2009年7月アーカイブ

  • 読み:くわばらじょう
  • 別名:高鳥屋城
  • 所在地:長野県諏訪市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:桑原氏、諏訪氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和46年5月27日)
  • 訪問日:2009年5月9日

桑原城の築城年代はよくわかっていませんが、文明年間(1469~1486)には諏訪氏配下の桑原氏がこの城に入っていたと見られています。

天文11年(1542)6月、武田晴信(信玄)が諏訪に侵攻。7月に入ると諏訪頼重は本拠の上原城を捨て、桑原城に立てこもります。桑原城は武田氏によって攻められ落城寸前となりますが、7月4日に武田氏側から和睦の申し入れがあり、頼重はこれを受諾。7月5日に桑原城を開城し、頼重は弟の大祝・頼高とともに交付の東光寺に幽閉。7月21日、頼重は切腹し諏訪惣領家は滅亡しました。

桑原城についてはその後まもなく廃城になったものと考えられています。

桑原城への入口は複数あります。
写真は北東麓の入口。

山道を登っていくとこのような堀切が現れます。

主郭を半円状に取り囲む帯曲輪。

帯曲輪にある「首塚」と呼ばれる盛土。

主郭と二郭を分断する堀切。
右が主郭、左が二郭です。

主郭。
奥には土塁が設けられています。

主郭背後の土塁。
あまり高くありません。

主郭から見た二郭。
二郭中央には曲げ輪を分断するように浅い堀のようなものが設けられています。

二郭から見た諏訪湖。

二郭から主郭を見たところ。
二郭と主郭、腰曲輪だけの小さな山城です。

諏訪湖の東南、四賀地区の裏山に築かれた主郭、二郭、帯曲輪だけの小さな城です。武田氏に攻められ上原城を捨てた諏訪頼重が、最後に立てこもった城です。頼重は連行された甲府で切腹し諏訪惣領家は滅亡。諏訪惣領家終焉の地ともいえる城です。

  • 読み:ひざわじょう
  • 別名:樋沢城、安国寺城
  • 所在地:長野県茅野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:諏訪氏
  • 文化財指定:茅野市指定史跡(昭和63年7月29日)
  • 訪問日:2009年5月9日

干沢城は、諏訪大祝家の居館である神殿(ごうどの・現在の諏訪大社上社前宮)に隣接して築かれた山城です。その築城年代はよくわかっていませんが、文明年間(1469~1486)にはすでに麓に町があったといわれています。

諏訪氏はタケミナカタの末裔を称し、代々諏訪大社の大祝として信仰を集めていました。大祝が諏訪から出ることは禁忌とされていたため、幼少時に大祝として祭祀を行い、長じると大祝を辞し、惣領として政治を行うといったことを続けてきました。しかし室町時代になり戦乱が増えてくると、諏訪信満の系統が惣領家を、諏訪頼満の系統が大祝を分担することとなり、両家は神殿に居住します。しかし康正2年(1456)に両家は対立。惣領家は神殿を出て上原城へ移ります。

文明15年(1483)1月、大祝家当主継満が、惣領職も独占しようと惣領家当主政満とその子・若宮丸らを神殿で開いた酒席で謀殺(文明の内訌)。継満は干沢城に立てこもりますが、社家衆はこれを良しとせず干沢城を攻撃。継満は敗れ高遠へ逃げ延びます。翌年5月、継満は小笠原氏ら伊那の豪族の力を借りて諏訪に侵入。武居城に立てこもり干沢城と対峙しますが、大祝の地位を奪還することはかなわずに終わっています。

天文11年(1542)6月、甲斐の武田晴信(信玄)が諏訪へ侵攻を開始すると、それに呼応して高遠の高遠頼継が干沢城を占領。麓の安国寺周辺に火を放ったと伝えられています。その後干沢城は歴史に登場せず、まもなく廃城になったものと考えられます。

神殿のあった諏訪大社上社前宮から見る干沢城。
鉄塔の建っているところが二郭です。

杖突峠へいたる国道152号の陸橋の真下から干沢城への登り道が続いています。

登り始めてすぐに現れる安国寺院墓所。
麓の安国寺の歴代住持の墓です。

登っていく途中に現れる曲輪と思われる平。

城の主要部と長林砦を隔てる堀切。
左が主郭、右奥が長林砦です。

主郭。
城址碑や説明版が立てられています。

主郭を取り巻く曲輪。
奥に主郭が見えます。

主郭を取り巻く曲輪に置かれた戦闘石。
戦闘用に投げ落とすものと思われますが、城の中央部にある理由がわかりません。

主郭の北に設けられた二郭。
鉄塔が建っています。

二郭から見た茅野市街。

二郭と三郭を隔てる堀。
はっきりと形が残っています。

二郭の北に設けられた三郭。

三郭の北に設けられた四郭。
このさらに北にも城域が続いていますが、薮化しています。

三郭の切岸には、石積の跡のようなものも見られます。

諏訪大社上社前宮に隣接する山に築かれた城です。詰めの城の役割だけでなく、杖突峠へいたる杖突街道を抑える役目も担っていたと思われます。

  • 読み:いいやまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県飯山市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:泉氏、高梨氏、上杉氏、関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、松平氏、永井氏、青山氏、本多氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和40年7月29日)
  • 訪問日:2009年6月20日

飯山城の築城年代はよくわかっていませんが、鴨ヶ嶽城の高梨氏配下で常盤牧を務めていた泉氏の居城であったといわれています。

高梨政頼は、北信侵攻を進める武田信玄と対立していましたが、弘治3年(1558)に武田軍の攻撃によって葛山城が落城。さらに配下の山田氏、木嶋氏が相次いで武田方に降伏。中野の地に武田軍が近づいてくると、高梨政頼は泉氏の飯山城へ篭城、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)へ援軍を要請します。この要請に応じ、長尾景虎は飯山に長尾政景を派遣。景虎自身も飯山へ出陣し、第三次川中島合戦が起こっています。合戦後、高梨政頼は本拠を飯山城へ移し、高梨氏は長尾氏の配下となります。

永禄7年(1564)、武田信玄が飛騨に出兵すると、これを阻止するために上杉謙信が出陣。謙信は善光寺平に布陣、信玄は塩崎城に入り対峙します(第五次川中島合戦)。この際、謙信は飯山城を大々的に改修しています。

天正6年(1578)に上杉謙信が急逝すると、景勝と景虎の二人の養子による跡目争いが勃発(御館の乱)。飯山城は景勝方に属します。その後、景勝方と武田勝頼の間で和睦が結ばれ、飯山城は武田氏に割譲されますが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、信濃は織田氏の支配となり、飯山城には森長可が入ります。しかし同年、本能寺の変により織田信長が自刃。森氏が信濃から撤退し、飯山城は再び上杉氏のものとなります。

慶長3年(1598)、上杉氏が会津へ転封となると、飯山城主は関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、松平氏、永井氏、青山氏と目まぐるしく変遷。享保2年(1717)には本多氏が入り、そのまま幕末まで城主を務めました。

飯山市民会館付近、本丸南西の虎口。

上の写真の虎口を入ったところ。
本丸の西側下です。

本丸。
葵神社が建てられています。
奥には本丸枡形の石垣が見えます。

本丸の南側に設けられた小さな曲輪。

飯山城の南側は急峻な崖になっています。

本丸内部から見た本丸枡形。
一見、櫓台のようにも見えます。

上から見た本丸枡形。
ここを通るものはUターンするように造られています。

二の丸から見た本丸枡形。

本丸の北側に設けられた二の丸。

二の丸から本丸を見上げたところ。
本丸には石垣がふんだんに使われています。

飯山城の東を流れる千曲川を二の丸から見たところ。
往時は千曲川の水を引き込んだ水堀が設けられていました。

二の丸の北側に設けられた三の丸。
現在は花壇になっています。

千曲川西岸の高台の上に築かれた城です。上杉・武田の最前線に位置し、上杉氏の信濃侵攻の拠点として利用されました。
現在は中枢部が城山公園となっています。