後閑城

  • 読み:ごかんじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県安中市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:依田氏、新田氏
  • 文化財指定:安中市指定史跡(昭和44年6月30日)
  • 訪問日:平成21年11月8日

後閑城は、後閑川と九十九川の合流点に突き出した南北に長い台地の先端に築かれた城です。嘉吉元年(1441)に信濃の依田忠政によって築かれたのが始まりと伝えられています。

弘治2年(1556)ごろには、新田信純が城主を務めていましたが、永禄3年(1560)に越後の長尾景虎が関東へ出陣すると、近隣の豪族たちはこれに従いましたが、新田氏と小幡氏は武田信玄に従いました。永禄9年(1566)に箕輪城が信玄によって落とされると、永禄10年(1567)、新田信純改め真純は後閑城に入ります。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、新田真純の長男・信重は、厩橋城の北条高広(上杉謙信配下)に従い、小田原の北条氏に従った次男・重政と三男・信久は両後閑と呼ばれました。

天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐では、両後閑は小田原城に籠もり、後閑城は松井田城の大道寺政繁の指揮下に入りましたが、北条氏滅亡とともに後閑城も廃城となりました。

駐車場となっている西第三郭から見た後閑城。
きれいに整備され、曲輪が重なる様子がよくわかります。
手前の建物はトイレ。

西第二郭。
写真手前右が半円状の横矢になっています。

西第二郭から西第一郭と主郭を見たところ。

西第三郭から西第一郭に向かって伸びる堀切。
上のほうに西第一郭の虎口が見えます。

西第一郭。

西第一郭と主郭の北に設けられた北第一堀切。
右の斜面の上が主郭です。

北第一堀切と北郭の間に設けられた北第二堀切。
左の斜面の上が北郭です。

北第一・第二堀切。
右から主郭、北第一堀切、北第二堀切、北郭と連なっています。

北第二堀切を下に向かってみたところ。
堀切の脇にいくつか曲輪が続いています。

北郭の北に設けられた北第三堀切。
右斜面の上が北郭です。
北側は三重の堀切で厳重に守られています。

北郭。

北郭から北第二堀切、北第一堀切、主郭を見たところ。

主郭の西の虎口に設けられた模擬冠木門。

主郭南部。
主郭は南と北の二段構造になっています。

主郭南部を取り囲む石碑群は「百庚申」といい、後閑城家臣の末裔らによって、庚申様信仰の証として建てられたものです

主郭北部。

主郭北部には、案内とともに後閑城の立体模型が展示されています。
写真は南側から見たところ。

主郭の北に設けられた東郭。

東郭と二郭を隔てる大堀切。
右が東郭、左が二郭になっています。

二郭の物見台に設けられた模擬櫓。

模擬櫓から見た二郭。
東西に長い曲輪です。

二郭の東には堀切を隔ててもう一つの曲輪が設けられています。
写真ではわかりにくいですが、丸い植木の列の手前に堀切が設けられています。

大堀切から東へと降りていく道。
道の脇に曲輪のようなものが見られます。

東郭の東に広がる東郭群。
いくつもの曲輪が山の下まで段々に連なっています。

大堀切から主郭の南を通って南郭へ至る道は、公園管理用につけられたもので、遺構ではありません。

主郭の南に設けられた堀切。
左が主郭、右が南郭です。

主郭の南に設けられた南郭。

後閑小学校の裏山に築かれた城です。歴史にはあまりその名が登場しませんが、よく整備され、遺構の保存状態も良好です。