干沢城

  • 読み:ひざわじょう
  • 別名:樋沢城、安国寺城
  • 所在地:長野県茅野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:諏訪氏
  • 文化財指定:茅野市指定史跡(昭和63年7月29日)
  • 訪問日:2009年5月9日

干沢城は、諏訪大祝家の居館である神殿(ごうどの・現在の諏訪大社上社前宮)に隣接して築かれた山城です。その築城年代はよくわかっていませんが、文明年間(1469~1486)にはすでに麓に町があったといわれています。

諏訪氏はタケミナカタの末裔を称し、代々諏訪大社の大祝として信仰を集めていました。大祝が諏訪から出ることは禁忌とされていたため、幼少時に大祝として祭祀を行い、長じると大祝を辞し、惣領として政治を行うといったことを続けてきました。しかし室町時代になり戦乱が増えてくると、諏訪信満の系統が惣領家を、諏訪頼満の系統が大祝を分担することとなり、両家は神殿に居住します。しかし康正2年(1456)に両家は対立。惣領家は神殿を出て上原城へ移ります。

文明15年(1483)1月、大祝家当主継満が、惣領職も独占しようと惣領家当主政満とその子・若宮丸らを神殿で開いた酒席で謀殺(文明の内訌)。継満は干沢城に立てこもりますが、社家衆はこれを良しとせず干沢城を攻撃。継満は敗れ高遠へ逃げ延びます。翌年5月、継満は小笠原氏ら伊那の豪族の力を借りて諏訪に侵入。武居城に立てこもり干沢城と対峙しますが、大祝の地位を奪還することはかなわずに終わっています。

天文11年(1542)6月、甲斐の武田晴信(信玄)が諏訪へ侵攻を開始すると、それに呼応して高遠の高遠頼継が干沢城を占領。麓の安国寺周辺に火を放ったと伝えられています。その後干沢城は歴史に登場せず、まもなく廃城になったものと考えられます。

神殿のあった諏訪大社上社前宮から見る干沢城。
鉄塔の建っているところが二郭です。

杖突峠へいたる国道152号の陸橋の真下から干沢城への登り道が続いています。

登り始めてすぐに現れる安国寺院墓所。
麓の安国寺の歴代住持の墓です。

登っていく途中に現れる曲輪と思われる平。

城の主要部と長林砦を隔てる堀切。
左が主郭、右奥が長林砦です。

主郭。
城址碑や説明版が立てられています。

主郭を取り巻く曲輪。
奥に主郭が見えます。

主郭を取り巻く曲輪に置かれた戦闘石。
戦闘用に投げ落とすものと思われますが、城の中央部にある理由がわかりません。

主郭の北に設けられた二郭。
鉄塔が建っています。

二郭から見た茅野市街。

二郭と三郭を隔てる堀。
はっきりと形が残っています。

二郭の北に設けられた三郭。

三郭の北に設けられた四郭。
このさらに北にも城域が続いていますが、薮化しています。

三郭の切岸には、石積の跡のようなものも見られます。

諏訪大社上社前宮に隣接する山に築かれた城です。詰めの城の役割だけでなく、杖突峠へいたる杖突街道を抑える役目も担っていたと思われます。