高梨氏館

  • 読み:たかなししやかた
  • 別名:中野小館
  • 所在地:長野県中野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:高梨氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成19年2月6日)
  • 訪問日:平成21年6月20日

高梨氏館は、永正年間(1504~1521)に高梨氏によって築かれたといわれています。

高梨氏は平安時代にこの地へ移った井上氏の一族とも、越後高梨氏の一族とも、奥州安倍氏の一族ともいわれていますが、はっきりとしていません。南北朝時代には北朝方に属して勢力を拡大。室町時代後期までに中野一帯を支配下におきます。

戦国時代になり、武田信玄が北信地方に進出。弘治3年(1558)年に葛山城が陥落すると、同時期に高梨氏の一族の山田氏、木嶋氏が武田氏に降伏。高梨政頼は館にわずかな兵を残し、泉氏の飯山城へ移り、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)へ援軍を要請します。この要請に応じ、長尾景虎は飯山に長尾政景を派遣。景虎自身も飯山へ出陣し、第三次川中島合戦が起こっています。合戦後、高梨政頼は本拠を飯山城へ移し、高梨氏は長尾氏の配下となります。

天正10年(1582)に武田氏が滅ぶと、その所領は織田氏のものとなりますが、同年6月に本能寺の変で信長が死ぬと、8月には上杉景勝が北信地方を領有。高梨頼親は再び中野の館に戻ります。しかし、慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ転封になると、高梨氏もこれに従って会津へ移り、館は廃館になっています。

南の虎口。

南の虎口前の橋から堀を見たところ。
館の周囲を取り巻く堀が現在も綺麗に残されています。
奥に見える橋は後世の改変によるもので、往時は館の南面の虎口は上の写真の1箇所のみでした。

南の虎口から見た土塁の断面。
高さは2mほどあります。

土塁の断面図。
かつて築地塀で囲っただけのものを、土を盛って土塁としていたさまが伺えます。

館内部。
館南西端の土塁の上から北東方向を見たところ。

西の虎口。

東の虎口。
往時の虎口は南、西、東の3箇所のみだったといわれています。

発掘された庭園。
中世の領主館遺構で庭園が発掘されるのは非常に珍しく、長野県内では唯一高梨氏館のみです。

発掘された建物跡が平面復元されています。
写真奥の3つの四角の部分が、主殿などのあった礎石建物。手前の柱が立っている部分が、番所や厩などがあったと思われる掘立建物です。

発掘された井戸の跡。

中野市の市街地、長野電鉄河東線信州中野駅の東800mほどのところに築かれた館です。東には詰めの城であった鴨ヶ嶽城があります。
戦国時代の領主の館で庭園遺構が発掘される事例は非常に珍しく、国の史跡に指定されています。