2009年10月アーカイブ

  • 読み:へきたじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県中野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:高梨氏、小幡氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年6月20日

枡形城は、千曲川東岸の比高180mほどの山の上に築かれた城です。古くは「日置田」と書き、蝦夷経略期の狼煙台があったともいわれています。

戦国時代には高梨氏の山城となっていましたが、弘治年間(1555~1557)頃には、千曲川対岸の替佐城とともに、武田信玄の飯山方面攻略の拠点となり、小幡上総介に預けられたと伝えられています。

その後は、上杉氏に備える最前線の城の一つとして、武田氏滅亡まで機能していたと考えられます。

千曲川対岸から見た壁田城。

壁田城最北部に造られた駐車場。
写真奥に向かって、曲輪と堀切がいくつも連続しています。

駐車場から千曲川を見下ろしたところ。

駐車場から主郭へ向かうと現れる堀切。
往時は木橋がかかっていたものと思われますが、現在は土橋状の遊歩道がつけられています。

主郭の北に設けられた曲輪。
ブランコが設置されていますが、周辺は薮化しています。
奥の切岸の上が、長丘神社の建つ主郭になっています。

主郭に設けられた長丘神社。

主郭の南に設けられた堀切。

さらに南に向かって曲輪と堀切が連続していますが、ほとんど薮化しています。

千曲川東岸の山の上に築かれた南北に細長い城です。武田氏の飯山方面進出の拠点となっていましたが、武田氏滅亡とともに廃城。現在は長丘神社が建てられています。

  • 読み:かえさじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県中野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:小幡氏
  • 文化財指定:昭和57年11月1日
  • 訪問日:平成21年6月20日

替佐城は永禄7年(1564)頃に築かれたと推定されています。千曲川対岸の壁田城とともに、武田信玄の飯山方面攻略の拠点として、小幡上総介に預けられたと伝えられています。また、北西の野尻湖方面への備えの役目も負っていました。

その後は、上杉氏に備える最前線の城の一つとして、武田氏滅亡まで機能していたと考えられます。

主郭南麓の駐車場から見上げた替佐城。

主郭。
あずまやが建てられています。

主郭の南側に矢竹が植えられいます。

主郭から南東方向の二郭を見たところ。
二郭と主郭の間には堀切が設けられています。

主郭と二郭を隔てる堀切。
左が主郭、右が二郭です。

二郭の様子。

二郭の南に設けられた三郭。

三郭から見た千曲川。

千曲川西岸の比高90mほどの山の上に築かれた城です。武田氏の飯山方面進出の拠点となっていましたが、武田氏滅亡とともに廃城となっています。
このほかにも竪堀などの遺構があるのですが、薮に埋もれてしまっています。

  • 読み:たかなししやかた
  • 別名:中野小館
  • 所在地:長野県中野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:高梨氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成19年2月6日)
  • 訪問日:平成21年6月20日

高梨氏館は、永正年間(1504~1521)に高梨氏によって築かれたといわれています。

高梨氏は平安時代にこの地へ移った井上氏の一族とも、越後高梨氏の一族とも、奥州安倍氏の一族ともいわれていますが、はっきりとしていません。南北朝時代には北朝方に属して勢力を拡大。室町時代後期までに中野一帯を支配下におきます。

戦国時代になり、武田信玄が北信地方に進出。弘治3年(1558)年に葛山城が陥落すると、同時期に高梨氏の一族の山田氏、木嶋氏が武田氏に降伏。高梨政頼は館にわずかな兵を残し、泉氏の飯山城へ移り、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)へ援軍を要請します。この要請に応じ、長尾景虎は飯山に長尾政景を派遣。景虎自身も飯山へ出陣し、第三次川中島合戦が起こっています。合戦後、高梨政頼は本拠を飯山城へ移し、高梨氏は長尾氏の配下となります。

天正10年(1582)に武田氏が滅ぶと、その所領は織田氏のものとなりますが、同年6月に本能寺の変で信長が死ぬと、8月には上杉景勝が北信地方を領有。高梨頼親は再び中野の館に戻ります。しかし、慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ転封になると、高梨氏もこれに従って会津へ移り、館は廃館になっています。

南の虎口。

南の虎口前の橋から堀を見たところ。
館の周囲を取り巻く堀が現在も綺麗に残されています。
奥に見える橋は後世の改変によるもので、往時は館の南面の虎口は上の写真の1箇所のみでした。

南の虎口から見た土塁の断面。
高さは2mほどあります。

土塁の断面図。
かつて築地塀で囲っただけのものを、土を盛って土塁としていたさまが伺えます。

館内部。
館南西端の土塁の上から北東方向を見たところ。

西の虎口。

東の虎口。
往時の虎口は南、西、東の3箇所のみだったといわれています。

発掘された庭園。
中世の領主館遺構で庭園が発掘されるのは非常に珍しく、長野県内では唯一高梨氏館のみです。

発掘された建物跡が平面復元されています。
写真奥の3つの四角の部分が、主殿などのあった礎石建物。手前の柱が立っている部分が、番所や厩などがあったと思われる掘立建物です。

発掘された井戸の跡。

中野市の市街地、長野電鉄河東線信州中野駅の東800mほどのところに築かれた館です。東には詰めの城であった鴨ヶ嶽城があります。
戦国時代の領主の館で庭園遺構が発掘される事例は非常に珍しく、国の史跡に指定されています。

  • 読み:うずらこじょう
  • 別名:鶉小城
  • 所在地:群馬県邑楽郡邑楽町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:荒間氏、多々良氏、小曽根氏
  • 文化財指定:邑楽町指定史跡(昭和63年11月25日)
  • 訪問日:平成21年7月11日

鶉古城は、多々良沼に突き出した「荒間崎」とよばれる岬に築かれた城で、南北朝時代時代初頭に荒間朝春らによって築かれたといわれています。

城は応永年間(1394~1428)には多々良忠致のものとなり、天正12年(1584)には館林城主の重臣小曽根政義が、北条氏に備えるためにこの城に入っています。

城が北条氏の手に落ちてからの歴史はよくわかっていませんが、天正18年(1590)の小田原攻めの際、館林城の落城とともに鶉古城も廃城になったと考えられています。

城の西端に設けられた土塁と空堀。
空堀は往時はもっと深かったと思われますが、現在ではほとんど埋まってしまっています。

西の虎口。
土塁の高さは2mほどです。

城の西端にある古墳。
土塁として使用されていた可能性もあると思われます。

城内。
現在は多々良沼公園となり、往時の面影はみられません。

城の北側に見られる堀のような地形。

荒間崎の先端に浮かぶ弁才天。往時も何らかの施設があったと思われます。

弁才天から荒間崎を見たところ。
北、東、南を多々良沼に囲まれた天然の要害であることがわかります。

多々良沼西岸の荒間崎と呼ばれる岬に築かれた城です。現在では西端の土塁と空堀以外に遺構らしいものは残っていません。
湖沼に突き出した水城は群馬県南東部では意外と少なく、鶉古城と館林城の2つのみです。

  • 読み:しのづかじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県邑楽郡邑楽町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:篠塚氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年7月11日

元亨年間(1321~1324)に、新田義貞配下の篠塚重広によって築かれたといわれています。

大手門があったといわれている八幡神社。

新田義貞の四天王の一人・篠塚重広が築いた城です。遺構はほとんど残っていません。

  • 読み:こいずみじょう
  • 別名:冨岡城
  • 所在地:群馬県邑楽郡大泉町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:冨岡氏
  • 文化財指定:大泉町指定史跡(昭和54年11月30日)
  • 訪問日:平成21年7月11日

小泉城は、延徳元年(1489)に冨岡直光がこの地に縄張りしたことから始まったと伝えられています。

冨岡氏は北条氏に属しますが、永禄3年()に上杉謙信が上野に進攻すると、これに従属。天正になり上杉氏の影響力が衰えてくると再び北条氏に属し、天正12年(1584)には北条氏照とともに由良氏の太田金山城を攻撃しています。現在残る小泉城の遺構はこの頃に改築されたものと考えられています。

天正18年(1590)の小田原攻めにより北条氏が滅びると、冨岡氏も滅び、それにともない小泉城は廃城になったと考えられています。

主郭を取り囲む水堀。

主郭の虎口。

主郭。
約100m四方の広々とした曲輪で、土塁によって囲まれています。

主郭を取り囲む土塁。

主郭北東隅に残る櫓台の跡。

主郭を取り囲む二郭の様子。

二郭から堀越しに主郭北東の櫓台跡を見たところ。

二郭北西部にある城之内古墳。
元からここにあったものではなく、別の場所にあったものを移築したものです。

二郭南西部は大泉町立北中学校の敷地になっています。

二郭の北には、かつて二郭を取り囲んでいた外堀の一部が残っています。

龍泉院川と休泊川に挟まれた平地に築かれた囲郭式の平城です。中世城郭では珍しく水堀が良好に保存された城です。

  • 読み:おおたかなやまじょう
  • 別名:新田金山城
  • 所在地:群馬県太田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:岩松氏、横瀬・由良氏、北条氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年12月28日)
  • 訪問日:平成21年7月11日

太田金山城は、文明元年(1469)に岩松家純が金山の頂上部に築いた城です。

明応4年(1495)、岩松氏配下の横瀬成繁・国繁繁親子が、岩松氏内部の関東管領上杉氏と古河公方への帰趨をめぐる内乱に乗じて実権を奪取。享禄元年(1528)、岩松昌純が横瀬氏打倒をもくろむものの事前に察知され横瀬氏によって殺害され、太田金山城は横瀬氏の支配下に移ります。

その後、横瀬氏は関東管領上杉氏に従属し、北条氏と対立しますが、天文21年(1552)に上杉憲政が平井城を脱出し越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へ逃れると、一時的に北条氏に従属。永禄3年(1560)に長尾景虎が関東へ進出するとこれに従います。永禄8年(1565)頃に横瀬成繁は「由良」に改姓。翌永禄9年、再び北条氏に従属し、天正14年(1586)、北条氏は国繁を桐生城へ移し、太田金山城は北条氏の番城となります。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に攻撃を受け落城。その後廃城になったと考えられています。

本城地区

東麓から見た太田金山城。
比高190mほどの独立峰です。

北東の入口に当たる神明宮。

神明宮からの登り道。

神明宮から10分ほど登るとこのような堀切が現れます。

東北曲輪。
本城東北部は未整備ですが、曲輪や堀切が残されています。

御台所曲輪から北の本丸を見上げたところ。

本丸。
「天守曲輪」とも呼ばれていますが、天守の存在には疑問符がつきます。
現在は由良氏の先祖である新田義貞を祀る新田神社が建てられています。
由良氏は横山氏の末裔ですが、由良と改姓して以降は新田氏の末裔を名乗っています。なお、かつての主君である岩松氏は新田氏の末裔です。

本丸から東側を見たところ。

本丸から南の御台所曲輪を見下ろしたところ。

本丸の北に設けられた天守裏馬場曲輪。
馬場とはいいますが、実際は厩が設けられていました。

本丸と二の丸を隔てる堀切。
右が本丸、左が二の丸です。
この堀の奥方向には、出城である北城(坂中城)があります。

二の丸。
現在は竹林になっています。
二の丸とそのさらに西に続く三の丸は、民家とその敷地になっているため見学はできません。

本丸の南に設けられた御台所曲輪。

御台所曲輪の西、二の丸の南に設けられた日ノ池。
水源としてだけでなく儀式の場としても使われていたと考えられています。
奥には南曲輪が見えます。

南曲輪
復元された建物と太田金山城の立体模型があります。

南曲輪から北側を見たところ。
石垣で造られた腰曲輪が三の丸に向かって段々とつながっています。

本城虎口から本城内部を見たところ。
かつて、「関東には本格的石垣作りの山城はない」といわれていましたが、太田金山城の発掘調査の結果それは覆されました。
発掘調査結果に基づき復元された石垣は直線的で、欧州の古城のようにも見えます。

本城虎口の脇に設けられた月ノ池。
かつては下一段のみの池でしたが、表流水と浸透水を効率よく貯め、且つ溢れさせないために二段になったことが発掘調査結果からわかっています。

本城地区と馬場地区を隔てる堀切を水の池から見たところ。
右が本城地区、左が馬場地区です。

馬場地区

馬場地区の東端に設けられた馬場曲輪。
写真中央の石垣部分には排水溝が設けられています。

馬場地区の西端に当たる物見台。

物見台から馬場通路を見下ろしたところ。
通路は馬場曲輪へと通じています。

馬場下通路の東側。
建物の跡が杭で平面復元されています。
奥には馬場曲輪が見えます。
奥の石段は馬場通路と連絡しています。

馬場下通路の西側。
木橋が復元されています。
奥には食い違い虎口が見えています。

物見台の下に設けられた大堀切。
大量の岩を削って造られています。

馬場地区の西端に設けられた食い違い虎口と土橋。
馬場地区の入り口です。

西城地区

馬場地区から西城地区へ向かう途中には、このような堀切がいくつか見られます。

西城。
由良氏の時代、由良氏の一族の泉伊予守がここに居住していました。

西城地区の西端に設けられた見附出丸。
北と南に土塁を互い違いに設け、直線的に進入できないようになっています。

太田市街の北にそびえる比高190mほどの金山の山頂部に築かれた城です。かつて、「関東には本格的石垣作りの山城はない」というのが定説でしたが、発掘調査の結果その定説は覆されています。しかし、これだけの石垣をどの時代に築いたのかは定かになっていません。

  • 読み:てんばくじょう
  • 別名:磯城
  • 所在地:群馬県伊勢崎市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:赤堀氏、那波氏、桐生氏
  • 文化財指定:伊勢崎市指定史跡(平成16年8月10日)
  • 訪問日:平成21年7月11日

天幕城は、赤堀城の支城として赤堀氏によって築かれた城です。城はその後、那波氏、桐生氏のものとなり、一時由良氏に攻略されるなどしています。最終的には北条氏の城となりますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅びると、それにともない天幕城は廃城になったと考えられています。

南東方向から見た天幕城。

主郭。
北と西を高さ4mほどの土塁が取り囲んでいます。

主郭土塁の裏手に細い腰曲輪が設けられています。

二郭の東に設けられた堀。
現在は蓮が植えられています。

蕨沢川と蕨沢川旧河道の低地によって囲まれた丘陵に築かれた城です。現在二郭の堀に蓮が植えられ、天幕城趾あかぼり蓮園となっています。