2010年1月アーカイブ

  • 読み:たかおかじょう
  • 別名:-
  • 所在地:富山県高岡市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:前田氏
  • 文化財指定:富山県指定史跡(昭和40年1月1日)
  • 訪問日:平成21年7月25日

慶長10年(1605)、加賀藩主前田利長は隠居して富山城へ移りましたが、慶長14年(1609)に起きた火災により富山上の大半が焼失したため魚津城へ移りました。そして幕府より新たな城の築城許可を受け、関野の地に城を築いたのが高岡城の始まりです。利長は同年9月に高岡城に入りますが、慶長19年(1614)に死去。翌元和元年(1615)、一国一城の令によって高岡城は廃城となり、以後は高岡町奉行所の管理下で加賀藩の米蔵や火薬蔵などがおかれました。

南外濠にかかる駐春橋。
往時には存在せず、明治14年(1881)にかけられたものです。
奥が二の丸です。

駐春橋から見た南外濠。
幅は20m以上あります。

二の丸東部に建つ護国神社。

二の丸西部には市民会館が建てられています。

二の丸と本丸をつなぐ土橋。
奥が本丸、手前が二の丸です。

二の丸と本丸をつなぐ土橋を鍛冶丸から見たところ。
往時の石垣が現在も残っています。

二の丸と本丸をつなぐ土橋から見た西内濠。

本丸。
中央部から東部には有史1300年余りの射水神社が建てられています。

本丸西部は広々とした芝生公園になっており、周囲を土塁が取り囲んでいます。

本丸に立つ前田利長の像。

本丸の西、西外濠にかかる本丸橋。

本丸橋から西外濠を見たところ。

本丸の北東部にある児童公園。
ここに天守があったのではないかといわれていますが、高岡城に天守があったかは定かではありません。

本丸井戸。

本丸の北にかかる朝陽橋。
往時には存在せず、明治11年(1878)から存在しています。

朝陽橋から中ノ島を見たところ。
中の島は明治に公園化されたから造成されたもので、往時には存在していませんでした。

本丸から朝陽橋を渡ると小さな曲輪があり、梅林になっています。

古城公園の最北部に当たる小竹藪。
本丸に次ぐ広さの曲輪です。

外濠に造成された中の島。

中の島から見た朝陽橋。

三の丸。
市民体育館などが建てられています。

三の丸と明丸の間の濠。
鍛冶丸方面とつながっていて、枡形濠を形成しています。

明丸。
動物園が設けられています。

明丸と鍛冶丸の間の濠。

鍛冶丸。
博物館が建てられています。

鍛冶丸と城外をつなぐ土橋。
ここが大手になっていました。
奥が鍛冶丸です。

前田利長が自らの隠居城として築いた城です。城としての役目は数年間で終わり、長い間加賀藩の倉庫として利用されました。明治になるといち早く古城公園として保存され、日本有数の水濠公園となっています。

  • 読み:しらとりじょう
  • 別名:呉福山城、五福山城
  • 所在地:富山県富山市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:今井氏、神保氏、上杉氏、佐々氏、豊臣氏、前田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年7月25日

富山平野を一望する呉羽山丘陵に築かれた城です。古くから戦略上の要所であったと考えられ、弥生時代の集落も見つかっています。寿永2年(1183)には、木曽義仲配下の今井兼平が陣を張ったとされています。

戦国時代には、越中守護代神保長職が、上杉謙信の進攻に備えるために呉羽山丘陵を本格的に整備。永禄5年(1562)には神保氏はこの城に籠もって上杉氏と戦いますが降伏。城は上杉氏のものとなりますが、元亀3年(1572)には西から押し寄せてきた一揆勢によって白鳥城は落城します。

上杉謙信の死後は、織田信長配下の佐々成政が富山城に入り、白鳥城はその支城となります。信長の死後、豊臣秀吉と佐々成政は対立。天正18年(1585)の越中攻めでは、秀吉は成政が放棄した白鳥城に本陣を敷いています。成政降伏後、前田利家が富山城に入り、白鳥城は富山城の支城として慶長年間(1596~1615)初頭まで存続したと考えられています。

安田城から見た白鳥城。
中央の山から電波等の左辺りまでが城域です。

駐車場に立つ白鳥城址の石碑。

駐車場から西へ登っていくと東出丸が現れます。

東出丸から西へ続く長い通路を抜けると三郭が現れます。

三郭と二郭の間に設けられた堀。

三郭の西に設けられた二郭。

二郭の西隅に設けられた井戸の跡。

二郭の西に設けられた主郭。
白鳥城の最高所で、富山平野が一望できます。

主郭の北に設けられた主郭下郭。
白鳥城で最も広い曲輪です。

城域の最北部に設けられた北二郭。

北二郭の虎口。

主郭の西に設けられた西一郭。

西一郭の西に設けられた西二郭。

西二郭の虎口。
白鳥城は西側への防御は薄く。東の上杉氏を意識しての縄張りがされているようです。

白鳥城からの眺め。

富山平野を望む呉羽山丘陵に築かれた城です。豊臣秀吉が越中攻めで本陣を敷き、佐々成政が降伏に訪れた城として広く知られています。現在見られる遺構は、前田氏の時代のものと考えられています。

  • 読み:やすだじょう
  • 別名:-
  • 所在地:富山県富山市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:岡嶋氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和56年2月23日)
  • 訪問日:平成21年7月25日

天正13年(1585)、富山城の佐々成政を攻める豊臣秀吉が本陣を敷いた白鳥城の支城として、井田川の西岸に築かれた城です。文献に登場するもののその所在が確定していない安城をその前身とする説もあります。前田氏配下の岡嶋一吉が城主を務め、佐々成政降伏後に越中が前田氏の領地になると、再び岡嶋一吉が城主を務めました。慶長4年(1599)、前田利家が死去すると、一吉は前田利家とともに加賀へ移り、安田城には代官が置かれましたが、その後間もなく廃城となったと考えられています。

右郭の入口。
土橋が設けられていますが、往時の土橋は水面下に設けられ、その存在が隠されていたと考えられています。

右郭入口から見た濠。
往時は井田川の水が引き込まれていました。

右郭。
安田城址復元がされる前は、地元の人に「カネツキドウ」と呼ばれていました。

右郭には安田城の復元模型が置かれています。
左奥の本丸、右奥の二の丸、手前の右郭の三つの曲輪で構成されています。
本丸の軸線が二の丸・右郭に対しずれているのがわかります。

右郭方向から見た二の丸。

二の丸。
東・南・西を高さ1.5mほどの土塁が取り囲んでいます。

二の丸の南の虎口。
江戸時代の古図にははっきりと描かれており、ここが大手であったと思われます。

二の丸と本丸を結ぶ通路。
土橋の上に木橋が設けられています。
本来、土橋は水面下に設けられており、木橋を撤去すると土橋の存在がわからないようになっていたと考えられています。

本丸。
周囲を高さ4mほどの土塁が取り囲んでいます。

本丸を取り囲む土塁。
幅は14mもあり、まるで曲輪のようです。

富山平野を流れる井田川の西岸に築かれた城です。廃城後、耕地として利用されていましたが、昭和50年代の発掘調査で「安田古城之図」に描かれたとおりの遺構が確認されたことから保存がなされ、国の史跡に指定されています。

  • 読み:とやまじょう
  • 別名:安住城、浮城
  • 所在地:富山県富山市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:神保氏、佐々氏、前田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年7月25日

神通川南岸の低地に築かれた城で、越中守護代神保長職が天文12年(1543)ごろに、安住郷に築いたのが始まりといわれています。神保氏が上杉謙信に敗れると、越中には織田信長配下の佐々成政が入り、富山城の大改修が行われました。信長の死後、成政は豊臣秀吉と対立。天正13年(1585)、秀吉の越中攻めが行われ、成政は降伏し、富山城は破却されます。

その後、越中が前田氏の領地になると、前田利長が隠居城として富山城を改修し移り住みますが、慶長14年(1609)に全焼。利長は高岡城を築いて移り、富山城には城代が置かれました。寛永16年(1639)、前田利常は次男・利次に10万石を与えて富山藩を興させ、利次は富山城に入ります。この頃の富山城は加賀藩の飛び地でしたが、のちに領地を交換し、万治4年(1661)に幕府の許可を得て大改修を行います。以後、富山城は前田氏の居城として明治まで続き、明治4年(1871)、廃藩置県により廃城となりました。

二の丸から見た模擬天守。
昭和29年(1954)に鉄筋コンクリートで築かれ、富山市郷土博物館になっています。
本来は本丸の南の虎口である鉄御門です。

模擬天守前の土橋から西側を見たところ。

模擬天守前から見た富山市街。

本丸虎口。
枡形構造になっています。

東出丸に隣接して建てられていた千歳御門。
明治時代に農家へ移築されていましたが、平成19年(2007)に本丸東側に移築されました。

本丸東側の佐藤美術館。
昭和36年(1961)に建てられました。

本丸内に立つ富山藩2台藩主前田正甫の像。
藩政の確立に努め、越中売薬の基礎を作りました。

神通川南岸の低地に築かれた城です。神通川の水を引き込んでいたことから浮城とも呼ばれていました。現在、富山城の整備が行われ、堀の復元などがなされています。

  • 読み:たかやまじょう
  • 別名:多賀山城、天神山城
  • 所在地:岐阜県高山市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:多賀山氏、金森氏、前田氏
  • 文化財指定:岐阜県指定史跡(昭和31年9月7日)
  • 訪問日:平成21年10月17日

高山市街を見下ろす城山に築かれた城です。文安年間(1444~1448)に京極氏配下の多賀山徳言が天神山城を築いたのが始まりといわれています。

戦国時代には白川郷を除く大野郡を平定した三木頼綱が松倉城を拠点とし、佐々成政と同盟して豊臣秀吉に対抗しますが、天正13年(1585)、秀吉配下の金森長近に攻められ、飛騨は金森氏の領地となります。長近は当初鍋山城を拠点としますが、天正16年(1588)に天神山城跡に高山城を築き、新たな拠点とします。

元禄5年(1692)、金森氏は出羽へ転封となり、高山城は加賀の前田氏の預かりとなります。元禄8年(1695)、飛騨は天領となり、高山城は廃城。前田氏によって破却されました。

現在は公園になっている二の丸屋形。
奥の山の上が本丸になっています。

二の丸公園の中央に立つ金森長近の像。

二の丸の北に設けられた三の丸。
現在は護国神社が建っています。

三の丸を囲む水堀が一部残っています。

二の丸屋形。。
現在は照連寺が建っています。

二の丸から本丸へ続く搦手道。

本丸の北に設けられた中段屋形。

本丸の北半分。

本丸に復元された石垣。

復元された本丸の石垣の上。

本丸の石垣の上に本丸復元図が設置されています。
二重三階の天守と本丸御殿が一体化した城郭だったようです。

高山市街を見下ろす城山に築かれた城です。曲輪、堀、石垣、土塁などが残っています。現在は城山公園になっています。

  • 読み:おぎまちじょう
  • 別名:-
  • 所在地:岐阜県大野郡白川村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山下氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年10月18日

荻町集落を見下ろす高台に築かれた城です。その築城年代は詳しくわかっていませんが、南北朝時代に南朝方の公家が隠れ住んだと伝えられています。寛正6年(1465)ごろ、それまで白川郷に勢力を持っていた正連寺勢力を信濃から進出した内ヶ島氏為氏が攻め、保木脇に帰雲城を築きます。越中方面からの備えとして荻町城を整備し、家臣の山下氏が城主を務めました。

天正13年11月29日(1586)、天正大地震による帰雲山の大崩落で帰雲城が埋没し、城主内ヶ島氏理とその一族が滅亡。主家が滅んでしまった山下氏勝は、その後徳川義直に仕え、名古屋城整備に貢献しています。

荻町集落から見た荻町城。

搦手の堀切と土塁。

搦手口。

約670坪の主郭。
南、西、北は絶壁となっています。

主郭から下へと続く道。
大手の道なのか、後からつけられた道なのか定かではありません。

主郭の南西角に設けられた物見櫓の跡。
現在はお宮が建てられています。

物見櫓から見た荻町の合掌造り集落。
ユネスコ世界遺産に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として登録されています。

世界遺産である荻町の合掌造り集落を見下ろす高台に築かれた城、主郭背後に土塁と堀切を設けただけの居館式です。現在は荻町城址展望台になっています。

  • 読み:かえりくもじょう
  • 別名:返雲城
  • 所在地:岐阜県大野郡白川村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:内ヶ島氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年10月18日

信濃から白川郷へ進出した内ヶ島為氏が寛正6年(1465)ごろに庄川沿いの保木脇地区付近に築いた城です。天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正大地震により帰雲山が大崩落。帰雲城と城下集落は大量の土砂に埋まり、城主内ヶ島氏理とその一族は滅亡しています。現在庄川左岸に帰雲城址の碑が建っていますが、そこが城跡であるとの確証は得られていません。

国道156号沿いの帰雲城跡。
帰雲城の場所については諸説あり、この場所が帰り雲城という確証も得られていません。
城址の碑と観音様が立っています。

天正大地震で大崩落を起こした帰雲山。
500年前の大崩落の跡が現在も残っています。

帰雲神社。
昭和54年(1979)に地元有志の手によって慰霊のために建立されました。

庄川沿いの保木脇付近に築かれたとされる城です。地震により一夜にして埋没してしまい、その所在は現在もわかっていません。内ヶ島氏は多くの金鉱を保有していたといわれ、帰雲城とともに大量の金が埋まっているとも言われています。

  • 読み:ごかんじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県安中市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:依田氏、新田氏
  • 文化財指定:安中市指定史跡(昭和44年6月30日)
  • 訪問日:平成21年11月8日

後閑城は、後閑川と九十九川の合流点に突き出した南北に長い台地の先端に築かれた城です。嘉吉元年(1441)に信濃の依田忠政によって築かれたのが始まりと伝えられています。

弘治2年(1556)ごろには、新田信純が城主を務めていましたが、永禄3年(1560)に越後の長尾景虎が関東へ出陣すると、近隣の豪族たちはこれに従いましたが、新田氏と小幡氏は武田信玄に従いました。永禄9年(1566)に箕輪城が信玄によって落とされると、永禄10年(1567)、新田信純改め真純は後閑城に入ります。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、新田真純の長男・信重は、厩橋城の北条高広(上杉謙信配下)に従い、小田原の北条氏に従った次男・重政と三男・信久は両後閑と呼ばれました。

天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐では、両後閑は小田原城に籠もり、後閑城は松井田城の大道寺政繁の指揮下に入りましたが、北条氏滅亡とともに後閑城も廃城となりました。

駐車場となっている西第三郭から見た後閑城。
きれいに整備され、曲輪が重なる様子がよくわかります。
手前の建物はトイレ。

西第二郭。
写真手前右が半円状の横矢になっています。

西第二郭から西第一郭と主郭を見たところ。

西第三郭から西第一郭に向かって伸びる堀切。
上のほうに西第一郭の虎口が見えます。

西第一郭。

西第一郭と主郭の北に設けられた北第一堀切。
右の斜面の上が主郭です。

北第一堀切と北郭の間に設けられた北第二堀切。
左の斜面の上が北郭です。

北第一・第二堀切。
右から主郭、北第一堀切、北第二堀切、北郭と連なっています。

北第二堀切を下に向かってみたところ。
堀切の脇にいくつか曲輪が続いています。

北郭の北に設けられた北第三堀切。
右斜面の上が北郭です。
北側は三重の堀切で厳重に守られています。

北郭。

北郭から北第二堀切、北第一堀切、主郭を見たところ。

主郭の西の虎口に設けられた模擬冠木門。

主郭南部。
主郭は南と北の二段構造になっています。

主郭南部を取り囲む石碑群は「百庚申」といい、後閑城家臣の末裔らによって、庚申様信仰の証として建てられたものです

主郭北部。

主郭北部には、案内とともに後閑城の立体模型が展示されています。
写真は南側から見たところ。

主郭の北に設けられた東郭。

東郭と二郭を隔てる大堀切。
右が東郭、左が二郭になっています。

二郭の物見台に設けられた模擬櫓。

模擬櫓から見た二郭。
東西に長い曲輪です。

二郭の東には堀切を隔ててもう一つの曲輪が設けられています。
写真ではわかりにくいですが、丸い植木の列の手前に堀切が設けられています。

大堀切から東へと降りていく道。
道の脇に曲輪のようなものが見られます。

東郭の東に広がる東郭群。
いくつもの曲輪が山の下まで段々に連なっています。

大堀切から主郭の南を通って南郭へ至る道は、公園管理用につけられたもので、遺構ではありません。

主郭の南に設けられた堀切。
左が主郭、右が南郭です。

主郭の南に設けられた南郭。

後閑小学校の裏山に築かれた城です。歴史にはあまりその名が登場しませんが、よく整備され、遺構の保存状態も良好です。

  • 読み:かすみがじょう
  • 別名:手塚城
  • 所在地:長野県諏訪郡下諏訪町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:金刺氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年11月28日

諏訪大社下社秋宮に隣接して築かれた城です。築城時期はわかっていませんが、代々下社の大祝(おおはふり)を務めた金刺氏によって築かれました。南北朝時代には、金刺氏は上社の諏訪氏とともに南朝方につきましたが、文和4年(1355)、金刺氏は北朝方につき、諏訪氏との対立が始まりました。文安6(1449)には上社・下社が戦火を交えるようになり、松本の守護・小笠原氏が金刺氏を支援したことから、諏訪氏は小笠原氏とも対立するようになります。

その後、諏訪氏は勢力を拡大し、金刺氏を圧迫するようになります。文明15年(1483)、諏訪大祝家の諏訪継満が、諏訪惣領家の諏訪政満親子らを謀殺する事件(上社の内訌)に乗じ、金刺興春は上社勢を攻撃しますが、反撃を受けて興春は戦死。下社とその周辺は焼き払われてしまいます。

永正15年(1518)、諏訪頼満は金刺昌春を攻め、昌春は甲斐の武田信虎に援護を要請。武田氏は金刺氏を笹尾塁に立てこもらせ諏訪氏と戦わせますが、諏訪氏の進行により笹尾塁は放棄。これにより金刺氏は没落していくことになります。以後、下社には大祝は置かれず、金刺氏支族の今井氏が武石祝として祭祀を行っています。

金刺氏が大祝を務めた諏訪大社下社。
写真は下社の神楽殿。

霞ヶ城は秋宮に隣接して築かれたと伝えられ、現在駐車場となっているところも城域だったと言われています。
駐車場脇の盛り上がっている場所も城の遺構かもしれません。

秋宮駐車場とホテル山王閣駐車場の間の道路。
堀切のように見えなくもありません。

主郭があったとされるホテル山王閣。

ホテル山王閣の駐車場に立つ金刺盛澄の像。
源頼朝に鎌倉へ召喚されたものの遅刻し、頼朝の怒りを買い処刑されそうになりましたが、梶原景時の計らいにより、流鏑馬の腕前を披露することで頼朝に許され、諏訪に帰ることができたといわれています。

諏訪大社下社秋宮に隣接して築かれたと伝えられる城です。現在の秋宮駐車場からホテル山王閣にかけてが城域であったと言われています。遺構はほとんど残っていません。平時は霞ヶ城で政務を、秋宮と春宮で祭祀を行い、戦時には背後の桜城に籠もっていたと考えられています。

  • 読み:さくらじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県諏訪郡下諏訪町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:金刺氏、武田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年11月28日

諏訪大社下社秋宮の背後の山に築かれた城です。築城時期はわかっていませんが、代々下社の大祝(おおはふり)を務めた金刺氏が霞ヶ城を築いた後に、詰の城として築いたと考えられています。

金刺氏は南北朝時代から上社の諏訪氏と対立。永正15年(1518)、諏訪頼満は金刺昌春を攻め、昌春は甲斐の武田信虎に援護を要請。武田氏は金刺氏を笹尾塁に立てこもらせ諏訪氏と戦わせますが、諏訪氏の進行により笹尾塁は放棄。これにより金刺氏は没落しました。

武田氏が諏訪氏を滅ぼすと、桜城は下諏訪方面防衛のために整備され、武田氏滅亡とともに廃城となったと考えられています。

南麓から見た桜城。
主郭の右(東)に、堀切が設けられているのがわかります。

主郭。
地元有志によって花壇が整備されています。

主郭に設けられた展望台から見た下諏訪の町並みと諏訪湖。
写真中央下のこんもりとした森が、下社秋宮と霞ヶ城跡です。

主郭から南面を見下ろしたところ。
段々に曲輪のようなものが設けられていますが、城の遺構なのか耕作地なのかはっきりしません。

主郭の東に設けられた堀切。
南麓からもはっきりと見えます。

さらに東に設けられた堀切。

さらに東に設けられた堀切。
主郭東側は三重の堀切によって守られています。

主郭の西には、このような曲輪が何段か設けられています。

主郭西面の秋葉社などが建てられている曲輪。
塩ビ管で造られた鳥居の湯泉神社がユニークです。
ここには金刺盛澄ゆかりの一念石があります。

一念石。
流鏑馬に臨む金刺盛澄が度々この場所を訪れ、座禅を組み精神統一をしていたことから一念石と呼ばれています。

西麓から主郭への道は一念坂と呼ばれています。
おそらくはこちら側が大手だったと思われます。

諏訪大社下社秋宮の裏山に築かれた城です。平時は麓の霞ヶ城で政務を行い、戦時に桜城に籠もるということを想定して造られたと思われますが、実戦ではほとんど使われなかったものと考えられます。