太田金山城

  • 読み:おおたかなやまじょう
  • 別名:新田金山城
  • 所在地:群馬県太田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:岩松氏、横瀬・由良氏、北条氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和9年12月28日)
  • 訪問日:平成21年7月11日

太田金山城は、文明元年(1469)に岩松家純が金山の頂上部に築いた城です。

明応4年(1495)、岩松氏配下の横瀬成繁・国繁繁親子が、岩松氏内部の関東管領上杉氏と古河公方への帰趨をめぐる内乱に乗じて実権を奪取。享禄元年(1528)、岩松昌純が横瀬氏打倒をもくろむものの事前に察知され横瀬氏によって殺害され、太田金山城は横瀬氏の支配下に移ります。

その後、横瀬氏は関東管領上杉氏に従属し、北条氏と対立しますが、天文21年(1552)に上杉憲政が平井城を脱出し越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へ逃れると、一時的に北条氏に従属。永禄3年(1560)に長尾景虎が関東へ進出するとこれに従います。永禄8年(1565)頃に横瀬成繁は「由良」に改姓。翌永禄9年、再び北条氏に従属し、天正14年(1586)、北条氏は国繁を桐生城へ移し、太田金山城は北条氏の番城となります。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に攻撃を受け落城。その後廃城になったと考えられています。

本城地区

東麓から見た太田金山城。
比高190mほどの独立峰です。

北東の入口に当たる神明宮。

神明宮からの登り道。

神明宮から10分ほど登るとこのような堀切が現れます。

東北曲輪。
本城東北部は未整備ですが、曲輪や堀切が残されています。

御台所曲輪から北の本丸を見上げたところ。

本丸。
「天守曲輪」とも呼ばれていますが、天守の存在には疑問符がつきます。
現在は由良氏の先祖である新田義貞を祀る新田神社が建てられています。
由良氏は横山氏の末裔ですが、由良と改姓して以降は新田氏の末裔を名乗っています。なお、かつての主君である岩松氏は新田氏の末裔です。

本丸から東側を見たところ。

本丸から南の御台所曲輪を見下ろしたところ。

本丸の北に設けられた天守裏馬場曲輪。
馬場とはいいますが、実際は厩が設けられていました。

本丸と二の丸を隔てる堀切。
右が本丸、左が二の丸です。
この堀の奥方向には、出城である北城(坂中城)があります。

二の丸。
現在は竹林になっています。
二の丸とそのさらに西に続く三の丸は、民家とその敷地になっているため見学はできません。

本丸の南に設けられた御台所曲輪。

御台所曲輪の西、二の丸の南に設けられた日ノ池。
水源としてだけでなく儀式の場としても使われていたと考えられています。
奥には南曲輪が見えます。

南曲輪
復元された建物と太田金山城の立体模型があります。

南曲輪から北側を見たところ。
石垣で造られた腰曲輪が三の丸に向かって段々とつながっています。

本城虎口から本城内部を見たところ。
かつて、「関東には本格的石垣作りの山城はない」といわれていましたが、太田金山城の発掘調査の結果それは覆されました。
発掘調査結果に基づき復元された石垣は直線的で、欧州の古城のようにも見えます。

本城虎口の脇に設けられた月ノ池。
かつては下一段のみの池でしたが、表流水と浸透水を効率よく貯め、且つ溢れさせないために二段になったことが発掘調査結果からわかっています。

本城地区と馬場地区を隔てる堀切を水の池から見たところ。
右が本城地区、左が馬場地区です。

馬場地区

馬場地区の東端に設けられた馬場曲輪。
写真中央の石垣部分には排水溝が設けられています。

馬場地区の西端に当たる物見台。

物見台から馬場通路を見下ろしたところ。
通路は馬場曲輪へと通じています。

馬場下通路の東側。
建物の跡が杭で平面復元されています。
奥には馬場曲輪が見えます。
奥の石段は馬場通路と連絡しています。

馬場下通路の西側。
木橋が復元されています。
奥には食い違い虎口が見えています。

物見台の下に設けられた大堀切。
大量の岩を削って造られています。

馬場地区の西端に設けられた食い違い虎口と土橋。
馬場地区の入り口です。

西城地区

馬場地区から西城地区へ向かう途中には、このような堀切がいくつか見られます。

西城。
由良氏の時代、由良氏の一族の泉伊予守がここに居住していました。

西城地区の西端に設けられた見附出丸。
北と南に土塁を互い違いに設け、直線的に進入できないようになっています。

太田市街の北にそびえる比高190mほどの金山の山頂部に築かれた城です。かつて、「関東には本格的石垣作りの山城はない」というのが定説でしたが、発掘調査の結果その定説は覆されています。しかし、これだけの石垣をどの時代に築いたのかは定かになっていません。