2011年3月アーカイブ

  • 読み:かめやまじょう
  • 別名:作手城
  • 所在地:愛知県新城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:奥平氏・奥平松平氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年9月26日

石橋城は、巴山南東麓の盆地内の小高い丘に築かれた城で、応永31年(1424)8月に奥平貞俊がそれまでの居城であった川尻城に替わる居城として築いたのが始まりです。天正元年(1573)8月には、古宮城まで勢力を伸ばした武田氏の攻撃を受けていますが、石堂ヶ根、田原坂等に転戦しこれを撃退。この戦功が織田信長に認められ、奥平貞昌(長篠の合戦後に信昌と改名)は長篠城主に命じられています。

慶長7年(1602)、信昌の第四子・松平忠明が作手藩1万7千石の藩主として入城しますが、8年後の元和3年(1617)に伊勢亀山城へ移っています。その後は三河代官の小川氏綱が数年間居城しますが、それ以降は廃城となっています。

国道301号から見た石橋城。
比高20メートルほどの台地に造られています。

南側の仙房地区から登っていったところ。
写真奥の虎口の先が主郭、写真左の先が西曲輪です。

主郭南西の虎口から見た西曲輪。
丸馬出しのようになっています。

主郭南西の虎口から見た主郭。
40メートル×30メートルほどの広さで、高さ2メートルほどの土塁に囲まれています。

主郭を取り囲む土塁。

二郭から見た主郭北東の虎口。

主郭の北東に築かれた二郭を主郭北東の虎口から見たところ。
写真手前から左に向かって傾斜がついていますが、その先は虎口になっています。

二郭北の虎口を外側から見たところ。

二郭南の虎口を外側から見たところ。

大手口を南から見たところ。
写真奥の平は主郭です。

大手口の東に設けられた東曲輪。
周囲を土塁が取り囲んでいます。

大手口の南に設けられた武家屋敷の跡。

武家屋敷の東には大規模な堀切が設けられています。

奥平氏が居城としていた城です。道の駅つくで手作りむらの東方の丘の上に築かれています。

  • 読み:ふるみやじょう
  • 別名:-
  • 所在地:愛知県新城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:-
  • 文化財指定:新城市指定史跡()
  • 訪問日:平成22年9月26日

古宮城は、作手盆地中央部の小高い山の上に築かれた城です。武田氏の東三河進出に伴い、元亀2年(1571)に亀山城の奥平氏監視と三河進出の拠点とするために、馬場信房の縄張りによって築かれたと伝えられています。古宮城には小幡又兵衛、甘利左右衛門、大熊備前守らが在城したといわれています。築城から2年後の天正元年(1573)に奥平・徳川連合軍に攻められ陥落、以後廃城となったと伝えられています。

南麓に鎮座する白鳥神社。
その境内も曲輪であったと考えられます。

白鳥神社の西側に設けられた大竪堀。
古宮城を東西に分断しています。

白鳥神社から登っていくと、東二郭手前に枡形が現れます。
奥の鞍部の先が東二郭です。

東二郭。

東二郭と東主郭を隔てる土塁。
右が東二郭、左が東主郭です。

東主郭。

東主郭の西に設けられた北へ伸びる大竪堀。
神社横の竪堀とともに古宮城を分断しています。

西二郭。

西主郭。
周囲を土塁が取り囲んでいます。

西主郭を取り囲む堀。

そのさらに北面下に設けられた堀。

さらに下に設けられた堀。
この写真では、3本の堀が設けられている様子がわかります。

さらに下に設けられた堀。
この堀は上の3本よりも幅が広くなっています。

東二郭の東に設けられた東腰曲輪。

東腰曲輪の下に設けられた堀。

城域の最も東に設けられた堀。

作手盆地の中央の小高い山の上に築かれた城です。武田氏が三河進出のために技巧を凝らして築き上げた城ですが、わずか2年後に陥落しています。

  • 読み:かわじりじょう
  • 別名:-
  • 所在地:愛知県新城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:奥平氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年9月26日

川尻城は、作手盆地北側の山上に築かれた城で、応永年間(1394~1428)に奥平貞俊によって築かれたとされています。しかし、すぐに手狭になったため、応永31年(1424)に盆地南側に亀山城を築いて居城を移しています。

作手高校付近から見た川尻城。
比高40メートルほどの台地の先端を利用して造られています。

主郭の東側に模擬冠木門が設置されています。

主郭。
長軸40メートルほどの曲輪です。
北側が一段高くなっています。

主郭の南に土塁が残されています。

主郭の東に設けられた堀切。

堀切の東には長さ20メートルほどの細長い曲輪が設けられています。

作手高校付近の台地上に築かれた城です。奥平貞俊が築城しましたが、手狭なためすぐに亀山城を築いて居城を移しています。

  • 読み:もんじゅやまじょう
  • 別名:一夜城
  • 所在地:愛知県新城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:奥平氏、武田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年9月26日

文殊山城は、作手盆地西側の山上に築かれた城で、元亀年間(1570~1572)に奥平氏が武田氏との和睦の証として賽之神城とともに築いた城です。この時、奥平氏は築城を延引したために武田氏の強談に遭い、一夜にして城を築いたと伝えられるため一夜城とも呼ばれています。

南西の駐車場から主郭を見上げたところ。
主郭内部に模擬櫓が建てられているのが見えます。

主郭を取り巻く腰曲輪。
写真のように一部堀状になっているところもあります。

主郭東の虎口を外から見たところ。
写真手前へ20分ほど歩くと賽之神城へと至ります。

主郭。
文殊堂が建てられています。

作手盆地西側の山の上に築かれた城です。単郭の単純なつくりの城で、別名の一夜城の名のとおり一夜で築けてしまえそうなほどです。

  • 読み:さいのかみじょう
  • 別名:本城、砦城
  • 所在地:愛知県新城市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:米福長者、奥平氏、武田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成22年9月26日

賽之神城は、作手盆地西側の山上に築かれた城です。来歴は不明で、元亀年間(1570~1572)に奥平氏が武田氏との和睦の証として文殊山城とともに築いたとも、奥平氏以前の米福長者時代に築かれたともいわれています。

北西の文殊山城から続く尾根道を歩くと現れる堀切。
奥が賽之神城です。

堀切を渡ったところに設けられた削平地。
主郭、二郭からは少し離れており、出丸的役割をもっていたと考えられます。

出丸から東へ30メートルほどのところに設けられた二郭。
写真奥の土手の上が主郭になっています。

主郭の虎口を二郭側から見たところ。

主郭。
周囲を土塁が取り囲んでいます。

主郭の東の一段低いところに設けられた曲輪。

作手盆地西側の山の上に築かれた城です。来歴ははっきりしていませんが、城の東西の構造の違いから、二時期にわたる構築が指摘されています。

  • 読み:だみねじょう
  • 別名:蛇頭城、竜の城
  • 所在地:愛知県北設楽郡設楽町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:菅沼氏
  • 文化財指定:設楽町指定史跡(昭和43年2月1日)
  • 訪問日:平成22年9月26日

田峯城は、豊川と当貝津川に挟まれた台地上に築かれた城です。文明2年(1470)に菅沼定信によって築かれ、以後田峯菅沼氏の居城となりました。

15世紀後半の奥三河は、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、尾張・三河の織田・徳川連合軍といった勢力に囲まれ、田峯菅沼氏、作手奥平氏、長篠菅沼氏は「山家三方衆」として結束していましたが、周囲の勢力についたり離れたりしているうちに不和が生じていきます。5代目城主の定忠は武田氏に従い、天正3年(1575)、長篠の合戦に出陣しますが武田勢は大敗。武田勝頼と共に田峯城に入ろうとしますが、留守を任せた叔父・定直と家老今泉道善の謀反に遭い入城できず、信州へ逃げ延びています。

翌天正4年(1576)7月、定忠は兵を率いて田峯城を急襲。菅沼定直と今泉道善を討ち果たし信濃へ引き上げます。天正10年(1582)、武田氏滅亡後、定忠は伊那郡知久平にて徳川氏配下の牧野康成の軍勢と戦い戦死。田峯菅沼氏の所領は定直の子・定利が引き継ぎます。定利は徳川氏に属し、天正18年(1590)に徳川氏が関東へ移封となると、菅沼氏もそれに従って吉井2万石に入部。それに伴い田峯城は廃城になったと考えられています。

東の堀にかかる橋。
奥には大手が見えています。
往時の橋はこれほど立派なものではなかったと思われます。

東の堀。
左の柵のある曲輪が大手です。
堀の右側は現在駐車場になっていますが、ここも何らかの曲輪だったのではないかと思われます。

大手。
奥の一段高くなったところの茶畑は、表曲輪です。
道の奥は井戸曲輪へつながっています。

大手の北東に設けられた表曲輪。
現在茶畑になっています。

表曲輪の北に設けられた裏曲輪。
北に細長く伸びています。

大手の南東に設けられた無名曲輪。
文献に名前が登場しない曲輪なのでこう呼ばれています。

大手の東、一段高くなったところに設けられた井戸曲輪。
井戸の跡はなく、雨水を貯める施設が置かれたのではないかと考えられています。

井戸曲輪の南東に設けられた蔵屋敷の曲輪。
食物や武具が保管されていたと考えられています。

井戸屋敷の南、蔵屋敷の東の一段高くなったところに設けられた畦曲輪。
狭い曲輪であることから畦の名がつけられています。

蔵屋敷の東に設けられた道寿曲輪。高さは畦曲輪と同じです。
現在は墓地になっています。

畦曲輪から東に設けられた主郭を見上げたところ。
郭内に書院が建てられていますが模擬であり、往時の主殿はこれほど立派なものではありませんでした。

主郭の西の虎口を内側から見たところ。
主郭の見学は有料となっており、見学時間外に郭内に立ち入れないよう門が設けられています。

主郭。
模擬主殿のほか模擬の厩が建てられています。

主郭の東の虎口に建てられた模擬門。
こちら側が大手であったとも伝えられています。

主郭東の虎口の復元された枡形。

主郭内に設けられた模擬櫓。

模擬櫓上から豊川を見下ろしたところ。

模擬櫓上から模擬主殿の屋根越しに西の集落を見たところ。

豊川と当貝津川に挟まれた台地上に築かれた城です。西側斜面に曲輪が段々畑のように連なっています。現在は曲輪がきれいに整備され、全体の構造がつかみやすい城址公園となっています。