2010年2月アーカイブ

  • 読み:やまがみじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県桐生市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:山上氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和23年11月26日)
  • 訪問日:平成21年12月23日

山上城は、赤城山南麓の藤沢川と山田川にはさまれた台地上に築かれた城で、奥州藤原氏の末裔である足利高綱(この地に移り山上氏を称す)が応永年間(1394~1428)に築いたといわれています。

山上氏は関東管領山内上杉氏に従っていましたが、山内上杉氏が衰退すると、天文15年(1555)に北条氏康の攻撃を受け落城。山上氏は下野へと逃れました。

以後、山上城は越後上杉氏と北条氏の間で争奪が行われ、最終的には北条氏のものとなりますが、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びると同時に廃城となったものと御考えられています。

山上城跡公園の入口に建つ模擬櫓風の看板。
この辺りは城の東側になります。

三郭へ向かう橋。
この辺りは公園化によってずいぶんと改変されているようです。

三郭。
芝生公園になっています。

三郭南端に残された井戸。

三郭内の石の配列。
何の跡かはわかりませんでした。

三郭から南郭を見たところ。
南郭との間にも曲輪があったようですが、改変されて耕地になっています。

三郭と二郭の間の堀切。
左が三郭、右が二郭です。

三郭の北に設けられた二郭。
奥の少し高くなっているところが主郭です。

二郭の北に設けられた主郭。

主郭と北郭の間の堀切。
左が主郭、右が北郭です。

北郭。
写真は北から南に向かってみたところで、奥に主郭が見えます。

主郭の北に設けられた北郭のさらに北に設けられた小さな曲輪。
写真は西から東に向かってみたところで、奥に常広寺の墓地が見えます。

城の西側に設けられた長さ400mほどの堀切。
主郭・北郭付近では二重堀切になっており、西への防御に重点が置かれていたことがうかがい知れます。

城の最北部から赤城山を見たところ。

城の南端に当たる南郭に設けられた櫓台。
高さ4mほどの大規模なものです。

山上城跡公園入口から東側を見たところ。
ガードレールの手前を川が流れており、そこまでが城域であったと思われます。
写真中央には高津戸城が見えています。

赤城山南麓の藤沢川と山田川にはさまれた台地上に築かれた北郭、主郭、二郭、三郭、南郭が南北につながる連郭式の城です。全体的に以降がよく残る大規模な城ですが、東側や南側の一部はかなり改変されています。現在は山上城跡公園になっています。

  • 読み:ぜんじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県前橋市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:膳氏、河田氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和24年3月11日)
  • 訪問日:平成21年12月23日

膳城は、赤城山南麓の兎川と童子川にはさまれた台地の先端部に築かれた城で、15世紀中ごろに善氏(のちに膳氏と称す)によって築かれたといわれています。

文明12年(1480)に佐野氏の攻撃を受け落城しますが、善氏は横瀬業繁の援助で再び膳城に入り、以後は由良・横瀬氏の影響下に入ります。永禄5年(1562)には越後上杉方につきますが、やがて北条氏の攻撃を受け落城。膳氏は没落していきます。

以後、越後上杉氏、北条氏、武田氏の間で争奪が行われますが、天正6年(1578)に上杉謙信が急死すると、城は北条氏のものとなり、河田氏が入城します。天正8年(1580)、上杉氏に御館の乱が起き、景勝を支援する武田勝頼は、景虎派の厩橋城を攻略し、ついで大胡城山上城などを膳城周辺の城を攻略してきます。その際。勝頼が攻略地の視察をしているところへ膳城の兵が攻撃を仕掛け、逆に攻め落とされ(膳城素肌攻め)、膳城は廃城となりました。

主郭。
南北60m、東西40mほどの広さです。

主郭から東側の馬出曲輪方向を見たところ。
主郭、二郭以外は宅地化が進んでいます。

主郭の南側に設けられた堀切。
左が主郭、右が二郭です。

主郭の西側の堀切。

二郭。
東西に伸びる大規模な曲輪ですが、東側の大部分は宅地化しています。

主郭の北側に設けられた堀切。
左が北曲輪、右が主郭。
横矢がかけられているのがよくわかります。

主郭の北に設けられた北曲輪。
粕川出土文化財管理センターの敷地になっています。

北曲輪と袋曲輪の間の堀切。
左が袋曲輪、右が北曲輪。
堀切は奥で左に90度折れ曲がり、西虎口まで続いています。

袋曲輪。

袋曲輪に設けられた古塔。

二郭と袋曲輪の間に設けられた堀切。
左が袋曲輪、右が二郭。
堀切は奥で土橋に突き当たっています。

二郭と袋曲輪東端をつなぐ土橋。
土橋手前の堀切は浅く、奥の堀切(主郭西の堀切)は深くなっています。

西虎口。
ここから西は宅地・農地が広がっています。

赤城山南麓の兎川と童子川にはさまれた台地の先端に築かれた城です。大部分が宅地・農地と化していますが、主郭および二郭周辺の遺構はよく残されています。

  • 読み:おなぶちじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県前橋市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:新井氏
  • 文化財指定:前橋市指定史跡(昭和49年5月1日)
  • 訪問日:平成21年12月23日

女渕城は赤城山南麓に築かれた城ですが、その築城年代ははっきりしていません。関東管領山内上杉氏の時代には、配下の豪族が居城していたと考えられています。

天文21年(1552)に北条氏康の攻撃を受けた関東管領上杉憲政が越後の長尾景虎の元へ逃げ延びて以降は、周辺の赤城山南麓の城と同様に、北条氏、武田氏、長尾氏(のちに関東管領職を引き継ぎ上杉氏)の三勢力による争奪が繰り返されたと考えられます。永禄2年(1559)には上杉謙信が女渕城を攻め落とし、配下の長尾顕長に城が与えられ、顕長配下の新井氏が居城しました。

天正6年(1578)に謙信が急死すると、越後上杉氏の勢力は急激に衰退し、替わって武田氏がこの辺りを支配しますが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると北条氏の勢力下に入ります。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、女渕城も廃城になったと考えられています。

主郭および二郭西の水濠。
女渕城はもともと沼沢地に築かれた城であったと考えられています。

上の写真の180度反対側を見たところ。
現在は芝生公園になっていますが、往時はここも水濠でした。

二郭の南に設けられた曲輪。
現在は御霊神社が建っています。

御霊神社の背後に残る土塁。

二郭。
ほとんどが駐車場になっています。

二郭の北部にはわずかに土塁が残っています。

主郭。
東西40m、南北30mほどで、ほとんどが農地になっています。

主郭北側の水濠。
右側は北曲輪ですが、宅地化しています。

主郭と二郭を西から見たところ。
左が主郭、右が二郭で、往時は土橋でつながれていました。

二郭から西曲輪を見たところ。
西曲輪も大部分が宅地化しています。

西曲輪南側の水濠。
横矢がかけられています。

赤城山南麓の沼沢地に築かれた城で、この辺りでは珍しい水濠です。コンクリートブロックで覆われているものの、濠の形はよく残っています。

  • 読み:おおごじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県前橋市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:大胡氏、横瀬氏、北条(きたじょう)氏、牧野氏、酒井氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和42年2月24日)
  • 訪問日:平成21年12月23日

大胡城は赤城山南麓を流れる荒砥川西岸の台地城に築かれた城です。その築城年代ははっきりしていませんが、大胡氏によって築かれたと考えられています。大胡氏は関東管領山内上杉氏に従っていましたが、やがて太田の横瀬氏が勢力を拡大すると次第に圧迫され、天文10年(1541)には当地を去り、武蔵へと移っています。

その後城は横瀬氏のものとなり、横瀬氏は北条氏につきますが、越後の上杉謙信によって攻め落とされ、北条(きたじょう)高広が大胡城に入ります。北条(きたじょう)氏は一時上杉氏を裏切り北条氏につきますが、越相同盟により再び上杉氏の配下となり、天正6年(1578)に謙信が急死し御館の乱がおきると、景虎方につきます。この戦いで北条高広は戦死。上杉氏の勢力が去った当地は武田氏の勢力下に入りますが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田信長配下の滝川一益がこの地に入ります。しかし同年6月に本能寺の変が起きると、滝川一益はこの地を去り、北条氏の勢力下に入ります。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、関東には徳川家康が封じられ、大胡城には家康は以下の牧野康成が2万石で入りました。

元和2年(1616)、牧野氏が越後長嶺へ転封となると、大胡城は酒井氏前橋藩のものとなり、城代が置かれますが、寛永2年(1749)に酒井氏が姫路へ転封となると、大胡城は廃城となりました。

南東端から見た二の丸の様子。
手前に枡形の虎口が設けられています。

二の丸の南側に少しだけ切れ込んだ堀切。。

本丸の西側に設けられた堀切。
左が二の丸、右が本丸です。
写真手前で右に90度折れ曲がっています。

本丸の南の堀。
上の写真の堀とつながっています。

二の丸から南を見たところ。
三の丸や南郭がありましたが、現在は市街化しています。

本丸西側の虎口と土橋。
往時の虎口はこれほど広くなく、公園整備のために改変されています。

本丸。
北、西、南は土塁によって囲まれています。

本丸のほぼ中央に詰まれて石積み。
この石積みで。本丸は二段に分けられています。

本丸東端から見た景色。
写真中央に荒砥川が流れ、その手前が根小屋になっていました。

本丸の北側には、沢を挟んで北郭が設けられています。
北郭は現在幼稚園になっています。

さらに北には近戸曲輪が設けられています。
現在は大胡神社が建っています。

大胡神社裏の堀切。
ここが大胡城の最北端であったと考えられています。

赤城山南麓を流れる荒砥川西岸の台地上に築かれた城で、その城域は南北670m、東西310mに及びます。市街地の中にあり、大部分の遺構は失われましたが、本丸および二の丸の遺構はよく残されています。

  • 読み:すわたいしゃかみしゃまえみやごうどの
  • 別名:-
  • 所在地:長野県茅野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:諏訪氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和39年8月20日)
  • 訪問日:平成21年5月9日、平成22年1月16日

諏訪氏はタケミナカタの末裔を称し、代々諏訪大社上社の大祝(おおはふり)として信仰を集めていました。現在の上社前宮は、平安時代初期に諏訪有員が初めて大祝の職位について以来、上社大祝の居館となっていました。「神殿(ごうどの)」は、神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称で、大祝職位式、大御立座神事など上社の重要な神事のほとんどが神殿で行われました。

大祝が諏訪から出ることは禁忌とされ、諏訪氏当主は幼少時に大祝として祭祀を行い、長じると大祝を辞し、惣領として政治を行うといったことを続けてきました。しかし室町時代になり戦乱が増えてくると、諏訪信満の系統が惣領家を、諏訪頼満の系統が大祝を分担することとなり、両家は神殿に居住します。しかし康正2年(1456)に両家は対立。惣領家は神殿を出て上原城へ移ります。文明15年(1483)、大祝家当主継満が、惣領職も独占しようと惣領家当主政満とその子・若宮丸らを謀殺。聖地が穢されたことで社家衆の反発を招き、継満は高遠へ追放されます。のちに神殿は清地にかえされ、大祝の居館として後世まで続きました。

天正年間に織田信長の侵攻を受け、大祝の居館は宮田渡に移されましたが、祭儀は引き続き神殿において行われました。

国道152号から見た諏訪大社上社前宮。

国道に面した鳥居の脇の溝上社。
祭神は高志奴奈河比売命で、御射山へ出発する際に参詣されたといわれています。
背後のみそぎ池が水濠の役割を兼ねていたとも考えられます。

御手祓道。
御酉祭など重要な神事に使われた道です。

神願門。
神殿の正面入口に当たり、現在の御水舎の辺りで南に向かって開いていたといわれています。
室町時代にはここより南に郡内豪族が居を構えていたと考えられています。

居館の内庭に位置していたと推定される弓立石。

十間廊。
古くは神原廊と呼ばれ、諏訪の祭政の行われた政庁の場でした。

前宮社務所の脇にあるこの場所に、居館があったと考えられています。

境内に残された土塁。
諏訪では「くね(土偏に郭)」と呼ばれています。

上社前宮から見た詰の城・干沢城

拝殿。
現在の拝殿は昭和7年(1932)に伊勢神宮から下賜された材で造営されています。

本殿背後の守屋山方面。
タケミナカタとその后神ヤサカトメの墳墓である山の神古墳があり、何人たりとも立ち入ることは禁じられ、禁を侵した場合は神罰が下るといわれています。

諏訪大社上社前宮に設けられた大祝の居館です。諏訪氏は祭政一致であり、祭祀の場であると同時に政治の場でもありました。現在でも上社の重要な神事は前宮で行われています。

  • 読み:やなぎさわじょう
  • 別名:横壁城
  • 所在地:群馬県吾妻郡長野原町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:羽尾氏、真田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年2月27日

永禄年間(1558~1570)に丸岩城とともに羽尾幸全によって築かれたと考えられますが、定かではありません。吾妻川南岸を南北に流れる柳沢の両岸に築かれています。

天正10年(1582)、武田氏滅亡により空白地帯となった吾妻へ進行を始めた北条氏は、須賀尾峠を越えて西吾妻へ入ろうとしますが、元武田氏配下で西吾妻を領有していた真田昌幸は、湯本氏、西窪氏、横谷氏、鎌原氏など西吾妻の武将を柳沢城近くの丸岩城に交代で駐屯させ、これに対抗。柳沢城にもそれなりの兵力が投入されていたものと考えられます。

丸岩城と柳沢城が連携して須賀尾峠、吾妻街道に目を光らせていたものと考えられています。

長野原城から見た丸岩城と柳沢城。

丘城部・山城部

国道406号から見た山城部(写真中央の山)。
遺構はありませんが、狼煙台や見張台が置かれていたと考えられています。

国道406号から居館部として利用されていた丘城部を見たところ。
国道406号改良の際に行われた発掘調査では、石器が出土しており、この辺りに古くから人が住んでいたことが推定されています。

丘城部。
写真ではわかりづらいですが、わずかに堀のような溝がみられます(写真中央やや右)。

丘城部を東西に横切って設けられた堀切。
右が丘城部主要部、左が山城部側です。

丘城部の南端から山城部を見上げたところ。

別城部

柳沢東岸に築かれた別城部。
水の手である柳沢を確保するために設けられたと考えられています。

別城部から見た柳沢。
現在は砂防ダムが設けられています。
対岸の山の上は山城部です。

別城部。
平坦なほぼ五角形の曲輪です。

別城部東端に設けられた堀切。
左が別城部、右が城外です。

吾妻川南岸を南北に流れる柳沢の両岸に築かれた山城です。西岸に狼煙台もしくは見張台が置かれた山城部、居館部として利用された丘城部。東岸に水の手確保のための別城部が築かれています。すぐ近くの丸岩城と連携して須賀尾峠、吾妻街道に目を光らせていたものと考えられています。