利用されていたといわれています。

古城緑地公園。

真田盆地の西端、大柏山の麓の小山の上に築かれた城です。現在は城域のほとんどが信綱寺の境内になっており、三郭が墓地として利用されています。

  • 読み:よこおじょう
  • 別名:尾引城
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:横尾氏、真田氏
  • 文化財指定:上田市指定史跡(打越城とともに)(昭和47年4月1日)
  • 訪問日:平成21年2月28日

横尾城の築城年代は不明ですが、横尾采女守が築いたものといわれています。天文19年(1550)の上田原合戦では采女守は村上義清に属して武田軍と戦い、戦死。残された幼君は家臣と共に上州へ逃れたと伝えられています。

翌天文20年に戸石城の村上義清を破った真田幸隆がこの地に入り、以来、横尾城は真田氏の山城群の一つとなりました。

現在は主郭に秋葉神社が建っています。

神川の対岸にある幸村の郷から見た横尾城。

横尾城入口。

大手の道。
道脇に段郭が設けられています。

主郭に近いところの段郭。
ここには石積が残っていますが、草に覆われて見えなくなっています。

主郭。
主郭には秋葉神社が建っています。

主郭から南東側を見たところ。
真田氏本城天白城が見えます。

主郭西側の虎口。

主郭背後の二重堀切。

主郭から北の副郭まではなだらかな道が続いています。

副郭。
主郭背後の尾根を抑え、北東の長尾城との連絡を取っていたところです。

副郭の土塁を背後から見たところ。

南麓に建てられた横尾神社。
横尾氏が祀られています。

横尾地区の背後の小高い山に築かれた城です。南正面にいくつもの段郭を備え、主郭背後を堀切で守っています。このような造りの城は周辺によく見られ、洗馬城曲尾城松尾古城などがあげられます。

  • 読み:せばじょう
  • 別名:千葉城
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:海野氏、真田氏
  • 文化財指定:上田市指定史跡(昭和47年4月1日)
  • 訪問日:平成21年2月28日

横尾城の築城年代は不明ですが、「諏訪御符礼之古書」の応仁2年(1468)の条に、村上氏が海野氏の千葉城を改めたとあり、この千葉城が洗馬城であると考えられることから、それ以前の築城と考えられています。

真田氏がこの地に入ってからは、真田の山城群のひとつとなり、松代方面への備えとなりました。

洗馬城入口。
真田森林事務所の脇から登っていきます。

大手の道は尾根道をほぼまっすぐに登っています。
尾根道には所々に堀切が設けられ、写真左下にも堀切が見られます。

所々に段郭が設けられています。

主郭。
主郭に枡形を用いていたといわれていますが、今ではその面影は見られません。

主郭からの展望。
横尾城曲尾城がすぐ近くに見えます。

主郭背後の堀切。
右が主郭側です。

傍陽小学校の裏山に築かれた城です。松代道のを挟んだ曲尾城とともに、松代方面への備えの役目を負っていました。

  • 読み:まがりおじょう
  • 別名:根小屋城
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:村上氏、真田氏
  • 文化財指定:上田市指定史跡(昭和47年4月1日)
  • 訪問日:平成21年2月28日

曲尾城の築城年代は不明ですが、天文年間には村上氏の支城であったと考えられています。

その後武田氏が村上氏をこの地から追うと、信玄配下の山県昌景の家臣大熊朝秀の居城となったと伝えられています。大熊氏はその後真田氏の家臣となっています。

曲尾城入口。
主郭のある頂上まで九十九折の道が続きます。

主郭に近いところでは、所々に石積が見られます。

主郭。

主郭の北側に設けられた土塁。

沢を挟んだ隣の山に設けられた砦。「根小屋の低い城」と呼ばれています。

主郭背後。
藪になっていてわかりづらいですが、階段の下に一本、橋の下に一本堀切が設けられ、二重堀切になっています。

曲尾地区の洗馬川の対岸の山に築かれた城です。周囲の山よりも高く盛り上がり、北側は絶壁になっている天然の要害を利用して造られています。
真田氏の山城群の中では比較的新しい時期に改修を受けたものと見られ、石積が多用されています。

  • 読み:てんぱくじょう
  • 別名:天白山城
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:真田氏
  • 文化財指定:上田市指定史跡(昭和47年4月1日)
  • 訪問日:平成21年3月7日

天白城は真田信綱によって築かれたと伝えられています。その位置から真田氏館の詰めの城の一つとも、真田氏本城の背後を固める出城ともいわれています。

天白城入口の北赤井神社。
背後の山が天白城です。

北赤井神社から道を少し登るとこのような石積が姿を現します。
天白城の遺構なのか耕作地造成によるものなのかは不明です。

北赤井神社奥社。
この部分は石積によって造成されており、往時は曲輪の一つであったかと思われます。

主郭南面の腰曲輪。
写真右上に石積が見えます。

主郭。
周囲の城のものと比べてさほど広くありません。

主郭の土塁。
防御のためというより、風除けのためのものと思われます。

主郭からは、木々の間から、真田氏本城が見えます。

主郭南面には石積が見られます。

主郭背後の岩を断ち切った堀切。
写真の奥へ降りていくと水の手があり、さらに降りると真田氏本城にたどり着きます。

真田氏本城の背後600メートルほどの山の上に築かれた城です。その歴史はよくわかっていませんがその位置から真田氏館の詰めの城の一つとも、真田氏本城の背後を固める出城ともいわれています。

神川東岸に築かれた矢沢城の築城年代はよくわかっていませんが、真田幸隆の弟・矢沢頼綱の居城であったと伝えられています。

天正13年(1585)の第一次上田合戦では、頼綱の子・頼定が800の兵でこの城を守り、徳川方の依田源七郎ら1500兵を退けています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、上田城が破却され、矢沢城もその頃に廃城になったものと考えられています。

神川の対岸の伊勢崎城から見た矢沢城。
矢沢城は伊勢崎城とともに真田庄の南玄関である神川沿いに眼を光らせていました。

矢沢城入口。
大日堂が建っています。

大日道から登っていくと、別のところから登ってくる道が見えます。
本来の大手かもしれません。

矢沢城は現在矢沢公園になっています。
写真は矢沢公園の下部から主郭方向を見たところ。
西側には腰曲輪が4つ設けられています。

主郭・二郭の西側に建つ矢沢神社。
神社の背後には石積が設けられています。

主郭。
特に案内板などはありません。

主郭の北側に設けられた二郭。
奥に建つ石碑の向こうには堀切が設けられ、さらに奥に三郭、四郭が設けられています。

矢沢城から見る戸石城

神川東岸の殿城矢沢地区の小山の上に築かれた城です。対岸の伊勢崎城とともに、真田庄の南玄関にあたるこのエリアに睨みを利かせていました。
この城を本拠とした矢沢頼綱は、池波正太郎の「真田太平記」では、真田昌幸の頼れる叔父さんとして描かれています。

  • 読み:いせざきじょう
  • 別名:伊勢山城、虚空蔵山城
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:真田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年3月14日

神川西岸の富士見台地区の突端に築かれた伊勢崎城の築城年代ははっきりしていません。

天正13年(1585)の第一次上田合戦では、この付近で神川の流れをせき止めてダムを造り、下流の徳川軍に向けて一気に放流。そこへこの城に配置された伏兵が攻撃を仕掛けたと伝えられています。また、慶長5年(1600)の第二次上田合戦では、真田幸村がこの城に入り、徳川秀忠の軍を翻弄したと伝えられています。

横尾城から見た伊勢崎城。
富士見台の突端の小高い山です。

上信越自動車道上田ローマン橋の袂から見上げる伊勢崎城。
こちらは南側になります。

伊勢崎城南面は大きな岩がごろごろとしています。

南面の帯曲輪に設けられた石積。
往時のものかは不明です。

南西にも同様の石積が見られます。

主郭。
真ん中の石碑は、かつてここに宇賀神社が建っていたことを伝えるものです。

主郭の東端にある三角点の周囲は一段高くなっています。
物見櫓が建っていたのではないかと思われます。

主郭の北の虎口。
南側にも同様の虎口があったと伝えられています。

主郭の北・西・南を取り囲む帯曲輪。

富士見台を見たところ。
大手道はこちら側にあったと思われます。

神川西岸の富士見台の突端、北・東・南を崖に囲まれた要害の地に築かれた城です。神川対岸の矢沢城とともに、真田庄の南玄関にあたるこの地に睨みを利かせていました。

  • 読み:あらとじょう
  • 別名:新砥城、山田城、砥沢城
  • 所在地:長野県千曲市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山田氏、屋代氏
  • 文化財指定:千曲市指定史跡(昭和62年1月27日)
  • 訪問日:平成21年3月21日

荒砥城は、大永4年(1524)ごろに山田氏によって千曲川西岸の山の上に築かれたと伝えられています。山田氏は葛尾城の村上氏と同族で、天文20年(1551)には城主山田国政が、戸石城で真田幸隆の急襲に遭い戦死したといわれています。天文22年(1553)4月、村上義清が葛尾城を捨てて塩田城へ逃げ延び、越後の上杉謙信に支援を求めると、同年8月、村上氏と同族で北東の屋代城主であった屋代政国が、武田氏に内応して荒砥城に移っています。9月に起きた第一次川中島合戦では、上杉軍が荒砥城を攻撃し、これを占領しました。

天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、屋代秀正は上杉方に属し、海津城の副将を任されます。しかし、翌天正11年(1583)に徳川家康が秀正に更科郡安堵を密約。同年4月、秀正は海津城を出て荒砥城に立てこもりますが、上杉軍の攻撃を受けて落城。荒砥城は廃城となり、敗れた秀正は家康を頼ります。屋代氏はその後、徳川の重臣として存続しました。

葛尾城から見た荒砥城。
戸倉上山田温泉の裏山に築かれています。
平時は城野腰で過ごし、戦時になると荒砥城に立てこもるといった使い方がされました。

城山史跡公園の入口。
このあたりは四郭の入口に当たります。

四郭。
案内所の下にある曲輪です。

史跡公園入口から三郭へ向かって登っていくと、石積が現れます。
荒砥城の石積は大部分が綺麗に復元されたものですが、この石積は往時からのものと思われます。

三郭。
傾斜している上にさほど広くありません。

二郭の模擬城門。
綺麗に復元された荒砥城では、2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」のロケが行われました。

二郭の虎口の枡形。
石積で復元されていますが、往時は土塁であったと思われます。

主郭から見た二郭。
模擬櫓と模擬兵舎が建っています。
模擬兵舎の中では、荒砥城の説明ビデオが上映されています。

模擬櫓から見た葛尾城。その向こうは上田方面です。

主郭の虎口の枡形。
二郭とまったく同じに復元されています。

主郭。
模擬城主館と模擬兵舎が建っています。
奥には出城である荒砥小城が見えます。

千曲川西岸・戸倉上山田温泉の裏山に築かれた山城です。2007年NHK大河ドラマ「風林火山」では、武田晴信が初陣で落とした佐久の海ノ口城に見立てて撮影が行われました。いささか綺麗に復元されすぎてはいますが、戦国の山城の雰囲気をつかむには絶好の城です。

  • 読み:かつらおじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県埴科郡坂城町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:村上氏
  • 文化財指定:坂城町指定史跡(昭和49年1月17日)
  • 訪問日:平成21年3月21日

葛尾城の築城年代はよくわかっていませんが、城主であった村上氏は南北朝時代末期に坂城に移り住んだと伝えられています。

村上氏は村上義清の時に甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重とともに海野平へ進出し、小県郡を獲得しますが、やがて信虎を追って武田の主君となった信玄と対立。天文17年(1548)に上田原で激突(上田原合戦)。天文19年(1550)には戸石城攻略から撤退する武田軍に追撃をかけ、大損害を与えます(戸石崩れ)。しかし、信玄が配下の真田幸隆に戸石城攻略を命じると、天文20年(1551)幸隆は策謀を用いて戸石城を攻略。天文22年(1553)には武田氏の葛尾城攻略の準備が整いますが、同年4月に村上義清は葛尾城を捨てて塩田城へ逃れ、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼りました。景虎の支援を受けた義清は葛尾城を奪還し、自らは塩田城を本拠としますが、同年8月、武田軍によって包囲された塩田城から脱出。その後の義清は行方不明となっています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、海津城の森忠政が葛尾城に派兵。真田昌幸はこれを攻めますが、落城には至りませんでした。その後まもなく、葛尾城は廃城になったものと思われます。

荒砥城から見た葛尾城。

葛尾城の搦手側の入口。
大手は坂城町の坂城神社付近にあります。

搦手側から主郭へ向かうと石積が現れます。

搦手側にはいくつもの堀切が設けられ、尾根を分断しています。

これは主郭背後の堀切。

主郭。
奥に見える山は五里ヶ峰。五里ヶ峰には、山本勘助が葛尾城を攻めるために造ったといわれる勘助道の遺構が残っています。

南側から主郭を見上げたところ。

主郭から見た荒砥城

二郭。
奥に主郭が見えます。
主郭と二郭の間にわずかに堀切の跡が見られます。
慶長5年(1600)に真田昌幸の軍勢はここまで攻め込んだものの落城させることはできませんでした。

三郭。
二郭と三郭の間にも堀切が設けられました。

三郭の下にはいくつもの段郭が続いています。

一番下の段郭から見下ろす姫城。
姫城は葛尾城の続きの城であったと考えられています。

千曲川東岸の坂城地区の裏山に築かれた城です。戸石城を失った村上義清は戦うことなくこの城を捨て、越後の長尾景虎を頼っています。これが5度にわたる川中島合戦の発端ともいわれ、歴史が動いた城として知られています。

  • 読み:こんぴらさんじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県吾妻郡六合村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:不明
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年3月28日

金比羅山城は、依田尾沢川と八石沢川に挟まれた標高998メートルの山の上に築かれた山城です。世立地区の伝説では、木曽義仲は7歳まで世立地区で過ごし、その際にこの城が築かれたといわれていますが、実際のところは定かではなく、その歴史はわかっていません。

世立地区のふるさと活性化センターから見た金比羅山城。

東側からの道を入っていくと、このようなお宮が現れます。
このあたりも曲輪の一つと考えられます。

お宮から主郭へ向かうと、堀切のような地形が現れます。

堀切付近から主郭を見たところ。

主郭。
さほど広くなく、見張り台か狼煙台が建っていたものと思われます。
土塁の上には金比羅さまが祀られています。

主郭から見た世立地区。
世立地区の伝説では、元服した木曽義仲は挙兵に際し、一度生まれた場所であるこの地に戻り、「俺は世に立つ。お前たちもここで世を立てよ」と言ったことからその名がついたといわれています。
遠くの大高山中腹には、後に義仲の胤を宿した娘を匿うために細野御殿介が隠れ住んだと伝えられる細野氏館があります。

主郭の西側には、このような削平地がいくつか設けられています。

金比羅山城の南を流れる八石沢川のさつうぜんの滝。

白砂川の東岸を流れる依田尾沢川と八石沢川に挟まれた山の上に築かれた城です。世立地区の伝説では木曽義仲の城といわれています。そもそも城なのかどうかが定かではありませんが、城と見て間違いなさそうです。規模は大きくなく、見張り台もしくは狼煙台として使われていたものと考えられます。