田峯城

  • 読み:だみねじょう
  • 別名:蛇頭城、竜の城
  • 所在地:愛知県北設楽郡設楽町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:菅沼氏
  • 文化財指定:設楽町指定史跡(昭和43年2月1日)
  • 訪問日:平成22年9月26日

田峯城は、豊川と当貝津川に挟まれた台地上に築かれた城です。文明2年(1470)に菅沼定信によって築かれ、以後田峯菅沼氏の居城となりました。

15世紀後半の奥三河は、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、尾張・三河の織田・徳川連合軍といった勢力に囲まれ、田峯菅沼氏、作手奥平氏、長篠菅沼氏は「山家三方衆」として結束していましたが、周囲の勢力についたり離れたりしているうちに不和が生じていきます。5代目城主の定忠は武田氏に従い、天正3年(1575)、長篠の合戦に出陣しますが武田勢は大敗。武田勝頼と共に田峯城に入ろうとしますが、留守を任せた叔父・定直と家老今泉道善の謀反に遭い入城できず、信州へ逃げ延びています。

翌天正4年(1576)7月、定忠は兵を率いて田峯城を急襲。菅沼定直と今泉道善を討ち果たし信濃へ引き上げます。天正10年(1582)、武田氏滅亡後、定忠は伊那郡知久平にて徳川氏配下の牧野康成の軍勢と戦い戦死。田峯菅沼氏の所領は定直の子・定利が引き継ぎます。定利は徳川氏に属し、天正18年(1590)に徳川氏が関東へ移封となると、菅沼氏もそれに従って吉井2万石に入部。それに伴い田峯城は廃城になったと考えられています。

東の堀にかかる橋。
奥には大手が見えています。
往時の橋はこれほど立派なものではなかったと思われます。

東の堀。
左の柵のある曲輪が大手です。
堀の右側は現在駐車場になっていますが、ここも何らかの曲輪だったのではないかと思われます。

大手。
奥の一段高くなったところの茶畑は、表曲輪です。
道の奥は井戸曲輪へつながっています。

大手の北東に設けられた表曲輪。
現在茶畑になっています。

表曲輪の北に設けられた裏曲輪。
北に細長く伸びています。

大手の南東に設けられた無名曲輪。
文献に名前が登場しない曲輪なのでこう呼ばれています。

大手の東、一段高くなったところに設けられた井戸曲輪。
井戸の跡はなく、雨水を貯める施設が置かれたのではないかと考えられています。

井戸曲輪の南東に設けられた蔵屋敷の曲輪。
食物や武具が保管されていたと考えられています。

井戸屋敷の南、蔵屋敷の東の一段高くなったところに設けられた畦曲輪。
狭い曲輪であることから畦の名がつけられています。

蔵屋敷の東に設けられた道寿曲輪。高さは畦曲輪と同じです。
現在は墓地になっています。

畦曲輪から東に設けられた主郭を見上げたところ。
郭内に書院が建てられていますが模擬であり、往時の主殿はこれほど立派なものではありませんでした。

主郭の西の虎口を内側から見たところ。
主郭の見学は有料となっており、見学時間外に郭内に立ち入れないよう門が設けられています。

主郭。
模擬主殿のほか模擬の厩が建てられています。

主郭の東の虎口に建てられた模擬門。
こちら側が大手であったとも伝えられています。

主郭東の虎口の復元された枡形。

主郭内に設けられた模擬櫓。

模擬櫓上から豊川を見下ろしたところ。

模擬櫓上から模擬主殿の屋根越しに西の集落を見たところ。

豊川と当貝津川に挟まれた台地上に築かれた城です。西側斜面に曲輪が段々畑のように連なっています。現在は曲輪がきれいに整備され、全体の構造がつかみやすい城址公園となっています。