多賀城

  • 読み:たがじょう、たがのき
  • 別名:-
  • 所在地:宮城県多賀城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:陸奥守
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和41年4月11日)
  • 訪問日:平成22年8月1日

多賀城は、神亀元年(724)、陸奥国府および鎮守府として築かれた城です。当時、蝦夷と大和の境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に按察使大野東人によって築かれました。

天平宝字6年(762)に藤原朝狩によって修繕(第2期)。宝亀11年(780)に伊治呰麻呂の乱で焼失したものの再建されています(第3期)。延暦21年(802)に坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行うと、鎮守府は胆沢城へ移され、多賀城は兵站的機能に移っていきます。貞観11年(869)には陸奥国で大地震が起こり多賀城も被害を受けます。多賀城はその後復興しますが(第4期)、10世紀半ばになると維持管理されなくなり、次第に荒廃していきました。

その後も多賀城は、前九年の役や後三年の役では軍事拠点として利用されました。南北朝時代には後醍醐天皇によって陸奥守に任じられた北畠顕家が、義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城に赴き、陸奥将軍府を設置。南朝方の奥州における拠点として機能しますが、延元3年(1338)に顕家が没すると急速に衰退し、北朝方によって多賀城は陥落し、将軍府は伊達郡の霊山へ移転しています。

外郭南門跡。
南辺のほぼ中央に位置する八脚門で、東門、西門に比べ立派に造られていたと考えられています。

外郭南門付近から外郭南東端方面を見たところ。

外郭南東端。

外郭南東端から外郭南門方面を見たところ。
外郭には築地塀と木柵が設置されていました。

外郭南門付近に建つ多賀城碑。
前半は多賀城の位置を、後半は多賀城築城と修築、碑の建てられた年月日が記されています。
群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑とともに日本三古碑の一つになっています。

外郭南門から政庁へと延びる約350メートルの直線道路。
一部が復元されています。

政庁南門跡。
礎石が展示されています。

政庁。
一辺約1キロメートルの多賀城のほぼ中央に位置し、陸奥国府の重要な政務や儀式を執り行ったところです。
政庁は1辺約100メートルの築地塀によって囲まれていました。
写真奥に小さく政庁正殿跡が見えます。

政庁東辺の中央に築かれた東殿跡。

政庁西辺の中央に築かれた西殿跡。

政庁北辺。
ここには北殿が設けられていた時代もありました(第2期)。

政庁の中央に設けられた政庁正殿跡。
政庁の中心的建物で、現在は基壇部分のみが復元されています。

政庁に展示されている政庁復元模型。
第2期の政庁はこんな感じであったと推定されています。

政庁の北に設けられた六月坂地区の役所跡。

六月坂地区の役所跡のそばに建つ多賀神社。

外郭北東端。

奈良時代の外郭東門跡。
第2期の門が60cmの高さまで推定復元されています。

平安時代の外郭東門跡。
奈良時代のものより80メートルほど西に移動しています。
築地塀の位置が土塁で復元されています。

平安時代の石敷道路。
外郭東門から外郭西門へ至る幅16メートルほどの道路でした。

外郭東門付近の役所群北門跡。

多賀城市の北、塩釜丘陵上に築かれた1辺約1kmにおよぶ広大な政庁です。奈良時代から平安時代、「遠の朝廷」とも呼ばれ、東北地方の中心地として栄えました。