新発田城

  • 読み:しばたじょう
  • 別名:菖蒲城、浮船城、狐の尾曳城
  • 所在地:新潟県新発田市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:新発田氏、溝口氏
  • 文化財指定:国指定重要文化財(旧二の丸隅櫓・表門:昭和59年10月3日)
  • 訪問日:平成22年6月12日

新発田城は、在地の豪族である新発田氏によって築かれたのが始まりとされています。新発田重家は上杉謙信に従属し、謙信の死後に勃発した御館の乱では景勝側につきましたが、乱後に大した恩賞をもらえなかったことから、天正9年(1581)に景勝に対して反乱を起こします(新発田重家の乱)。反乱は7年間に及びましたが、天正15年(1587)10月、新発田城は景勝勢に包囲され、新発田重家は色部氏によって討ち取られました。

その後、慶長3年(1598)に上杉氏が会津へ移封となると、代わって尾張から溝口秀勝が6万石で入部。現在の新発田城は溝口氏によって築かれたものです。新発田藩はその領地のほとんどが低湿地帯であったため、干拓と治水に力が入れられ、現在のような稲作地帯が作られました。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、新政府よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の圧力に抗いきれず奥羽越列藩同盟に一応加盟しますが、後に新政府軍に参加。溝口氏の新発田藩は廃藩置県まで存続することとなります。

現在は本丸の大部分が陸上自衛隊新発田駐屯地の敷地になっており、二の丸の一部が新発田公園になっています。

平成16年(2004)に復元された本丸三階櫓を二の丸から見たところ。
破風が三つある全国的にも珍しい櫓です。

三階櫓の屋根には3匹の鯱が乗っています。
3匹の鯱が乗るのは全国でもここだけです。

土橋門付近から見た旧二の丸隅櫓。
二の丸北部にあったものを昭和34年(1959)から翌35年にかけて解体修理し、本丸鉄砲櫓跡の現在地に移築したもので、国指定重要文化財です。
壁周りは雪国の特徴である瓦張りの海鼠壁に仕上げられています。

土橋門から見た二の丸。

二の丸と帯曲輪を隔てていた土橋と土橋門の跡。
説明看板の後方にはかつて帯曲輪を取り囲む水堀が存在していました。

帯曲輪から見た本丸表門。
現在の表門は享保17年(1732)に再建されたもので、国指定重要文化財です。

平成16年(2004)に再建された辰巳櫓を帯曲輪から見たところ。

帯曲輪に立つ堀部安兵衛武庸の像。
新発田出身の安兵衛は剣客として名を上げ赤穂藩士となり、のちに赤穂浪士四十七士の一人として吉良上野介邸討ち入りに参加しています。

辰巳櫓の石垣上から見た本丸内部。
大部分が陸上自衛隊の駐屯地となっています。
奥には復元された三階櫓が見えます。
三階櫓は陸上自衛隊と財務省の取り決めで中に入ることはできません。

表門付近に立つ新発田藩初代藩主溝口秀勝の像。
現在の新発田城の基礎を造った人物です。

復元された辰巳櫓の内部。

本丸表門に設けられた石落し。

本丸表門から土橋門を見たところ。

旧二の丸隅櫓の内部。

加治川南岸に築かれた平城です。3匹の鯱が乗る三階櫓が特徴です。狐が雪の上に尾で縄張図を描いて示したという伝説から狐の尾曳城とも呼ばれています。日本百名城にも指定され、二の丸の一部は城址公園として整備されています。