2010年8月アーカイブ

  • 読み:おおばさわじょう
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県村上市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:鮎川氏
  • 文化財指定:新潟県指定史跡
  • 訪問日:平成22年6月12日

大葉沢城は、村上城の北東3.5kmほどの普済寺の裏山に築かれた城です。本庄氏の一族である鮎川氏の居城であると伝えられています。鮎川氏は上条憲定が守護代長尾為景に対し挙兵した上条の乱では上条氏側につき大葉沢城に篭城しますが、長尾景虎(上杉謙信)の代になるとそれに従います。

永禄11年(1568)に武田氏の策により本庄繁長が上杉謙信に対し反乱を起こしますが、鮎川清長は本庄氏に加担せず、謙信に従っています。のちに本庄繁長は謙信に降伏しますが、講和の条件が本庄氏の所領を削って鮎川氏に与えるとするものであったため、元亀2年(1571)に繁長は大葉沢城を攻撃しています。

慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ移封となると、鮎川氏もそれに従い、大葉沢城は廃城となっています。

県道349号付近から見た大葉沢城。
左奥の寺山から右手前の宮山にかけての東西約700mに及ぶ山城です。

普済寺からの登り口。

登っていくと、薬師堂が現れます。

入口から5分ほどで尾根上の分岐に到達します。
奥が宮山、右が普済寺、手前が寺山です。

尾根を東へ登っていくと現れる寺山の曲輪の虎口。

寺山の曲輪の内部。
大葉沢城で最も広い曲輪で、まとまった兵力が駐屯できそうです。

尾根の分岐から西の宮山方向へ下っていくと現れる畝形阻塞。
土塁と堀切を交互に50本以上連続させたもので、全国的にも珍しい構造物です。
南西の本庄氏の方向に向かって造られています。

畝形阻塞の先にある二重堀切。

宮山の尾根上に築かれた雷神社。
寛治7年(1093)創建で、加茂次郎源義綱が出羽の属を征伐する際に京都の賀茂神社本社から勧進してこの地の鎮守にしたと伝えられています。
往時はこのあたりの曲輪から畝形阻塞の敵へ向かって狙撃していたと考えられています。

雷神社から降りてきたところ。
宮山側の登り口です。

普済寺の裏山に築かれた城で、その城域は普済寺裏の寺山から雷神社の建つ宮山までの東西約700mに及びます。宮山に築かれた50本以上の畝形阻塞は全国的にも珍しいものです。

  • 読み:えがみやかた
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県胎内市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:中条氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和59年10月3日)
  • 訪問日:平成22年6月12日

江上館は、三浦和田一族の中条氏の15世紀ごろの居館です。永世年間に起きた越後守護上杉定実と越後守護代長尾景為の争いでは、本庄氏や色部氏が上杉側についたのに対し、中条氏は長尾氏側につき、本庄氏と戦っています。享禄3年(1530)の上条の乱では、本庄氏とともに上条側につき、のちに再び長尾氏に従っています。

戦国期も後半になると、中条氏は鳥坂城へと居を移し、江上館は廃城となっていたと考えられています。

館の南西から見た江上館主郭。
復元された土塁の上には中条藤資ののぼりが立っています。
藤資は上杉謙信が高野山へ隠居すると言い出した際に、起請文と人質を差し出して翻意を迫ったことで知られています。

館の南西から見た南郭。
馬出しのようになっています。

南郭東端から西側を見たところ。
奥にある屋根の黒い大きな建物は、奥山荘歴史館です。

南郭から主郭へかかる復元木橋と復元された門を見たところ。
主郭のほうが若干高くなっています。

主郭内部を南西端から見たところ。
復元された高さ3mほどの土塁が周囲を取り囲んでいます。
かつて建物があったところが赤い色で平面復元されています。

主郭内に置かれた江上館主郭の復元模型。
手前側が南です。

主郭内部を北西端から見たところ。
真ん中の仕切りの奥(南)が、ハレの場(政務や儀式を執り行った場所)で、手前(北)がケの場(生活空間)であったと考えられています。

主郭から北郭へと通じる門。

主郭と北郭の間の堀。横矢がかけられています。
往時は水を湛えていたと考えられています。

主郭から北郭へ至る橋と北郭の虎口。

南東端から見た北郭内部。
北郭も周囲を土塁が取り囲んでいます。

北郭から北へと続く虎口。

北郭から南に向かって館全体を見たところ。

館の北西端に築かれた鷲麻神社。

主郭の南東端に築かれた稲荷神社。

櫛形山脈北麓の平地に築かれた城館です。周囲は宅地化していますが、館は土塁等が復元され、史跡公園となっています。隣接する奥山荘歴史観では、平安末期に桓武平氏一族の城氏の時代からの歴史が紹介されています。

  • 読み:しばたじょう
  • 別名:菖蒲城、浮船城、狐の尾曳城
  • 所在地:新潟県新発田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:新発田氏、溝口氏
  • 文化財指定:国指定重要文化財(旧二の丸隅櫓・表門:昭和59年10月3日)
  • 訪問日:平成22年6月12日

新発田城は、在地の豪族である新発田氏によって築かれたのが始まりとされています。新発田重家は上杉謙信に従属し、謙信の死後に勃発した御館の乱では景勝側につきましたが、乱後に大した恩賞をもらえなかったことから、天正9年(1581)に景勝に対して反乱を起こします(新発田重家の乱)。反乱は7年間に及びましたが、天正15年(1587)10月、新発田城は景勝勢に包囲され、新発田重家は色部氏によって討ち取られました。

その後、慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ移封となると、代わって尾張から溝口秀勝が6万石で入部。現在の新発田城は溝口氏によって築かれたものです。新発田藩はその領地のほとんどが低湿地帯であったため、干拓と治水に力が入れられ、現在のような稲作地帯が作られました。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、新政府よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の圧力に抗いきれず奥羽越列藩同盟に一応加盟しますが、後に新政府軍に参加。溝口氏の新発田藩は廃藩置県まで存続することとなります。

現在は本丸の大部分が陸上自衛隊新発田駐屯地の敷地になっており、二の丸の一部が新発田公園になっています。

平成16年(2004)に復元された本丸三階櫓を二の丸から見たところ。
破風が三つある全国的にも珍しい櫓です。

三階櫓の屋根には3匹の鯱が乗っています。
3匹の鯱が乗るのは全国でもここだけです。

土橋門付近から見た旧二の丸隅櫓。
二の丸北部にあったものを昭和34年(1959)から翌35年にかけて解体修理し、本丸鉄砲櫓跡の現在地に移築したもので、国指定重要文化財です。
壁周りは雪国の特徴である瓦張りの海鼠壁に仕上げられています。

土橋門から見た二の丸。

二の丸と帯曲輪を隔てていた土橋と土橋門の跡。
説明看板の後方にはかつて帯曲輪を取り囲む水堀が存在していました。

帯曲輪から見た本丸表門。
現在の表門は享保17年(1732)に再建されたもので、国指定重要文化財です。

平成16年(2004)に再建された辰巳櫓を帯曲輪から見たところ。

帯曲輪に立つ堀部安兵衛武庸の像。
新発田出身の安兵衛は剣客として名を上げ赤穂藩士となり、のちに赤穂浪士四十七士の一人として吉良上野介邸討ち入りに参加しています。

辰巳櫓の石垣上から見た本丸内部。
大部分が陸上自衛隊の駐屯地となっています。
奥には復元された三階櫓が見えます。
三階櫓は陸上自衛隊と財務省の取り決めで中に入ることはできません。

表門付近に立つ新発田藩初代藩主溝口秀勝の像。
現在の新発田城の基礎を造った人物です。

復元された辰巳櫓の内部。

本丸表門に設けられた石落し。

本丸表門から土橋門を見たところ。

旧二の丸隅櫓の内部。

加治川南岸に築かれた平城です。3匹の鯱が乗る三階櫓が特徴です。狐が雪の上に尾で縄張図を描いて示したという伝説から狐の尾曳城とも呼ばれています。日本百名城にも指定され、二の丸の一部は城址公園として整備されています。

  • 読み:いじみのじょう
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県新発田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:五十公野氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年6月12日

五十公野城は、新発田城の南東約4kmの小高い丘の上に築かれた城です。築城年代ははっきりしていませんが、五十公野氏によって築かれたとされています。

戦国時代、新発田重家は五十公野治長と称し五十公野氏を継いでいましたが、天正8年(1580)に実兄・新発田長敦の死により新発田氏に戻り、新発田氏を継ぎます。このため、重家の妹婿・長沢道如斎が五十公野氏を継ぎ、五十公野信宗と名を変えます。翌天正9年、重家が上杉景勝に対し反乱を起こすと信宗もこれに従います(新発田重家の乱)。反乱は7年に及びますが、天正15年(1588)、五十公野城は上杉方の藤田信吉に攻められ、信宗は配下の羽黒権太夫らによって討ち取られ、五十公野城は落城。以後、廃城となりました。

五十公野茶屋付近から見た五十公野城。
写真奥の小高い丘が主郭です。
二郭は東中学校の敷地になっており、以降はまったく残っていません。

新発田市老人福祉センター金蘭荘付近から主郭を見たところ。

主郭へと登る道。

主郭背後の二重堀切の東側の堀。
左側が主郭方面です。

主郭背後の二重堀切の西側の堀。
左側が主郭方面です。

主郭虎口。
最後の城主・五十公野信宗はこの辺りで配下の羽黒権太夫に馬上から引き摺り下ろされ、渋谷氏、川瀬氏らに首を掻き切られたと考えられます。

主郭。
五十公野城址の大きな碑が立っています。
碑の向こうは崖になっており、その下が二郭のあった東中学校の敷地です。

五十公野城の近くにある五十公野茶屋。
溝口氏時代の遺構です。

五十公野茶屋周囲に残る土塁。

溝口氏累代の霊を祀る豊田神社。

加治川西岸の小高い丘の上に築かれた城です。防御性に乏しい小城ですが、新発田重家の乱では防衛側の士気が高かったと見られ、上杉の大軍勢をてこずらせています。

  • 読み:すいばらだいかんしょ
  • 別名:-
  • 所在地:新潟県阿賀野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:歴代代官
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年6月12日

水原代官所は、阿賀野川東岸の瓢湖付近の水原城跡に築かれた代官所です。

伊豆の大見氏は鎌倉幕府の成立に戦功のあり、12~13世紀にその子孫が白川荘の地頭職に任じられます。南北朝時代以降、大見惣領家は安田氏を、水原郷の庶家は水原氏を名乗り、水原氏は水原城を拠点としました。

水原氏は戦国時代には上杉謙信に仕え、天正6年(1578)の御館の乱では景勝側につき、天正9年(1581)に勃発した新発田重家の乱でも上杉氏側につきますが、天正11年(1583)に新発田城の包囲を解いて退却する際に新発田重家の追撃を受けて水原満家が討死。水原氏は一度断絶。水原城も落城し、新発田方の細越氏が水原城に入ります。天正12年(1584)~13年にかけて上杉方と新発田方の間で水原城の奪い合いが行われ、天正13年(1585)、上杉方が水原城を奪還。大関弥七が水原親憲を名乗り、水原城に入ります。慶長3年(1598)、上杉氏が会津へ移封となると、水原氏もこれに従い、水原城は廃城となりました。

江戸時代中期、水原周辺は幕府直轄地となっており、延享3年(1746)に水原城跡地に水原代官所が設置されます。代官所は慶応4年(1868)に会津藩預かりとなるまで続き、専任の代官は22代を数えました。明治時代には敷地内に水原尋常小学校が置かれ、平成7年(1995)に代官所が復元されています。

復元された表門。

復元された代官所。
内部も代官所平面図に基づいて復元されています。

代官所北東に建つ屋敷稲荷。

阿賀野川東岸の瓢湖の近くの水原城跡に築かれた代官所です。専任の代官は22人を数え、慶応4年(1868)に会津藩預かりとなるまで続きました。代官所の建物は代官所平面図に基づき、平成7年(1995)に復元されています。

  • 読み:みやのじょう
  • 別名:-
  • 所在地:群馬県利根郡みなかみ町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:尻高氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年6月19日

宮野城は、赤谷湖に突き出した半島の上に築かれた城です。赤谷湖は昭和になって造られた人造湖なので、往時は赤谷川と西川の合流点に突き出した断崖上の城でした。天正2年(1574)に真田氏によって尻高城が落城し、城主景家は討死。景家の子・義隆は猿ヶ京に逃れ、この地に城を築いたのが始まりとされています。

尻高氏は越後の上杉謙信に仕え、謙信の関東進出の際には、宮野城が三国峠越えの宿所として使われました。天正6年(1578)に謙信が急死すると、尻高氏は北条氏直に仕えるようになります。天正8年(1580)、宮野城は武田氏配下の真田氏の攻撃を受け、陥落。尻高義隆は舒林寺にて自害し、宮野城は廃城となりました。

相俣のローソンから見た宮野城。
写真中央やや左の建物(ホテル湖城閣)の辺りが主郭、写真右の建物の辺り(城西学園研修施設)の辺りが二郭です。

二郭の様子。
土塁がわずかに残っています。

二郭から主郭を見たところ。
主郭はホテル湖城閣の敷地になっています。

主郭と二郭を隔てる堀。
左が主郭、右が二郭。

赤谷湖に突き出した半島城に築かれた城です。現在はホテル湖城閣や城西学園の研修施設、宅地、農地になっていますが、土塁や堀切がわずかに残っています。