2009年5月アーカイブ

  • 読み:こもろじょう
  • 別名:酔月城、穴城
  • 所在地:長野県小諸市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:武田氏、仙石氏、徳川氏、久松松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川松平氏、大給松平氏、牧野氏
  • 文化財指定:国指定重要文化財(大手門・三の門)(平成5年12月9日)
  • 訪問日:平成21年4月26日

小諸城の起こりは、平安時代末期から鎌倉時代初期に小室太郎光兼(木曽義仲配下の武将)が現在の城址の東に館を築いたのが始まりと伝えられています。

その後、大井光忠が小室氏を抑えて鍋蓋城を築き、さらにその子の光為が現在の二の丸にあたる場所に出城として乙女坂城(白鶴城)を築きますが、これらの城は武田信玄によって落城しました。小諸の地を獲得した信玄は、山本勘助と馬場信房に命じ城を築かせたと伝えられていますが、史料的根拠はありません。

信玄は甥の信豊を城主に置きますが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田信長配下の滝川一益が入城。その後徳川家康配下の松平康国が城主となり、天正18年(1590)に豊臣秀吉配下の仙石秀久が5万石で入城。二の丸、黒門、大手門が築かれ、その子忠政の時代には三の門、足柄門が築かれ、小諸城は現在の規模となります。

元和8年(1622)、仙石忠政は上田へ転封となり、小諸は甲府城の徳川忠長の所領となります。その後は目まぐるしく城主が代わり、元禄15年(1702)、牧野氏が入城。小諸は明治まで10代にわたり牧野氏の所領となりました。

明治4年(1871)の廃藩置県に伴い小諸城は廃城。明治13年(1880)に懐古神社が祀られ、以後懐古園として現在に至っています。

富士見城から見る小諸城。
城下町よりも低い位置に築かれた城で、このタイプの城は「穴城」と呼ばれ、そのまま小諸城の別名にもなっています。

慶長17年(1612)に仙石秀久によって築かれた大手門。
本丸側から数えて4番目の門なので、四の門とも呼ばれています。
明治以降、民間の所有となり、料亭や小諸義塾の仮教室として利用されたこともありましたが、平成3年(1991)に小諸市へ寄付され、平成5年(1993年)に国の重要文化財に指定。平成16年~20年(2004~2008)に大修理を受け、享保5年(1720)ごろの姿に復元されました。

元和元年(1615)に仙石忠政によって築かれた三の門。
寛保2年(1742)の大洪水で流出しましたが、明和2年(1765)に再建されました。
門の両側には矢狭間、鉄砲狭間が設けられています。
現在は懐古園の入口として利用され、国の重要指定文化財に指定されています。

三の丸をくぐったところから見る二の丸の石垣。
昭和59年(1984)に復元されましたが、往時よりもサイズの大きい石が使われています。

二の丸の石垣の下に設けられた水櫓。
水車を使って城内へ水を汲み上げた施設の跡です。

二の門。
二の丸と南の丸をつなぐ渡櫓門が築かれていました。

二の門をくぐった所に設けられた番所。

二の丸の虎口。

二の丸。
第二次上田会戦では、この場所に築かれていた乙女坂城(白鶴城)に徳川秀忠が逗留していました。

番所から見る中仕切り門。
写真右側の石垣の中が北の丸、左側の石垣の上が南の丸です。

南の丸の虎口に置かれた鶯石。
城主の通行や祝い事の度にうぐいすの声で鳴いたと伝えられています。

南の丸。
かつては武器庫などが建てられていました。

北の丸。
隠居所として利用されていました。
現在は弓道場になっています。

黒門橋。
別名を算盤橋といい、緊急時には橋桁の取り外しができる太鼓橋が設けられていました。

黒門橋の下の空堀・紅葉谷。
本丸は東を紅葉谷、南を南谷、西を西谷、北を地獄谷といった堀切によって囲まれています。

黒門。
本丸側から数えて最初の門なので、一の門とも呼ばれています。

黒門の前に設けられたお駕籠台。

本丸の虎口。

本丸。
現在は懐古神社が建てられています。

懐古神社拝殿の横に置かれた鏡石。
山本勘助愛用と伝えられています。
隕石ではないかともいわれています。

本丸と馬場を結ぶ虎口。

馬場。
往復するだけの鉄砲馬場と伝えられています。
桜の名所として知られ、春には花見客で賑わいます。

馬場から見る天守台。
三重天守が建っていましたが、寛永3年(1626)に落雷により焼失しました。

本丸の北に位置する荒神郭を天守台から見下ろしたところ。

荒神郭に設けられた荒神井戸。
城内唯一の井戸です。

小諸義塾で教鞭をとった島崎藤村が「千曲川旅情のうた」で「小諸なる古城のほとり・・・」と詠んだことにちなみ、荒神郭内には藤村記念館が建てられています。
写真は記念館前の島崎藤村像。

文化14年(1817)に牧野康長によって建てられた武器庫。
東京に移築されていたものを元に復元されました。

島崎藤村の代表作「千曲川旅情のうた」の詩碑。
詩面は藤村の自筆です。

本丸の北の断崖・地獄谷。
ほとんど天然の断崖で、よじ登ることはほぼ不可能です。

水の手。

水の手に設けられた不開の門。

水の手からの眺め。

城の西側の西谷。
谷と呼ばれてはいますが、おそらくは人の手によって掘られたものです。

本丸の南の断崖・南谷。

本丸の南谷を挟んだ反対側の籾蔵台には、大正15年(1926)に建てられた動物園があります。

動物園から三の門への通路。
このあたりの石垣には浅間山の噴石が使われています。

千曲川北岸に築かれた小諸城は、城下町よりも低い位置に築かれていることが大きな特徴で、「穴城」とも呼ばれています。城域のほとんどが浅間山の火山灰でできているため、水は用いられず、崩れやすい断崖によって守られています。
現在は懐古園となり、桜の名所として知られています。

  • 読み:ふじみじょう
  • 別名:大室城
  • 所在地:長野県小諸市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:武田氏、柴田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年4月26日

富士見城の始まりはよくわかっていませんが、天文年間(1532~54)に武田信玄が小諸周辺に進出した際に、鍋蓋城(小諸城の前身)の支城として飯綱山に築いたのが始まりで、この頃にある程度の石垣が整備されたのではないかと考えられています。

天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、小諸周辺は真田氏と徳川氏の争いの前線となり、富士見城には徳川家康配下の柴田康忠が在陣したと伝えられています。

その後、富士見城は歴史から姿を消し、現在は小諸市飯綱山公園として整備されています。

枡形城付近から見た富士見城(中央の山)。

城域の東限にあたる五郭。
小諸市立高原美術館のすぐ裏手になります。

五郭内に設けられた旗塚。

五郭と四郭の間の石積。
ここに堀切が設けられていましたが、現在では大分埋まってしまっています。

四郭の東西には土塁が設けられています。
これは西側の土塁。

四郭と主郭を隔てる堀。
左が四郭、右が主郭です。
深さ5メートルほどで、城内最大のものです。

主郭櫓台。

櫓台から見る主郭。

城の南面を見ると、いくつもの石積が築かれているのがわかります。

主郭と二郭の間の浅い堀切。

二郭。

三郭。
二郭と三郭の間は石積によって仕切られています。

三郭の西側には腰郭が続いています。

高峰山南面の飯綱山の頂上に築かれた東西に細長い城です。天気がよければ富士山を遠望できることから「富士見城」の名がついています。飯綱山南面は比高150メートルほどの急傾斜となっていますが、北面は比高30メートルほどで、北側に根小屋があったものと思われます。

  • 読み:くまもとじょう
  • 別名:銀杏城
  • 所在地:熊本県熊本市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:出田氏、鹿子木氏、佐々氏、加藤氏、細川氏
  • 文化財指定:国指定有形文化財(昭和8年1月23日)
  • 訪問日:1996年10月

熊本城の始まりは、文明年間(1469~86)に熊本周辺を支配していた出田秀信が千葉城を築いたのが始まりです。その後1520年ごろに菊池氏配下の鹿子木親員が、現在の熊本城にあたる場所に隈本城を築城しました。

天正15年(1587)、急襲を支配していた島津氏が豊臣秀吉に下ると、熊本城には佐々成政が入城します。しかし、肥後の国人衆は成政の支配を良しとせず、領内は乱れることとなり、成政はその責任を取り自害してしまいます。

成政後の肥後には加藤清正と小西行長が入り、肥後を二分して支配しますが、慶長5年(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に属した小西行長を加藤清正が討ち取ったことで清正は肥後一国の主となります。翌慶長6年(1601年)、清正は新たな城「熊本城」の建設に着手。城は旧千葉城、旧隈本城をベースに築かれ、慶長12年(1607)年に完成します。しかし、寛永9年(1632年)、清正の子・忠広は謀反の疑いをかけられ、出羽庄内の酒井忠勝のもとに身柄を預けられ、熊本城には細川忠利が54万石で入城。その後明治まで細川氏の支配が続きました。

明治になると熊本城には熊本鎮台が置かれ、明治10年(1877)年の西南戦争では西郷隆盛率いる薩摩軍をこの城で防いでいます。

不開門付近から見る熊本城天守。
西南戦争の際、原因不明の出火により天守は焼け落ちてしまいましたが、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで外観復元されました。

肥後一国の領主となった加藤清正が築いた城で、大坂城名古屋城とともに三大名城に数えられています。熊本城は築城から270年後の西南戦争でその堅牢さを発揮し、薩摩軍1万3千の攻撃に50日余り堪え、薩摩軍を撤退させています。なかなか落ちない熊本城に西郷隆盛は、「加藤清正を相手に戦争しているようなものだ」と言ったと伝えられています。

  • 読み:ひらどじょう
  • 別名:亀岡城
  • 所在地:長崎県平戸市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:松浦氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:1996年10月

戦国時代末期、鎮西の水軍・松浦党は上下松浦に分かれ、平戸周辺に勢力を振るっていました。豊臣秀吉の九州征伐に従ったことで、下松浦棟梁・松浦鎮信は松浦郡の一部と壱岐を安堵され、慶長4年(1599)に亀岡山に日之嶽城を築き、居城としたのが平戸城の始まりとされています。

しかし鎮信の跡を継いだ久信が急死すると、徳川氏は豊臣氏と親交の深い松浦氏に疑いの目を向けます。鎮信は疑いを晴らすため、慶長12年(1607)に日之嶽城を焼き払い、城域北側の山中の居を映します。

その後約90年間にわたり、松浦氏に城がない状態が続きましたが、元禄15年(1702)年、松浦天祥鎮信は幕府に新たな城の築城を申請、翌年許可されます。新城建築は元禄17年(1704)年に松浦棟によって始められ、享保3年(1718)に完成しました。

以後、平戸城は平戸藩松浦氏の居城として存続。明治になると廃藩置県を迎え廃城となり、現在は亀岡神社や亀岡公園となっています。

平戸市街地からの平戸城遠望。
往時の平戸城には天守は存在せず、三重の乾櫓がその代用でした。
三重五階の模擬天守は昭和37年(1962)、元々二重櫓が建っていたところに築かれたものです。

対岸の九州を望む平戸瀬戸に突き出した丘陵・亀岡山の頂に築かれた平戸藩松浦氏の居城です。三方を海によって囲まれ、山鹿流軍学に基づく縄張りがなされています。現在の形の平戸城が築かれたのは江戸時代中期のことで、この時代に新城築城の許可が下りるのは異例のことでした。現在、城域は亀岡神社・亀岡公園となっています。