霞ヶ城

  • 読み:かすみがじょう
  • 別名:手塚城
  • 所在地:長野県諏訪郡下諏訪町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:金刺氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成21年11月28日

諏訪大社下社秋宮に隣接して築かれた城です。築城時期はわかっていませんが、代々下社の大祝(おおはふり)を務めた金刺氏によって築かれました。南北朝時代には、金刺氏は上社の諏訪氏とともに南朝方につきましたが、文和4年(1355)、金刺氏は北朝方につき、諏訪氏との対立が始まりました。文安6(1449)には上社・下社が戦火を交えるようになり、松本の守護・小笠原氏が金刺氏を支援したことから、諏訪氏は小笠原氏とも対立するようになります。

その後、諏訪氏は勢力を拡大し、金刺氏を圧迫するようになります。文明15年(1483)、諏訪大祝家の諏訪継満が、諏訪惣領家の諏訪政満親子らを謀殺する事件(上社の内訌)に乗じ、金刺興春は上社勢を攻撃しますが、反撃を受けて興春は戦死。下社とその周辺は焼き払われてしまいます。

永正15年(1518)、諏訪頼満は金刺昌春を攻め、昌春は甲斐の武田信虎に援護を要請。武田氏は金刺氏を笹尾塁に立てこもらせ諏訪氏と戦わせますが、諏訪氏の進行により笹尾塁は放棄。これにより金刺氏は没落していくことになります。以後、下社には大祝は置かれず、金刺氏支族の今井氏が武石祝として祭祀を行っています。

金刺氏が大祝を務めた諏訪大社下社。
写真は下社の神楽殿。

霞ヶ城は秋宮に隣接して築かれたと伝えられ、現在駐車場となっているところも城域だったと言われています。
駐車場脇の盛り上がっている場所も城の遺構かもしれません。

秋宮駐車場とホテル山王閣駐車場の間の道路。
堀切のように見えなくもありません。

主郭があったとされるホテル山王閣。

ホテル山王閣の駐車場に立つ金刺盛澄の像。
源頼朝に鎌倉へ召喚されたものの遅刻し、頼朝の怒りを買い処刑されそうになりましたが、梶原景時の計らいにより、流鏑馬の腕前を披露することで頼朝に許され、諏訪に帰ることができたといわれています。

諏訪大社下社秋宮に隣接して築かれたと伝えられる城です。現在の秋宮駐車場からホテル山王閣にかけてが城域であったと言われています。遺構はほとんど残っていません。平時は霞ヶ城で政務を、秋宮と春宮で祭祀を行い、戦時には背後の桜城に籠もっていたと考えられています。