松代城

  • 読み:まつしろじょう
  • 別名:海津城
  • 所在地:長野県長野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:高坂氏、森氏、春日氏、村上氏、上条氏、須田氏、田丸氏、長沢松平氏、福井松平氏、酒井氏、真田氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和56年4月11日)
  • 訪問日:平成21年2月7日

元々この地にあった清野氏の館を武田信玄が大改修し、川中島の押さえとして築城した海津城が始まりとされています。その築城時期は「甲陽軍鑑」によれば天文22年(1553)とされていますが、永禄2年(1559)から3年の間という説が主流です。永禄4年(1561)には信玄の重臣高坂弾正昌信が入城し、同年の第4次川中島合戦の舞台となっています。

天正10年3月(1582)に武田氏が滅亡すると、海津城には織田信長配下の森長可が入ります。しかし、同年6月に本能寺の変が起きると長可は海津城を放棄。空いた海津城には上杉景勝配下の春日信達が入りますが、信勝は上田の真田氏を通じて北条氏に内通しようとして誅殺されます。代わって村上義清の子・景国が入りますが、間もなく罷免。その後上条氏、須田氏と城主が代わります。

慶長3年(1598)、上杉景勝が会津へ移封となると松代は豊臣氏の領地となり、海津城には田丸直昌が入ります。慶長5年(1600)には徳川家康配下で森長可の弟・忠政が入り、慶長8年(1603)には家康の六男・松平忠輝が入ります。忠輝は元和3年(1617)に改易となり、その後松平昌、酒井忠勝らが城主を務めました。

元和8年(1622)、真田信之が上田から十万石で海津城へ封じられます。海津城はその後、松代城と名を改め、以後明治維新まで真田氏が松代藩を治めました。
明治以降、松代城は改変が著しく本丸以外の遺構はほとんど残っていませんでしたが、現在は石垣や城門、二の丸が復元されています。

二の丸南門。

復元された太鼓門、引橋門、前橋。
松代城といえばこの風景です。

二の丸南門付近から見た二の丸内部。

二の丸の南に突き出した円弧状の曲輪。
何のための曲輪なのか今ひとつよくわかりません。

二の丸西部と北部をつなぐ埋門。
人一人が通れる程度です。

搦手木戸付近から見た二の丸北部。
戌亥櫓台とその向こうに土塁と埋門が見えます。

搦手木戸付近から見た北不明門と丑寅櫓台。

搦手木戸を外側から見たところ。

二の丸の北に設けられた新堀。
往時はこのすぐ近くまで千曲川の流れが来ていました。

二の丸北部と二の丸東部を隔てる堀。
二の丸の外堀とつながっていたものです。

二の丸東部。二の丸御殿が建っていましたが、幕末には土蔵7棟が建ち並んでいました。

二の丸の東門・石場門。
実物は地中にあり、現在見ることができるのはレプリカです。

本丸南面の引橋門をくぐったところ。
枡形構造になっています。

太鼓門付近から本丸内部を見たところ。

戌亥櫓台。
天守台かと見紛うほどの石垣ですが、この上に建っていたのは二重櫓です。

戌亥櫓台上から北不明門を見たところ。
こちらも枡形構造になっています。

戌亥櫓台上から妻女山を見たところ。
第4次川中島合戦では、上杉軍が妻女山に布陣したと伝えられています。

川中島の要衝として武田信玄が築いた城です。多くの逸話を残した第4次川中島合戦の舞台となっています。
明治以降の改変が著しかったものの、国の指定となったことで史跡の整備が進み、城門、土塁、石垣が復元されています。