村上城

  • 読み:むらかみじょう
  • 別名:舞鶴城、本庄城
  • 所在地:新潟県村上市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:本庄氏、村上氏、堀氏、本多氏、松平氏、内藤氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成5年6月8日)
  • 訪問日:平成22年6月12日

村上城は、村上市街の中央に聳える臥牛山に築かれた城です。室町時代以来この地の地頭を務めていた本庄氏が本庄城を築いたのが始まりとされています。本庄氏は天文20年(1551)に跡を継いだ繁長の時代に春日山城の長尾景虎に従うようになります。繁長は一時武田信玄の調略にかかり、上杉輝虎(長尾景虎)に反旗を翻しますが、輝虎の攻撃を受けて降伏し、再び上杉氏に従属。謙信死後の御館の乱では、上杉景虎側につきますが、景勝側に降伏。新発田重家の反乱ではその討伐に功績を上げています。慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ転封となると本庄氏も本庄城を去り、その後には堀氏配下の村上頼勝が本庄城に入っています。

村上頼勝は城の大改修を行い、この頃に城の名も村上城と改められます。その後元和4年(1618)に村上氏は改易されますが、その後に村上城に入った堀直竒によって本格的な建造がされ、三重の天守も築かれました。慶安2年(1649)、姫路から転封となった松平氏によって城の整備は進められますが、寛文7年(1667)の落雷によって天守は焼失。以後、天守が再建されることはありませんでした。

その後、村上城主はめまぐるしく変わりますが、内藤氏の時代に戊辰戦争を迎えます。藩内では旧幕府側と新政府側との対立が起こり、旧幕府側は山麓居館に火を放ち庄内藩へ逃亡。その後廃藩置県により村上城は廃城となっています。

村上城の西の登り口にある一文字門。
往時は石垣と堀を備えた二重構造の厳重な門構えでした。

一文字門の脇にある城主居館跡。

一文字門から四つ門へとつながる七曲の道。

七曲の道を登りきると、四つ門の石垣が見えてきます。

四つ門内部。
左が一文字門方面、奥が三の丸方面、右が坂中門方面、手前が二の丸方面と、十字路に建てられ四つの出入り口を持つ門でした。

四つ門の北に設けられた三の丸を四つ門出口から見たところ。
三の丸入口付近は調練場となっていました。

三の丸東端に設けられた玉櫓の跡。

三の丸北側には武具倉が設けられていました。

三の丸北端に設けられた靱櫓の跡。 三の丸は武器弾薬庫や訓練場として利用されていたことが考えられます。

三の丸の石垣。

四つ門の南に設けられた御鐘門。
ここから南が二の丸になっています。

二の丸の南端に設けられた黒門。

黒門から出櫓の石垣を見たところ。
修復工事が行われていました。

黒門の南に設けられた平櫓の跡。

平櫓跡から東側斜面を見下ろしたところ。
帯曲輪が設けられているのが見えます。

本丸虎口付近に設けられた埋門。
東側斜面の帯曲輪群と本丸をつないでいます。

本丸虎口。

本丸内部。

天守台。
かつてここに三重の天守が建てられていました。

天守台から村上市街を見たところ。
遠くに日本海が見えます。

本丸の下から見た天守台。

戦国時代の遺構

戦国時代はおもに臥牛山東麓に居館が築かれ、城も東斜面に築かれていました。東斜面は本庄氏の居城であった本庄城の面影を残しています。

御鐘門の下に設けられた坂中門。

坂中門から鉄砲倉台を見たところ。
藪化しており近づくのは困難です。

二の丸の東側斜面から下へと伸びる竪堀。
このまままっすぐ東の虎口まで伸びています。

本丸の東側斜面に設けられた帯曲輪。

村上市街の中央に聳える臥牛山(標高135メートル)に築かれた城です。戦国時代には東麓に居館が築かれ、城も東斜面に築かれましたが、村上氏の時代には西麓に居館が築かれるようになりました。新潟県に残る数少ない石垣造りの城で、現在石垣に修復が行われています。