2010年3月アーカイブ

  • 読み:おおはふりやしき
  • 別名:大祝邸
  • 所在地:長野県諏訪市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:諏方氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年3月13日

諏訪氏はタケミナカタの末裔を称し、代々諏訪大社上社の大祝(おおはふり)として信仰を集めていました。平安時代初期に諏訪有員が初めて大祝の職位につき、現在の上社前宮を大祝の居館「神殿(ごうどの)」とし、大祝職位式、大御立座神事など上社の重要な神事のほとんどが神殿で行われました。

天正年間に織田信長の侵攻を受け、神殿は神社とともに兵火により焼失。大祝の居館は中興の大祝諏方頼広(高島藩初代藩主諏訪頼水の弟。この兄弟より、大名家は「諏訪氏」、大祝家は「諏方氏」を名乗る)によって宮田渡に移され、以後代々の大祝が居住しました。平成14年(2002)に諏方弘氏(頼広から数えて15代目の大祝)の死去により諏方氏は断絶。現在は無人となっています。

大祝屋敷全景。
かつては宮川を天然の外濠とし、4重の堀が屋敷を囲んでいましたが、現在では遺構はほとんど残っておらず、総門が昔を偲ぶのみとなっています。

総門。
無人となった現在は固く閉ざされています。

屋敷の蔵。
蔵の背後の木は、諏訪市の天然記念物に指定されているイチョウの木です。

諏方頼広以降代々の大祝が居住した屋敷です。宮川を天然の外濠とし、4重の堀によって周囲を囲まれ、武家と神殿を兼ねた広大な屋敷でしたが、往時の建物はほとんど衰退し、総門が昔を偲ぶのみとなっています。

  • 読み:まるこじょう
  • 別名:依田城
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:丸子氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年3月22日

丸子城は、内村川と依田川の合流点に向かって突き出した山の尾根上に築かれた城です。その築城年代ははっきりしていませんが、元々この地の豪族であった丸子氏によって築かれたと考えられています。

天正13年(1585)の第一次上田合戦の際、上田で大敗した徳川軍は真田氏の属城であった丸子城を攻撃。丸子城には丸子三左衛門をはじめわずかな兵しかいませんでしたが、丸子城は攻めづらい山城であったことや、真田軍が徳川軍を背後から牽制したこともあり丸子城は持ちこたえ、徳川軍は撤退しています。

内村川対岸の辰ノ口地区付近から見た丸子城。
南北に細長い尾根上に築かれた城で、西と東は断崖絶壁になっています。
二郭を「飯盛城」と呼んで別の城として扱われることもあります。

丸子城の東麓に建つ安良居神社。
上丸子の氏神で、諏訪の宮大工によって建てられた本殿は上田市の文化財に指定されています。

丸子城北端からの登り口。

丸子城は彩りの森公園となっており各所にあずまやが設けられていますが、あずまやが建てられているところも何らかの曲輪であったようにも思えます。

麓から5分ほど登ったところで諏訪宮の鳥居が現れます。

北側から見た二郭。
二郭に近づいたところで道は急な登りになります。

二郭の虎口。

南側から見た二郭。
二つの曲輪に分けられ、高い方の曲輪の上には模擬櫓が建てられています。

模擬櫓の脇の祠。

模擬櫓の上から北側を見たところ。
丸子城が二本の川の合流点に築かれていることがわかります。

模擬櫓の上から平時の居館があった西側の辰ノ口を見たところ。
この奥は三才山峠を経て松本方面へとつながっています。

模擬櫓の上から主郭(中央の山)を見たところ。

二郭から主郭へと至る道はごつごつした岩が多くなっています。

主郭の北には堀切が何条も設けられています。

主郭の西面を取り巻く段郭。

北側から見た主郭。
二郭と同じく二つの曲輪に分けられています。

主郭に残された井戸の跡。

主郭の南に設けられた岩だらけの曲輪。

岩だらけの曲輪から南側を見たところ。
写真の奥は和田峠・大門峠を経て諏訪方面へとつながっています。

内村川と依田川の合流点に向かって突き出した山の尾根上に築かれた城で、東西は断崖絶壁の天然の要害となっている城です。天正13年(1585)の「丸子表の戦い」で徳川の大軍を退けたことでその名を知られています。現在は彩の森公園となっています。

  • 読み:しおだじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県上田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:塩田北条氏、村上氏、飯富氏、真田氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和45年4月12日)
  • 訪問日:平成22年3月22日

塩田城は、塩田平の南にそびえる独鈷山山麓弘法山の谷間に築かれた城で、北条時宗の連署であった北条義政が、建治3年(1277)頃に隠居の地として居を構えたのが始まりとされています。塩田北条氏は義政の子・国時、その子・俊時と3代にわたり塩田を統治しますが、元弘3年(1333)、各地の武将が鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、塩田北条氏は幕府軍の一員として戦い、国時・俊時親子は鎌倉にて自刃。塩田北条氏は滅亡します。

塩田北条氏滅亡後の塩田平は、北信濃の有力豪族である村上氏の支配するところとなり、村上氏配下の福沢氏が塩田城に入ります。しかし、天文22年(1553)、甲斐の武田信玄に攻められ塩田城は落城。武田氏配下の飯富(おぶ)氏が塩田城に入り、塩田城は武田氏の東信濃・北信濃攻略の拠点となります。

天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、塩田城は武田氏配下の真田氏の城となりますが、真田昌幸が上田城を築くと、塩田城の存在意義は薄れ廃城となりました。

塩田城遠景。
中央の谷間に塩田城が、二つの山の頂上に砦が築かれていました。
手前のかやぶきの建物は前山寺本堂です。

独鈷山麓の前山寺の三重塔。
前山寺は塩田城の鬼門に位置し、その祈祷寺として武将の信仰を集めました。

前山寺脇から塩田城へ至る道の入口。

前山寺脇から1分ほど歩くと現れる神戸川。
塩田城の東で天然の堀となっています。

塩田城の北面に設けられた堀切の跡。

塩田城主要部へと登る道の入口に立つ塩田城跡の碑。

石碑のある場所から2~3分ほど歩くと、昭和50年(1975)~52年(1977)に発掘調査が行われた場所に着きます。
この場所は下から14段目の段郭で、建物の礎石のほか、陶器、磁器、銅銭、石臼、石塔などが見つかっています。

場内の一角に鎮座する三島社。伊豆出身の北条氏との関わりが考えられます。

城の最上部入口である虎の口。
石積みで曲輪を二つに分けています。

虎の口の北側。

虎の口の石積み。

虎の口を二つに分ける石積みを南側から見たところ。

虎の口の南側には井戸の跡があります。

虎の口の上にある主郭に相当する曲輪。
北条国時の墓が設けられています。

北条国時の墓。

塩田平の南にそびえる独鈷山山麓の弘法山に築かれた城です。二つの山の頂上に砦を築き、その間の谷に城が築かれました。現在はほとんどが木々に覆われていますが、随所に設けられた削平地は今も見ることができます。