2009年11月アーカイブ

  • 読み:しろいじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県渋川市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:白井長尾氏、本多氏
  • 文化財指定:渋川市指定史跡(平成16年3月31日)
  • 訪問日:平成21年7月11日

白井城は、利根川と吾妻側の合流点の突き出した台地の先端に築かれた城です。築城時期は諸説ありますが、関東管領山内上杉氏に仕えていた長尾景仲によって15世紀中ごろに築かれたと考えられています。

白井長尾氏は、景仲の孫景春が総社長尾氏と対立して山内上杉氏に対し反乱を起こしたことがあるほかは、基本的に山内上杉氏に仕えていました。後に上杉憲正が越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃げ延び、長尾景虎が上杉の家督を相続すると、越後上杉氏に従属。謙信の死後、越後上杉氏が急速に勢力を衰退させると、武田勝頼に仕え、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、厩橋城に入った滝川一益に従属。同年6月に本能寺の変により滝川一益が上州を去ると、北条氏に従属します。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、白井城は加賀の前田利家に攻略され開城。領地を失った白井長尾氏は、越後の上杉景勝の下へ落ち延びます。

北条氏の滅亡により、関東に徳川家康が移封されると、白井城には本多康重が2万石で入り白井藩を立て、この頃に城が現在の形に整備されます。関ヶ原の戦い後、本多氏は岡崎へ移封となり、代わって戸田松平氏が入城。その後井伊直孝、西尾忠永、本多紀貞とめまぐるしく藩主が代わりますが、元和9年(1623)、紀貞が嗣子を残さないまま病死。白井藩は廃藩となり、その所領は旗本領として分割され、白井城は廃城となっています。

北郭の櫓台。
現在は城山不動尊が築かれています。

城山不動尊前から見た北郭。

北郭から見た三の丸。
奥にはわずかに二の丸が見えます。
北郭、三の丸、二の丸は、ほとんど農地となっています。

三の丸と二の丸を隔てる堀。
右が三の丸、左が二の丸。
堀の形をそのまま残して耕作されています。

三の丸から見た二の丸。

二の丸と本丸を隔てる三日月堀。
右が本丸、左が二の丸。

本丸虎口に設けられた枡形門。
太田道灌の指導によって築かれたと伝えられています。

本丸内部を枡形門付近から見たところ。
高さ3~4mの土塁が取り囲んでいます。

本丸内部を東南端から見たところ。

本丸西端からの眺め。
眼下に吾妻川、遠くに榛名山が見えます。
本丸西側は断崖になっており、土塁は設けられていません。

本丸の南に築かれた笹郭。
この奥に南郭、新郭が延びています。

笹郭を南側から見たところ。
土塁の向こうは本丸です。

本丸北の三日月堀は本丸東へと延びています。
右が本丸、左が帯郭。

本丸の東に設けられた帯郭。

利根川と吾妻川の合流点に向かって突き出した台地の先端に築かれた城です。白井城周辺は、赤城山と榛名山によって関東平野が急激に狭くなる位置で、交通の要衝でもありました。
現在は本丸以外がほとんど農地化していますが、曲輪の形に沿って工作がされているため、以降の保存状態は良好です。

  • 読み:ふくしまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県上越市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:堀氏、松平氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年7月24日

福島城は、堀氏によって関川河口の右岸に築かれた城です。慶長3年(1598)に上杉景勝が越後から会津へ移封され、替わって春日山城には堀秀治が入ります。秀治は行政に便のいい海辺平野部へ新たな居城・福島城の建造を始め、秀治の子忠俊の代の慶長12年(1607)に城は完成します。

慶長15年(1610)に忠俊が改易になり、福島城には徳川家康の六男松平忠輝が入ります。しかし、4年後の慶長19年(1613)に忠輝は高田城を築いて移転。福島城は完成からわずか7年で廃城となっています。海と河川に近すぎたために水害が絶えなかったため移転したともいわれています。

本丸があったと考えられている古城小学校に立つ福島城址の碑。
碑壇の石垣は、福島城に使われていた石材です。

城域の南の堀は、現在では付け替えられた保倉川になっています。
保倉川は写真奥で関川に合流し、合流した関川は城域の西の天然堀となり、日本海に注いでいます。

関川の河口の右岸に築かれた平城です。日本海に面し、関川、保倉川、小町川などの水を引き込んだ海運を意識した大城郭でしたが、築城からわずか7年で廃城となっています。廃城の理由は、松平忠輝が日本海の荒波の音をうるさがったためともいわれていますが定かではありません。
現在は本丸付近に古城小学校が建つほか、直江津港の港湾関連施設が立ち並び、遺構はまったく残っていません。

  • 読み:おたて
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県上越市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山内上杉氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年7月24日

御館は、北条氏康の攻撃を受けた平井城から脱出し春日山城の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った関東管領上杉憲政の居館として、永禄年間(1558~1570)に長尾景虎によって関川右岸の平野部に築かれた館です。後に関東管領職を引き継いだ謙信もここで政務をとったといわれています。

天正6年(1578)に謙信が急死すると、二人の養子景勝と景虎の間で跡目争い(御館の乱)が勃発。春日山城を脱出した景虎は御館に立てこもりますが、天正7年(1579)3月に景勝の総攻撃を受け落城。景虎は妙高の鮫ヶ尾城で自害し、越後を二分した御館の乱は景勝の勝利で幕を閉じました。

しかし越後上杉氏はこの内乱により衰退。配下の新発田氏が会津の芦名氏の支援を受けて独立し、織田信長配下の柴田勝家の越中方面進行を許すなどすることとなりました。

御館主郭中心部の御館公園。
説明看板と小さな石柱が立つだけで、遺構は何も残っておらず、周囲は住宅街になっています。

関川右岸の平野部に築かれた関東管領上杉憲政の居館です。二重の堀に囲まれた東西250m、 南北300mの大規模な館でしたが、御館の乱で落城し廃城となっています。
現在は主郭中心部に御館公園があるほかは住宅街となり、遺構はまったく残っていません。

  • 読み:かすがやまじょう
  • 別名:鉢ヶ峰城
  • 所在地:新潟県上越市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:越後長尾・上杉氏、堀氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和10年8月27日)
  • 訪問日:平成21年7月24日

春日山城は、上越市街の西にそびえる春日山に築かれた山城です。築城年代についてははっきりしていませんが、南北朝時代に越後守護上杉氏が越後府中の館の詰めの城として築いたのが始まりとされています。

永正4年(1507)、越後守護代長尾景為が、上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放。翌年、定実が守護として越後府中に入ると、景為は春日山城に入り、永正年間のうちに城の大改修を行います。
天文5年(1536)、為景が隠居し、長男晴景が長尾氏の家督を継ぎますが、反乱が相次ぐなど越後国内の不穏を招きます。天文17年(1548)、上杉定実の仲介の下、長尾氏の家督は弟景虎に引き継がれます。天文19年(1550)、上杉定実が後継者を残さず死去したため、将軍家によって景虎が越後守護代行に認められます。同年、坂戸城の長尾政景が景虎の家督相続を不服として挙兵。翌天文20年(1551)、景虎はこれを鎮圧し、越後を統一します。

越後を統一した景虎(永禄4年(1561)に上杉憲正より上杉氏の家督と関東管領職を引継ぎ上杉政虎、上杉輝虎。元亀元年に法号「不識庵謙信」を称す)は、関東、信濃、越中方面へ進撃し、上洛も視野に入れます。しかし、天正6年(1578)3月、遠征の準備中に謙信は急死。謙信は後継者を定めていなかったため、二人の養子・景勝と景虎の間で跡目争いが勃発します(御館の乱)。内乱は当初、春日山城を舞台に行われましたが、景虎が春日山城を脱出し御館を本拠とします。天正7年(1579)、景勝の総攻撃により御館は落城。景虎は妙高の鮫ヶ尾城で自害し、御館の乱は景勝の勝利で幕を閉じます。

御館の乱により上杉氏は一時その勢力を衰退させますが、豊臣秀吉の配下に入りその後ろ盾を得たことで出羽方面へ勢力を拡大。慶長3年(1598)には秀吉の命により会津へ加増転封となり、上杉氏は春日山城を去り、替わって堀秀治が入城します。堀氏は山城の春日山城は行政に便が悪いと考え、山麓に竪物堀を築いて政治の場としようとしますが、造営を中断し、海運を視野に入れ関川河口右岸に福島城の築城を開始。慶長12年(1607)、秀治の跡を継いだ忠俊は完成した福島城へ移り、春日山城は廃城となりました。

東から見た春日山城(中央の山)

馬場曲輪脇の堀切。
奥の山に本丸・二の丸・三の丸が設けられています。

馬場曲輪脇に立つ上杉謙信像。

馬場曲輪。
現在は店舗が建っています。

馬場曲輪北に設けられている春日山神社。
明治34年(1901)創建です。

春日山神社の北に設けられた御屋敷曲輪。
60m×110mの巨大な曲輪で、城主の館が設けられていたといわれています。

春日山神社から上へ登っていくと、千貫門跡が現れます。
春日山城の絵図には必ず描かれている門です。

千貫門の内側に設けられた2本の堀切。

千貫門の堀切を上から見たところ。

直江屋敷と二の丸への分かれ道。
手前が二の丸、奥が千貫門、左が直江屋敷です。

直江屋敷。上杉景勝の重臣・直江兼続の屋敷が構えられていたと伝えられています。

直江屋敷の上に設けられたお花畑。
毘沙門堂に供える花を栽培していたといわれています。

毘沙門堂。
本来の位置とは違い、不識院跡に隣接して復元されています。

本丸。
春日山城の最高所で、南に隣接する天守台とともに「御天上」と呼ばれていました。

堀切をはさんで本丸と隣接する天守台。
天守台とは呼ばれていますが、本当に天守があったかは疑わしく、物見櫓程度の物が建っていたと考えられます。

天守台から直江津港方面を見たところ。

天守台の西に設けられた井戸曲輪。
廃城から400年たちますが、今でも水を湛えています。

本丸から井戸曲輪への斜面。
滑りやすいことから「油流し」と呼ばれています。

井戸曲輪と鐘楼曲輪の間に設けられた堀切。
右が井戸曲輪、左が鐘楼曲輪です。

鐘楼曲輪。

鐘楼曲輪と景勝屋敷の間に設けられた堀切。
左が鐘楼曲輪、右が景勝屋敷です。
この堀切の先は、二の丸から柿崎屋敷へ続く御成街道につながっています。

景勝屋敷。
御館の乱を制した上杉景勝の屋敷が構えられていたと伝えられています。

柿崎屋敷から二の丸へ続く御成街道。
関白近衛前嗣がここを通ったことが名前の由来です。
奥が柿崎屋敷、手前が二の丸で、奥の切岸の上は景勝屋敷になっています。

柿崎屋敷。
上杉謙信の重臣・柿崎景家の屋敷が構えられていたと伝えられています。
場内最大級の曲輪で、池もしくは水堀があったと考えられています。

柿崎屋敷の南の虎口。
ここから南三の丸を経て大手道へつながっています。

柿崎屋敷から西側を見たところ。
この奥に宇佐美屋敷が設けられていたと伝えられています。

二の丸。
御台所や御二階があったと伝えられています。

二の丸から本丸(山の上)を見たところ。

二の丸と三の丸の脇に設けられた竪堀。
自然の地形に手を加えたものと考えられています。

三の丸・米蔵。
立派な土塁が設けられています。

三の丸・景虎屋敷。
上杉景虎の屋敷が設けられていたと伝えられています。
御館の乱では、景勝は本丸からここへ鉄砲を撃ち込んだといわれています。

三の丸虎口。
脇には甘粕屋敷が設けられていたといわれていますが、かなり狭いように思えます。

大手道・竪物堀・東城砦

復元された大手道。
南三の丸を経て柿崎屋敷へと至ります。

竪物堀。
「竪物」とは、堀竪物秀治のことで、秀治が政治に便のいいようにと造営した区域です。

竪物堀の虎口を内側から見たところ。

竪物堀内部。

竪物堀内部。
奥に東城砦が見えます。

竪物堀内部に設けられた排水路。

東城砦への虎口。

東城砦二郭。

東城砦主郭は墓地になっています。

東城砦の北の虎口。
奥に下池が見えます。

下池。
天然の堀をなしています。

越後府中を望む春日山に築かれた越後長尾・上杉氏の居城です。山全体に曲輪が設けられています。石垣や土塀が描かれた古絵図が有名ですが、江戸時代に想像で描かれたものであり、本来の春日山城はこのような土の城でした。

  • 読み:たかだじょう
  • 別名:鮫ヶ城、関城、螺城、高陽城
  • 所在地:新潟県上越市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長沢松平氏、酒井氏、稲葉氏、越前松平氏、榊原氏
  • 文化財指定:新潟県指定史跡(昭和29年2月10日)
  • 訪問日:平成21年7月24日

徳川家康の六男・松平忠輝が福島城を廃し、慶長19年(1614)に関川左岸の高田の地に築いた城です。築城は伊達政宗を奉行に天下普請で行われ、13藩の諸大名が動員されました。

元和元年(1615)、松平忠輝は大坂夏の陣での遅参により改易となり、以後、酒井氏、稲葉氏など徳川譜代が交代で城主をつとめ、榊原氏のときに明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となりました。

三の丸。
現在は図書館の敷地になっています。

内堀にかかる極楽橋。

二の丸南部から本丸を見たところ。
土塁上の三重櫓は平成5年(1993)に復元されたものです。

二の丸西部から三重櫓を見たところ。
現在は二の丸西部から土橋が設けられていますが、往時には存在していませんでした。

本丸の土塁。

本丸内には、極楽橋の橋台に使われていたと推測されている石材があります

三重櫓から本丸内部を見たところ。
本丸の大部分は中学校の敷地になっています。

三重櫓から二の丸南部・三の丸を見たところ。

西堀と大手橋。
蓮は明治時代に食糧難に備えて植えられたものです。

松平忠輝が福島城を廃して関川左岸に新しく築いた輪郭式の平城です。現在は大部分が学校や図書館などの敷地になっていますが、市街地にありながらも堀や土塁がよく残されています。

  • 読み:ちゃうすやまじょう
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県上越市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:手島氏、黒金氏
  • 文化財指定:上越市指定史跡(年月日)
  • 訪問日:平成21年7月24日

茶臼山城は矢住地区に築かれた山城ですが、その築城年代や歴史についての詳細ははっきりしていません。御館の乱の頃は手島景行が城主を勤め、景虎方に属していましたが、天正7年(1579)に景勝方の攻撃を受けて落城。手島景行は柿崎浜から舟に乗り、阿賀北の島見浜に逃れたと伝えられています。また、慶長2年(1597)の「越後国郡絵図」には、「矢住村御料所 黒金分」とあることから、手島氏の後に黒金氏が茶臼山城に入っていたことが推測されています。

本城

砦の展望台から見た本城。
写真左側の水面は、農業用溜池の南溜池です。

本城の登り口。

主郭の東に設けられた堀切ですが、藪化してわけがわからなくなっています。

主郭。
南北30m、東西75mの広大な曲輪です。

主郭の西から北にかけて長さ28mの土塁が設けられています。

主郭の西には長さ72m、深さ5mの巨大な堀切が設けられていますが、藪化しています。
この堀切のさらに西に曲輪が続いていますが、鬱蒼とした藪に覆われています。

本城の登り口から見た砦。
主郭には櫓状の展望台が設けられています。

二郭。しかし二郭というにはかなり細長いように思えます。
奥にあるのは井戸で、落城の際に置き去りにされた姫が身を投げたという伝説が残っています。

井戸と主郭の間の堀切。

主郭。
櫓状の展望台が主郭の大部分を占めています。

南溜池の堤防上から見る矢住の水田。

置き去りにされ井戸に身を投げた琴姫の伝説が残る城です。城の詳細についてははっきりとしていません。現在城跡は茶臼山城跡公園になっています。