2010年4月アーカイブ

  • 読み:あんなかじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県安中市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:安中氏、井伊氏、水野氏、堀田氏、板倉氏、内藤氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年4月3日

安中城は、九十九川と碓氷川に挟まれた台地上に築かれた城です。弘治2年(1556)に長野氏とその配下の安中氏ら上州勢は武田氏との戦いに破れ、危機感を抱いた安中忠政がこの地に新たに城を築いたのが始まりとされています。忠政は永禄年間に松井田城で武田氏と戦いますが自害。嫡男の忠成は武田氏に降伏し、以後、武田方の武将となりました(忠成は降伏後、「景繁」と改名します)。

天正3年(1575)の長篠の戦で安中景繁が討死。家臣の多くも討死したため安中城は荒れ、一時廃城同然の状態となります。天正18年(1590)、小田原征伐後に徳川家康が関東に封じられると、上州に入った井伊氏が安中城を修復。元和元年(1615)には安中藩が興り、その後水野氏、堀田氏、板倉氏、内藤氏、再び板倉氏と藩主が代わり明治まで安中藩は存続しました。

国道18号バイパスから見上げた安中城。
城塁らしい雰囲気が残っています。

文化センターへの登り口から坂口門跡を見上げたところ。

本丸。
現在は安中市文化センターになっています。

二の丸。
現在は大部分が安中小学校の敷地になっています。

本丸から見た櫓台。
現在は離れた小山に見えますが、往時は安中城主要部とつながっていました。

本丸の北東端に設けられた坂口門の跡。

坂口門から北側を見下ろしたところ。
道路の向こうに流れるのが九十九川です。

二の丸の東に設けられた大手門の跡。
遺構はありませんが、クランク状の道に往時の名残が見られます。

大手口の南の堀の跡。
写真の奥を右へ進むと大手門があります。

大手門口番所の跡。

大手門の東の旧安中郡役所。
安中城が廃城となってからも、この場所は安中・碓氷地域の中心でした。

大泉寺。
井伊直政正室と井伊直好生母の墓があり、いずれも安中市指定史跡になっています。

東門付近に鎮座する熊野神社。
安中城築城の際に熊野三社を勧進し、鬼門の守りとしたのが始まりとされています。
総門は安中城の城門の一つを移築したものといわれています。

東門の跡。
道路がクランク状になっています。

東門の枡形跡。

東門から大手口まで伸びていた広小路の跡。

九十九川と碓氷川に挟まれた台地上に築かれた城です。市街化が進み遺構はほとんど見られませんが、あちこちの道路がクランク状になっており、往時の面影がわずかに残っています。

  • 読み:いそべじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県安中市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:佐々木氏、武田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年4月3日

磯部城は、柳瀬川南岸の小山に築かれた城で、正治3年(1201)に佐々木盛綱によって築かれたのが始まりとされています。

現在残る遺構は、鎌倉時代のものではなく戦国時代のものと考えられ、武田氏の手によるものと考えられていますが、確固たる証拠は得られていません。

磯部城へと向かう細い道路。
枡形のようにも見えます。

磯部城址公園の駐車場も何らかの曲輪として利用されていたと考えられます。

磯部城の登り口。
両脇に小さな段郭が並んでいます。

三郭の下に設けられた堀切。
磯部城の西側から南側にかけて設けられています。

三郭の虎口。

三郭。
南に向かってかなり傾斜しています。

三郭の北に設けられた馬出し。
実際には馬出しとしては利用されなかったと考えられます。
奥の切岸の上は主郭です。

馬出しから二郭の虎口を見たところ。
堀切が設けられ、土橋で連絡しています。

二郭下の堀切を三郭に向かって見たところ。

二郭下の堀切は北側にも伸びています。

二郭。
赤い屋根の建物には、虚空蔵菩薩が祀られています。
奥の土塁の上は物見台になっています。

二郭東端に設けられた櫓台。

二郭と主郭の間には堀切が設けられ、発生土が主郭側に盛られ高土井となっています。

主郭の高土井を主郭内から見たところ。

主郭。
郭内には田村神社が設けられています

主郭の搦手虎口。
このすぐ先は断崖絶壁になっており、磯部城の西側の守りは堅固になっています。

主郭南の腰曲輪。
写真奥は二郭下の馬出しにつながっています。

磯部城西面の断崖絶壁。

磯部駅の東約1kmの小山に築かれた城です。規模は小さいですが遺構はよく残っています。現在は磯部城址公園となっています。

  • 読み:なのかいちじんや
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県富岡市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:前田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年4月3日

七日市陣屋は、元和2年(1616)に新しく興った七日市藩の藩庁で、加賀藩祖前田利家の五男・利家によって同年築かれた陣屋です。七日市藩は石高1万石と小規模で、宗家である加賀藩の財政援助を受けながらも、なんとか明治まで存続し、戊辰戦争では新政府軍に参加しています。

七日市藩邸御殿正面玄関。
天保の大火で焼失せずに残った建物の一つです。

陣屋内は日本庭園に整備されています。

陣屋北側に設けられた土塁。
御殿山とも呼ばれています。

陣屋の東に設けられた黒門。
天保の大火で焼失せずに残った建物の一つです

高田川と鏑川に挟まれた平地に七日市藩の藩庁として築かれた陣屋です。陣屋のほとんどは天保の大火で焼失してしまいましたが、御殿正面玄関と黒門は焼失せず、現在も富岡高校の一角に存在しています。

  • 読み:たかとめじょう
  • 別名:亀城
  • 所在地:群馬県高崎市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:長野氏
  • 文化財指定:高崎市指定史跡(昭和57年4月1日)
  • 訪問日:平成22年4月24日

鷹留城は、明応年間(1492~1500)に長野業尚によって下室田背後の山に築かれた城です。1500年代前半に箕輪城を築く前の長野氏の居城と伝えられています。永禄9年(1566)、長野業通の守る鷹留城は、武田信玄の攻撃を受け落城。業通は吾妻の長野原へ逃げ延びたと伝えられています。

南側からの鷹留城遠景。

大手口。
大手口の両脇には石積みの痕跡のようなものが見えます。

大手口から城の南面を登っていくと、竪堀が見られます。
写真は二郭と三郭の間に向かって伸びる竪堀。

二郭下に向かって伸びる竪堀。
これらの竪堀は敵を誘い込んで攻撃するための設備とも考えられます。

道から下へ伸びる竪堀。

搦手の堀切と土橋。

主郭と祠のある曲輪の間の堀切。
深さ5メートル程度、幅15メートル程度あります。

上の写真の堀切の先にある土塁を上から見たところ。
鷹留城内で見られる唯一の土塁です。

主郭の西にある祠のある曲輪。

祠のある曲輪とその西の曲輪の間の堀切。

城の北面を祠のある曲輪から見下ろしたところ。
腰曲輪が続いています。

主郭。
鷹留城落城の際の戦没者慰霊碑が建っています。

主郭と二郭の間の堀切。
二郭側の石段は後世造られたものです。

二郭を東側から見たところ。

二郭と三郭の間の堀切を二郭から見下ろしたところ。

三郭を二郭から堀切越しに見たところ。

下室田背後の山に築かれた連郭式の城です。長野氏四代70年の居城でしたが、武田信玄の攻撃を受けて落城しています。藪に覆われていますが、遺構はよく残っています。