大胡城

  • 読み:おおごじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県前橋市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:大胡氏、横瀬氏、北条(きたじょう)氏、牧野氏、酒井氏
  • 文化財指定:群馬県指定史跡(昭和42年2月24日)
  • 訪問日:平成21年12月23日

大胡城は赤城山南麓を流れる荒砥川西岸の台地城に築かれた城です。その築城年代ははっきりしていませんが、大胡氏によって築かれたと考えられています。大胡氏は関東管領山内上杉氏に従っていましたが、やがて太田の横瀬氏が勢力を拡大すると次第に圧迫され、天文10年(1541)には当地を去り、武蔵へと移っています。

その後城は横瀬氏のものとなり、横瀬氏は北条氏につきますが、越後の上杉謙信によって攻め落とされ、北条(きたじょう)高広が大胡城に入ります。北条(きたじょう)氏は一時上杉氏を裏切り北条氏につきますが、越相同盟により再び上杉氏の配下となり、天正6年(1578)に謙信が急死し御館の乱がおきると、景虎方につきます。この戦いで北条高広は戦死。上杉氏の勢力が去った当地は武田氏の勢力下に入りますが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、織田信長配下の滝川一益がこの地に入ります。しかし同年6月に本能寺の変が起きると、滝川一益はこの地を去り、北条氏の勢力下に入ります。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、関東には徳川家康が封じられ、大胡城には家康は以下の牧野康成が2万石で入りました。

元和2年(1616)、牧野氏が越後長嶺へ転封となると、大胡城は酒井氏前橋藩のものとなり、城代が置かれますが、寛永2年(1749)に酒井氏が姫路へ転封となると、大胡城は廃城となりました。

南東端から見た二の丸の様子。
手前に枡形の虎口が設けられています。

二の丸の南側に少しだけ切れ込んだ堀切。。

本丸の西側に設けられた堀切。
左が二の丸、右が本丸です。
写真手前で右に90度折れ曲がっています。

本丸の南の堀。
上の写真の堀とつながっています。

二の丸から南を見たところ。
三の丸や南郭がありましたが、現在は市街化しています。

本丸西側の虎口と土橋。
往時の虎口はこれほど広くなく、公園整備のために改変されています。

本丸。
北、西、南は土塁によって囲まれています。

本丸のほぼ中央に詰まれて石積み。
この石積みで。本丸は二段に分けられています。

本丸東端から見た景色。
写真中央に荒砥川が流れ、その手前が根小屋になっていました。

本丸の北側には、沢を挟んで北郭が設けられています。
北郭は現在幼稚園になっています。

さらに北には近戸曲輪が設けられています。
現在は大胡神社が建っています。

大胡神社裏の堀切。
ここが大胡城の最北端であったと考えられています。

赤城山南麓を流れる荒砥川西岸の台地上に築かれた城で、その城域は南北670m、東西310mに及びます。市街地の中にあり、大部分の遺構は失われましたが、本丸および二の丸の遺構はよく残されています。