2010年10月アーカイブ

日本100名城とは、財団法人日本城郭協会が、日本の名城と呼ばれる古城を一般に公募したもので、観光地としての知名度や歴史上の重要性、復元の正確さなどを基準に審査し、選定したもので、平成18年(2006)2月13日に発表されたものです。

姫路城や松本城など天守の聳える近代城郭から、春日山城のような中世の山城、首里城などの沖縄のグスク、五稜郭といった近代要塞、城の始まりとされる環濠集落の吉野ヶ里遺跡など幅広く選定されています。

日本100名城リスト

北海道
  • 根室半島チャシ跡群:北海道根室市
  • 五稜郭:北海道函館市
  • 松前城:北海道松前郡松前町
東北
  • 弘前城:青森県弘前市
  • 根城:青森県八戸市
  • 盛岡城:岩手県盛岡市
  • 多賀城:宮城県多賀城市
  • 仙台城:宮城県仙台市青葉区
  • 久保田城:秋田県秋田市
  • 山形城:山形県山形市
  • 二本松城:福島県二本松市
  • 会津若松城:福島県会津若松市
  • 白河小峰城:福島県白河市
関東
甲信越
北陸
  • 高岡城:富山県高岡市
  • 七尾城:石川県七尾市
  • 金沢城:石川県金沢市
  • 丸岡城:福井県坂井市
  • 一乗谷城:福井県福井市
東海
  • 岩村城:岐阜県恵那市
  • 岐阜城:岐阜県岐阜市
  • 山中城:静岡県三島市
  • 駿府城:静岡県静岡市葵区
  • 掛川城:静岡県掛川市
  • 犬山城:愛知県犬山市
  • 名古屋城:愛知県名古屋市
  • 岡崎城:愛知県岡崎市
  • 長篠城:愛知県新城市
  • 伊賀上野城:三重県伊賀市
  • 松阪城:三重県松阪市
近畿
  • 小谷城:滋賀県長浜市
  • 彦根城:滋賀県彦根市
  • 安土城:滋賀県近江八幡市
  • 観音寺城:滋賀県近江八幡市
  • 二条城:京都府京都市中京区
  • 大坂城:大阪府大阪市中央区
  • 千早城:大阪府南河内郡千早赤阪村
  • 竹田城:兵庫県朝来市
  • 篠山城:兵庫県篠山市
  • 明石城:兵庫県明石市
  • 姫路城:兵庫県姫路市
  • 赤穂城:兵庫県赤穂市
  • 高取城:奈良県高市郡高取町
  • 和歌山城:和歌山県和歌山市
中国
  • 鳥取城:鳥取県鳥取市
  • 松江城:島根県松江市
  • 月山富田城:島根県安来市
  • 津和野城:島根県鹿足郡津和野町
  • 津山城:岡山県津山市
  • 備中松山城:岡山県高梁市
  • 鬼ノ城:岡山県総社市
  • 岡山城:岡山県岡山市北区
  • 福山城:広島県福山市
  • 吉田郡山城:広島県安芸高田市
  • 広島城:広島県広島市中区
  • 岩国城:山口県岩国市
  • 萩城:山口県萩市
四国
  • 徳島城:徳島県徳島市
  • 高松城:香川県高松市
  • 丸亀城:香川県丸亀市
  • 今治城:愛媛県今治市
  • 湯築城:愛媛県松山市
  • 松山城:愛媛県松山市
  • 大洲城:愛媛県大洲市
  • 宇和島城:愛媛県宇和島市
  • 高知城:高知県高知市
九州
  • 福岡城:福岡県福岡市中央区
  • 大野城:福岡県大野城市
  • 名護屋城:佐賀県唐津市
  • 吉野ヶ里遺跡:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町
  • 佐賀城:佐賀県佐賀市
  • 平戸城:長崎県平戸市
  • 島原城:長崎県島原市
  • 熊本城:熊本県熊本市
  • 人吉城:熊本県人吉市
  • 大分府内城:大分県大分市
  • 岡城:大分県竹田市
  • 飫肥城:宮崎県日南市
  • 鹿児島城:鹿児島県鹿児島市
沖縄
  • 今帰仁城:沖縄県国頭郡今帰仁村
  • 中城城:沖縄県中頭郡中城村
  • 首里城:沖縄県那覇市
  • 読み:なべくらじょう
  • 別名:横田城、遠野城
  • 所在地:岩手県遠野市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:阿曽沼氏、南部氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年7月31日

鍋倉城は、遠野盆地の南端、来内川南岸に築かれた城です。天正年間(1573~91)に阿曽沼広郷は横田城からこの地に本拠を移して城を築き、始めは横田城と呼ばれました。阿曽沼広郷は現在の遠野市から釜石市を支配していましたが、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めに参加しなかったことから、八戸の南部信直の配下に組み込まれます。

慶長5年(1600)、広郷の子の阿曽沼広長は、一族の鱒沢氏に遠野を追われ、世田米を拠点に伊達政宗の支援を受けながら遠野奪還を試みますが、かなわず没落していきます。寛永4年(1627)、八戸から南部直義が遠野に入部。鍋倉城は、明治2年(1869)に廃城となるまで遠野南部氏1万2500石の居城となりました。

鍋倉城の北の登城口。
南部神社の鳥居が建てられています

南部神社。
遠野南部氏の祖である南部実長から8代政光までを祭神としています。
写真左手から本丸方面へと登れます。

南部神社から本丸方面へと至る道。

本丸北西に設けられた沢里屋敷。
南部氏重臣の沢里氏の屋敷があったとされています。

本丸。
東西50メートル、南北150メートルほどの広大な曲輪です。
城の屋敷は南北に長い平屋で、屋根は茅葺であったと伝えられています。

本丸にあった八幡神社跡。

本丸玄関跡。

本丸の東に設けられた大手門の跡。
阿曽沼氏の時代には二階造りの二楼門でしたが、慶長7年(1602)に四ツ足門に改められました。

本丸の東に設けられた三の丸。
南部氏重臣の中館氏、福田氏の屋敷があったとされています。

三の丸から遠野市街を見たところ。

三の丸に造られた模擬天守風の展望台。

本丸と二郭の間に設けられた深さ5メートルほどの空堀。
右が本丸、左が二郭です。

二の丸御門跡。

本丸の南に設けられた二の丸。
現在は墓地になっています。

遠野盆地の南端、来内川南岸に向かって突き出した小山に築かれた城です。現在は鍋倉公園として整備されています。

  • 読み:たがじょう、たがのき
  • 別名:-
  • 所在地:宮城県多賀城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:陸奥守
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和41年4月11日)
  • 訪問日:平成22年8月1日

多賀城は、神亀元年(724)、陸奥国府および鎮守府として築かれた城です。当時、蝦夷と大和の境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に按察使大野東人によって築かれました。

天平宝字6年(762)に藤原朝狩によって修繕(第2期)。宝亀11年(780)に伊治呰麻呂の乱で焼失したものの再建されています(第3期)。延暦21年(802)に坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行うと、鎮守府は胆沢城へ移され、多賀城は兵站的機能に移っていきます。貞観11年(869)には陸奥国で大地震が起こり多賀城も被害を受けます。多賀城はその後復興しますが(第4期)、10世紀半ばになると維持管理されなくなり、次第に荒廃していきました。

その後も多賀城は、前九年の役や後三年の役では軍事拠点として利用されました。南北朝時代には後醍醐天皇によって陸奥守に任じられた北畠顕家が、義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城に赴き、陸奥将軍府を設置。南朝方の奥州における拠点として機能しますが、延元3年(1338)に顕家が没すると急速に衰退し、北朝方によって多賀城は陥落し、将軍府は伊達郡の霊山へ移転しています。

外郭南門跡。
南辺のほぼ中央に位置する八脚門で、東門、西門に比べ立派に造られていたと考えられています。

外郭南門付近から外郭南東端方面を見たところ。

外郭南東端。

外郭南東端から外郭南門方面を見たところ。
外郭には築地塀と木柵が設置されていました。

外郭南門付近に建つ多賀城碑。
前半は多賀城の位置を、後半は多賀城築城と修築、碑の建てられた年月日が記されています。
群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑とともに日本三古碑の一つになっています。

外郭南門から政庁へと延びる約350メートルの直線道路。
一部が復元されています。

政庁南門跡。
礎石が展示されています。

政庁。
一辺約1キロメートルの多賀城のほぼ中央に位置し、陸奥国府の重要な政務や儀式を執り行ったところです。
政庁は1辺約100メートルの築地塀によって囲まれていました。
写真奥に小さく政庁正殿跡が見えます。

政庁東辺の中央に築かれた東殿跡。

政庁西辺の中央に築かれた西殿跡。

政庁北辺。
ここには北殿が設けられていた時代もありました(第2期)。

政庁の中央に設けられた政庁正殿跡。
政庁の中心的建物で、現在は基壇部分のみが復元されています。

政庁に展示されている政庁復元模型。
第2期の政庁はこんな感じであったと推定されています。

政庁の北に設けられた六月坂地区の役所跡。

六月坂地区の役所跡のそばに建つ多賀神社。

外郭北東端。

奈良時代の外郭東門跡。
第2期の門が60cmの高さまで推定復元されています。

平安時代の外郭東門跡。
奈良時代のものより80メートルほど西に移動しています。
築地塀の位置が土塁で復元されています。

平安時代の石敷道路。
外郭東門から外郭西門へ至る幅16メートルほどの道路でした。

外郭東門付近の役所群北門跡。

多賀城市の北、塩釜丘陵上に築かれた1辺約1kmにおよぶ広大な政庁です。奈良時代から平安時代、「遠の朝廷」とも呼ばれ、東北地方の中心地として栄えました。

  • 読み:せんだいじょう
  • 別名:青葉城、千代城、五城楼
  • 所在地:宮城県仙台市青葉区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:伊達氏
  • 文化財指定:国指定史跡(平成15年8月27日)
  • 訪問日:平成22年8月1日

伊達政宗以前、仙台は千代と呼ばれ、広瀬川西岸の青葉山には島津氏や結城氏が城を築いていた時期もありました。慶長6年(1601)、政宗が拠点を岩出山城から青葉山に移し新たな城を築城したのが仙台城の始まりです。当初城は青葉山の本丸と西の丸のみでしたが、2代藩主忠宗は山麓部に二の丸を造営。三の丸もこれと前後して造営され、寛永年間以降は二の丸が政務の中心となっていきました。

仙台城は幾度となく火災や地震に見舞われましたが、そのたびに復興しています。幕末には奥羽越列藩同盟の盟主として戊辰戦争を経ますが、仙台が戦火に見舞われることはなく、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けることなくその役目を終えています。

明治4年(1871)になると、本丸に東北鎮台(のちの仙台鎮台)が置かれ、本丸の石垣や木が兵舎建設に流用されました。第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)には空襲により大手門、脇櫓などが失われています。戦後、第二師団跡地に米軍が進駐。その後変換され、二の丸に東北大学川内キャンパス、三の丸に仙台市博物館が入っています。

本丸。
伊達政宗の騎馬像が建てられています。

本丸伊達政宗騎馬像付近から見た仙台の街並み。

西の丸には宮城縣護國神社が建てられています。

本丸南側に設けられた埋門。
仙台城に車で訪れた場合、ここから本丸へ入ることになります。

本丸北側に設けられた詰門。
詰門の両側には西脇櫓と東脇櫓が建っていました。

本丸の北東から見上げる本丸石垣。
この上には一時、艮櫓が建てられていました。

沢門。
中曲輪と沢曲輪を隔てていました。

沢門の下に設けられた清水門。
三の丸と沢曲輪を隔てていました。
清水門の名は、すぐ脇に仙台藩の御用酒造りに利用された清水があることにちなんでいます。

現在は仙台市博物館の敷地となっている三の丸。
手前に巽門の礎石が残されています。

三の丸の北に設けられた子の門。

三の丸を取り巻く堀。
写真は三の丸東の長沼を南から見たところ。

長沼を北から見たところ。

大手門を三の丸子の門付近から見たところ。
大手門は昭和20年(1945)の空襲で脇櫓とともに焼失してしまっています。

三の丸子の門付近から二の丸方面を見たところ。
二の丸は現在東北大学川内キャンパスになっています。

昭和42年(1967)に外観復元された大手門脇櫓。

中門。
大手門から本丸へ至る道の途中に設けられた二階門で、寅の門とも呼ばれました。

広瀬川が大きく蛇行する地点の西に位置する青葉山とその山麓に築かれた青葉城の名で知られる城です。往時の建物はまったくのこっていませんが、壮大な石垣を目にすることができます。

  • 読み:しんしろじょう
  • 別名:-
  • 所在地:愛知県新城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:奥平氏、池田氏、菅沼氏
  • 文化財指定:新城市指定史跡(昭和33年4月1日)
  • 訪問日:平成22年9月25日

新城城は、豊川北岸の崖上に築かれた城で、長篠の戦で戦功のあった奥平信昌によって天正4年(1576)に築いたのが始まりです。それ以前の奥平氏の居城であった長篠城に対しての新城でしたが、すでに菅沼氏によって「新城(しんじょう)」と呼ばれる城が築かれ、区別するために「しんしろ」と呼ぶようになったともいわれています。

天正18年(1590)、奥平氏が仕えていた徳川家康が関東へ移封となると、奥平信昌もそれにあわせ上野国宮崎(現群馬県富岡市)へ移り、代わって池田輝政が新城に入ります。関ヶ原の合戦後、池田氏は姫路へと移り、新城辺は天領となり、新城城もいったん廃城となります。

慶安元年(1645)、旗本の菅沼定実が7000石で新城に入り、新城城の跡に陣屋を構え、明治2年の廃藩置県まで在城しました。

豊川にかかる笠岩橋からの新城城遠景(写真中央やや右の緑色が薄い辺り)。
豊川の断崖に守られていることがわかります。

新城小学校の敷地内に残された本丸土塁。
土塁の上には新城城址の碑が建っています。

本丸土塁の上から本丸跡を見たところ。
本丸は現在、新城小学校の敷地になっています。

本丸の東に設けられた堀。
右が本丸、左が二の丸。
堀は豊川の断崖へと続いています。

城の南を流れる豊川。
新城城周辺の西船入、東船入という地名から、豊川が水運として利用された可能性が考えられます。

豊川北岸の断崖上に築かれた城です。新城市の「しんしろ」の由来にもなっている城です。現在は市街化が進み、本丸は新城小学校の敷地、二の丸は宅地になっています。