長篠城

  • 読み:ながしのじょう
  • 別名:末広城、扇城
  • 所在地:愛知県新城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:菅沼氏、徳川氏、奥平氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和4年12月17日)
  • 訪問日:平成22年9月25日、26日

長篠城は、宇連川と寒狭川(豊川)の合流点に向かって突き出した扇状の台地に築かれた城で、永正5年(1508)に菅沼元成が築いたとされています。長篠菅沼氏は今川氏に従属していましたが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、松平元康(のちの徳川家康)に従属するようになります。

元亀2年(1571)、武田氏の三河侵攻による天野景貫らの攻撃に耐えるものの、菅沼総領家である田峯菅沼氏の勧めにより降伏。長篠菅沼氏は武田氏に従属します。元亀4年(1573)に武田氏が撤退すると、その隙に徳川家康が長篠城を攻め、天正元年(1573)8月、城主正貞は徳川氏への内通を疑われ、信濃の小諸城へ身柄を送られ幽閉されることとなります。長篠城を奪回した家康は武田氏の再侵攻に備えて城を拡張。現在見られる遺構はこの頃のものと考えられています。またこの頃、のちに長篠城主となる奥平氏が武田氏から離反し、徳川氏に仕えています。

天正3年(1575)5月、奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は1万5000の兵を率い、奥平貞昌が500の兵で守る長篠城を攻囲。長篠の戦いが始まります。貞昌は徳川家康、織田信長に援軍を要請。5月21日、武田軍と織田・徳川連合軍は設楽原で激突。多数の戦死者を出した戦いは連合軍の勝利に終わり、武田勝頼は敗走します。翌天正4年(1576)、奥平信昌(織田信長より「信」の字を与えられ改名した貞昌)は前年の戦いで荒廃した長篠城を放棄。新城城を築き、長篠城は廃城となりました。

本丸。
奥に大規模な土塁残っています。

本丸の北東に残る大規模な土塁。
土塁上にはかつて城藪稲荷が祀られていました。

本丸の南西側、寒狭川(現在の豊川)を挟んだ向こうに、命を賭けて援軍の来ることを奥平氏に伝えた足軽・鳥居強右衛門磔の地が見えます。

本丸の南東側、宇連川を挟んだ向こうには、武田氏の5つの砦(舟着山、久間山、中山、鳶が巣山、姥が懐、君が伏床)が見えます。

本丸の北西に設けられた堀切。
横矢がかけられています。

本丸の北西には矢沢が流れており、天然の堀となっています。

本丸の北に設けられた二の丸(帯曲輪)。
現在は長篠城址史跡保存館が建っています。

二の丸と弾正郭を隔てて流れる矢沢。

本丸の北西、矢沢を隔てて設けられた弾正郭。
石垣が見られますが、後世のものです。

二の丸の北に設けられた巴城郭。
巴城郭より南は改変が激しく、遺構はほとんど見られません。

現在、長篠城内をJR飯田線が横切っています。
写真は二の丸の南端に位置する古城跡踏切から北側を見たところ。
奥に見える山は武田勢が陣を築いた大通寺山です。

飯田線の線路の右側が本丸、左側が野牛郭です。

本丸のすぐ南に設けられた物見櫓の跡。

本丸の南、城の南端に設けられた野牛郭。

設楽原古戦場

天正3年(1575)5月、武田勝頼は1万5000の兵を率い長篠城を攻囲。対する奥平貞昌はわずか500の兵とともにこれを守り、足軽・鳥居強右衛門の働きもあり、織田・徳川の援軍が到着するまで持ちこたえます。織田・徳川連合軍3万8000は、長篠城西方の設楽原に進撃。連吾川に沿って陣を敷き、武田軍の進撃に備えました。

武田軍は長篠城に3000の兵を残し、残り1万2000の兵で設楽原へ進軍し、5月21日、両軍は激突。武田軍は連合軍の放った多数の火縄銃の前に敗れ、兵1万の損害を出しています。かといって、連合軍の圧勝に終わったわけでもなく、武田軍も馬場信房、真田信綱らが馬防柵を突破し、連合軍に兵6000の損害を与えています。

この戦いによって、武田氏は馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次、真田信綱ら有力武将を失い。その勢力は衰退。一方の織田氏・徳川氏はその勢力を絶対的なものとしていきます。

連吾川西岸に復元された馬防柵。
写真左側が徳川軍、右側が織田軍の様式で復元されています。

徳川軍の場防柵の出入口。

織田軍の馬防柵の出入口。
しかしこの復元が正しいのかはわかりません。

堀と土塁つきの馬防柵(復元)。
これも実際のところどうだったのかはわかりません。

合戦の死者を葬ったといわれる信玄塚。
こちらはその大塚。

大塚のすぐ近くにある小塚。

宇連川と寒狭川(豊川)の合流点に向かって突き出した扇状の台地に築かれた城です。織田氏・徳川氏の隆盛と武田氏の衰退を決定付けた長篠の戦いの舞台であり、日本百名城にも選ばれています。