葛尾城

  • 読み:かつらおじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県埴科郡坂城町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:村上氏
  • 文化財指定:坂城町指定史跡(昭和49年1月17日)
  • 訪問日:平成21年3月21日

葛尾城の築城年代はよくわかっていませんが、城主であった村上氏は南北朝時代末期に坂城に移り住んだと伝えられています。

村上氏は村上義清の時に甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重とともに海野平へ進出し、小県郡を獲得しますが、やがて信虎を追って武田の主君となった信玄と対立。天文17年(1548)に上田原で激突(上田原合戦)。天文19年(1550)には戸石城攻略から撤退する武田軍に追撃をかけ、大損害を与えます(戸石崩れ)。しかし、信玄が配下の真田幸隆に戸石城攻略を命じると、天文20年(1551)幸隆は策謀を用いて戸石城を攻略。天文22年(1553)には武田氏の葛尾城攻略の準備が整いますが、同年4月に村上義清は葛尾城を捨てて塩田城へ逃れ、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼りました。景虎の支援を受けた義清は葛尾城を奪還し、自らは塩田城を本拠としますが、同年8月、武田軍によって包囲された塩田城から脱出。その後の義清は行方不明となっています。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、海津城の森忠政が葛尾城に派兵。真田昌幸はこれを攻めますが、落城には至りませんでした。その後まもなく、葛尾城は廃城になったものと思われます。

荒砥城から見た葛尾城。

葛尾城の搦手側の入口。
大手は坂城町の坂城神社付近にあります。

搦手側から主郭へ向かうと石積が現れます。

搦手側にはいくつもの堀切が設けられ、尾根を分断しています。

これは主郭背後の堀切。

主郭。
奥に見える山は五里ヶ峰。五里ヶ峰には、山本勘助が葛尾城を攻めるために造ったといわれる勘助道の遺構が残っています。

南側から主郭を見上げたところ。

主郭から見た荒砥城

二郭。
奥に主郭が見えます。
主郭と二郭の間にわずかに堀切の跡が見られます。
慶長5年(1600)に真田昌幸の軍勢はここまで攻め込んだものの落城させることはできませんでした。

三郭。
二郭と三郭の間にも堀切が設けられました。

三郭の下にはいくつもの段郭が続いています。

一番下の段郭から見下ろす姫城。
姫城は葛尾城の続きの城であったと考えられています。

千曲川東岸の坂城地区の裏山に築かれた城です。戸石城を失った村上義清は戦うことなくこの城を捨て、越後の長尾景虎を頼っています。これが5度にわたる川中島合戦の発端ともいわれ、歴史が動いた城として知られています。