春日山城

  • 読み:かすがやまじょう
  • 別名:鉢ヶ峰城
  • 所在地:新潟県上越市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:越後長尾・上杉氏、堀氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和10年8月27日)
  • 訪問日:平成21年7月24日

春日山城は、上越市街の西にそびえる春日山に築かれた山城です。築城年代についてははっきりしていませんが、南北朝時代に越後守護上杉氏が越後府中の館の詰めの城として築いたのが始まりとされています。

永正4年(1507)、越後守護代長尾景為が、上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放。翌年、定実が守護として越後府中に入ると、景為は春日山城に入り、永正年間のうちに城の大改修を行います。
天文5年(1536)、為景が隠居し、長男晴景が長尾氏の家督を継ぎますが、反乱が相次ぐなど越後国内の不穏を招きます。天文17年(1548)、上杉定実の仲介の下、長尾氏の家督は弟景虎に引き継がれます。天文19年(1550)、上杉定実が後継者を残さず死去したため、将軍家によって景虎が越後守護代行に認められます。同年、坂戸城の長尾政景が景虎の家督相続を不服として挙兵。翌天文20年(1551)、景虎はこれを鎮圧し、越後を統一します。

越後を統一した景虎(永禄4年(1561)に上杉憲正より上杉氏の家督と関東管領職を引継ぎ上杉政虎、上杉輝虎。元亀元年に法号「不識庵謙信」を称す)は、関東、信濃、越中方面へ進撃し、上洛も視野に入れます。しかし、天正6年(1578)3月、遠征の準備中に謙信は急死。謙信は後継者を定めていなかったため、二人の養子・景勝と景虎の間で跡目争いが勃発します(御館の乱)。内乱は当初、春日山城を舞台に行われましたが、景虎が春日山城を脱出し御館を本拠とします。天正7年(1579)、景勝の総攻撃により御館は落城。景虎は妙高の鮫ヶ尾城で自害し、御館の乱は景勝の勝利で幕を閉じます。

御館の乱により上杉氏は一時その勢力を衰退させますが、豊臣秀吉の配下に入りその後ろ盾を得たことで出羽方面へ勢力を拡大。慶長3年(1598)には秀吉の命により会津へ加増転封となり、上杉氏は春日山城を去り、替わって堀秀治が入城します。堀氏は山城の春日山城は行政に便が悪いと考え、山麓に竪物堀を築いて政治の場としようとしますが、造営を中断し、海運を視野に入れ関川河口右岸に福島城の築城を開始。慶長12年(1607)、秀治の跡を継いだ忠俊は完成した福島城へ移り、春日山城は廃城となりました。

東から見た春日山城(中央の山)

馬場曲輪脇の堀切。
奥の山に本丸・二の丸・三の丸が設けられています。

馬場曲輪脇に立つ上杉謙信像。

馬場曲輪。
現在は店舗が建っています。

馬場曲輪北に設けられている春日山神社。
明治34年(1901)創建です。

春日山神社の北に設けられた御屋敷曲輪。
60m×110mの巨大な曲輪で、城主の館が設けられていたといわれています。

春日山神社から上へ登っていくと、千貫門跡が現れます。
春日山城の絵図には必ず描かれている門です。

千貫門の内側に設けられた2本の堀切。

千貫門の堀切を上から見たところ。

直江屋敷と二の丸への分かれ道。
手前が二の丸、奥が千貫門、左が直江屋敷です。

直江屋敷。上杉景勝の重臣・直江兼続の屋敷が構えられていたと伝えられています。

直江屋敷の上に設けられたお花畑。
毘沙門堂に供える花を栽培していたといわれています。

毘沙門堂。
本来の位置とは違い、不識院跡に隣接して復元されています。

本丸。
春日山城の最高所で、南に隣接する天守台とともに「御天上」と呼ばれていました。

堀切をはさんで本丸と隣接する天守台。
天守台とは呼ばれていますが、本当に天守があったかは疑わしく、物見櫓程度の物が建っていたと考えられます。

天守台から直江津港方面を見たところ。

天守台の西に設けられた井戸曲輪。
廃城から400年たちますが、今でも水を湛えています。

本丸から井戸曲輪への斜面。
滑りやすいことから「油流し」と呼ばれています。

井戸曲輪と鐘楼曲輪の間に設けられた堀切。
右が井戸曲輪、左が鐘楼曲輪です。

鐘楼曲輪。

鐘楼曲輪と景勝屋敷の間に設けられた堀切。
左が鐘楼曲輪、右が景勝屋敷です。
この堀切の先は、二の丸から柿崎屋敷へ続く御成街道につながっています。

景勝屋敷。
御館の乱を制した上杉景勝の屋敷が構えられていたと伝えられています。

柿崎屋敷から二の丸へ続く御成街道。
関白近衛前嗣がここを通ったことが名前の由来です。
奥が柿崎屋敷、手前が二の丸で、奥の切岸の上は景勝屋敷になっています。

柿崎屋敷。
上杉謙信の重臣・柿崎景家の屋敷が構えられていたと伝えられています。
場内最大級の曲輪で、池もしくは水堀があったと考えられています。

柿崎屋敷の南の虎口。
ここから南三の丸を経て大手道へつながっています。

柿崎屋敷から西側を見たところ。
この奥に宇佐美屋敷が設けられていたと伝えられています。

二の丸。
御台所や御二階があったと伝えられています。

二の丸から本丸(山の上)を見たところ。

二の丸と三の丸の脇に設けられた竪堀。
自然の地形に手を加えたものと考えられています。

三の丸・米蔵。
立派な土塁が設けられています。

三の丸・景虎屋敷。
上杉景虎の屋敷が設けられていたと伝えられています。
御館の乱では、景勝は本丸からここへ鉄砲を撃ち込んだといわれています。

三の丸虎口。
脇には甘粕屋敷が設けられていたといわれていますが、かなり狭いように思えます。

大手道・竪物堀・東城砦

復元された大手道。
南三の丸を経て柿崎屋敷へと至ります。

竪物堀。
「竪物」とは、堀竪物秀治のことで、秀治が政治に便のいいようにと造営した区域です。

竪物堀の虎口を内側から見たところ。

竪物堀内部。

竪物堀内部。
奥に東城砦が見えます。

竪物堀内部に設けられた排水路。

東城砦への虎口。

東城砦二郭。

東城砦主郭は墓地になっています。

東城砦の北の虎口。
奥に下池が見えます。

下池。
天然の堀をなしています。

越後府中を望む春日山に築かれた越後長尾・上杉氏の居城です。山全体に曲輪が設けられています。石垣や土塀が描かれた古絵図が有名ですが、江戸時代に想像で描かれたものであり、本来の春日山城はこのような土の城でした。