2011年4月アーカイブ

  • 読み:くわなじょう
  • 別名:扇城、旭城
  • 所在地:三重県桑名市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:本多氏、松平氏
  • 文化財指定:三重県指定史跡(昭和17年1月17日)
  • 訪問日:平成22年10月9日

桑名城は、揖斐川河口西岸に築かれた水城です。関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)に徳川家康によって桑名に10万石で封じられた本多忠勝が築いたのが始まりです。本丸には4層6階の天守が聳え、城内には船着場が整備され、桑名の城下町も同時に整備されました。

元和3年(1617)、忠勝の息子・忠政は姫路へ転封となり、代わって松平(久松)定勝が桑名へ入ります。元禄14年(1701)には桑名の城下町に大火が発生。この際に天守も焼失しています。宝永7年(1710)、松平定重は越後高田藩に転封となり、代わって松平(奥平)忠雅が入部。文政6年(1823)には、越後高田から久松松平氏が再入部し、以後幕末まで続きます。

幕末には京都守護職松平容保の実弟・松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と共に京都の治安維持に務めます。慶応4年(1868)の戊辰戦争では、定敬は鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に江戸へ逃げ延び、桑名城は藩主不在となります。城内は恭順か抗戦かの激論となりますが、最終的に新政府軍に恭順し、桑名城は無血開城。目新政府軍によって桑名城は焼き払われ、その後廃城となっています。

外堀。
左の岸に築城当時の石垣が残されています。

船入橋から見た二の丸堀。
左の岸が二の丸です。

船入橋から見た三の丸堀。

船入橋付近から見た三の丸。
現在は九華公園の駐車場とコミュニティパークになっています。

船入橋の袂に立つ本多忠勝像。

扇橋。
写真奥が二の丸です。

扇橋から見た二の丸堀。

扇橋付近から見た本丸の堀。

九華橋から本丸を見たところ。

九華橋から本丸と二の丸の間の堀を見たところ。

本丸に設けられた精忠苦節碑。
幕末の桑名藩士で新選組隊士の森常吉を称えるものです。

本丸の南西端に設けられた神戸櫓の跡。
神戸城から移築された三重櫓が建っていました。

本丸の南東端に設けられた辰巳櫓の跡。

辰巳櫓跡に置かれた大砲。
この大砲の由来は不明です。
大砲の奥には、朝日丸跡である九華公園グラウンドが見えています。

辰巳櫓付近から見た二の丸堀。

本丸に鎮座する鎮国守国神社。
文政6年(1823)に久松松平氏が再入部した際に勧進したもので、初代藩主松平定綱(鎮国公)と松平定信(守国公)を祀っています。

本丸に設けられた天守台の跡。
往時はここに4層6階の天守がそびえていました。

桑名城のすぐ東を流れる揖斐川。その奥には長良川が見えています。

三の丸の船入門付近に外観復元された蟠龍櫓。
1階は国土交通省の水門管理所、2階は展望台兼資料室になっています。

徳川四天王の一人・本多忠勝が揖斐川河口西岸に築いた水城です。天守をはじめ51基の櫓が建つ壮大な城でした。現在は九華公園となっています。

  • 読み:たかとおじょう
  • 別名:兜山城、甲山城
  • 所在地:長野県伊那市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:高遠氏、武田氏、秋山氏、仁科氏、毛利氏、木曽氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和48年5月26日)
  • 訪問日:平成22年11月27日

高遠城は、三峰川と藤沢川の合流点に築かれた平山城です。元は諏訪氏一門の高遠氏の居城が置かれていました。高遠頼継は諏訪頼重と反目し、天文10年(1541)に甲斐の武田信玄に内応して信玄の諏訪攻略を援護。頼重は信玄により滅ぼされますが、その後頼継と信玄は諏訪の領有を巡って対立。天文14年(1545)4月、武田氏に攻められた頼継は降伏し、甲府へ出仕します。その後、高遠は武田氏の伊那地方進出の拠点となり、天文16年(1547)山本勘助の縄張りで現在の高遠城が築かれ、秋山信友が入城しました。

永禄5年(1562)になると、諏訪氏を継承した武田勝頼が高遠城に入城。その際、城に改修が加えられてと伝えられています。元亀元年(1570)に義信廃嫡事件が起こると、勝頼は甲府に呼び戻され、高遠城主は信玄の弟・信廉が務めます。天正9年(1581)、韮崎への府中移転と同時に勝頼の異母弟・仁科盛信が高遠城に入り城主となります。翌天正10年2月、織田信長は武田征伐を開始。高遠城は織田信忠の5万の軍勢に攻められ陥落し、仁科盛信も討ち死に。高遠城には攻略に功のあった毛利長秀が入ります。

高遠城を落としたことで織田氏は伊那地方から甲斐へ進軍することができるようになり、同年武田氏を滅亡させます。しかし同年6月、本能寺の変によって織田信長が急死すると、武田氏の旧臣・木曽氏が高遠城に攻め込みこれを占拠。木曽氏は高遠城を拠点に徳川家康に対抗しますが、やがて敗れ、深志城へ逃れています。家康は保科氏を高遠城に入れますが、天正18年に(1590)に北条氏が滅亡すると家康は関東へ移封となり、保科氏も下総へ移っています。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、高遠には再び保科氏が入ります。その後は鳥居氏、内藤氏が高遠藩主を務め、明治維新を迎え、高遠城は廃城となっています。

城の西側に位置する大手坂の入り口。
往時の石垣がよく残されています。

大手門付近から見た高遠の町並み。

大手門。
築城当初はこちらが搦手でしたが、江戸時代になるとこちらが大手になっています。

三の丸に残る大手門と伝えられる門。
廃城後に民間に払い下げられていたものを、昭和29年(1954)に高遠高等学校の正門として移築したものです。
払い下げられた後に切り詰められ、往時の姿ではなくなっています。

三の丸。
北から東にかけて伸びる広大な曲輪です。

三の丸に残る藩学校・進徳館。

現在は駐車場になっている武家屋敷の跡。
往時は写真中央に堀があり、奥に勘助曲輪がありました。

武家屋敷の南に設けられた勘助曲輪。
上の写真の反対方向から撮影しています。

勘助曲輪に残る土塁。

本丸の西に設けられた笹曲輪。

本丸。

本丸南西端の太鼓櫓。
往時は搦手付近に設置され時を告げていましたが、廃城後は対岸の白山に太鼓櫓が新設されましたが、明治10年(1877)に現在の場所に移されました。

本丸北西端に鎮座する新城神社・藤原神社。
新城神(仁科盛信)と内藤氏の祖である藤原鎌足を祀っています。

本丸と二の丸の間の堀。
堀にかかる桜雲橋と本丸の虎口・問屋門は高遠城址公園のシンボルになっています。

本丸の東に設けられた二の丸。
堀にかかる桜雲橋と本丸の虎口・問屋門は高遠城址公園のシンボルになっています。

二の丸を取り囲む土塁。

二の丸と三の丸の間の堀。
この堀は二の丸の北を経て、往時は勘助曲輪と武家屋敷の間まで続いていました。

二の丸に建つ高遠閣。
昭和11年(1933)に地域住民の集会の場と観光客の利便のために建てられたもので、国の登録有形文化財になっています。

本丸の南に設けられた南曲輪。

南曲輪と法幢院曲輪を結ぶ白兎橋。

南曲輪の南に設けられた法幢院曲輪。
かつてここには法幢院という寺院があり、高遠城落城の際には法要も営まれました。

法幢院曲輪の南の堀。

三の丸にわずかに残る犬走りの跡。

搦手門。
築城当初はこちらが大手でしたが、江戸時代になるとこちらが搦手になっています。

搦手門から三の丸外側の堀を見たところ。
この堀は二の丸の南を経て、南曲輪と法幢院曲輪の間まで続いています。

三峰川と藤沢川の合流点に築かれた平山城です。交通の要衝であり、戦国時代には何度も城主が入れ替わっています。現在は高遠城址公園となり、桜の名所として知られています。

  • 読み:あおやぎじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県東筑摩郡筑北村(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:青柳氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和49年3月22日)
  • 訪問日:平成22年12月18日

青柳城は四阿屋山の北西尾根の先端に築かれた山城です。築城時期はわかっていませんが、麻績氏の一族である青柳氏によって築かれたとされています。

青柳氏は信濃守護の小笠原氏に従属していましたが、天文19年(1550)に小笠原長時が武田信玄に敗れると、青柳清長は武田氏に従属します。天文22年(1553)の第一次川中島合戦では、武田信玄が一時この城に滞在しています。この合戦では、更級郡から筑摩郡へ進出した長尾景虎の軍勢によって青柳城に火が放たれています。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、青柳氏は旧領へ戻った小笠原氏に従属。しかし天正15年(1587)に青柳頼長は深志城にて殺され、青柳氏は滅亡します。

その後、青柳城は小笠原氏のものとなり、城番に松林氏が置かれましたが、慶長年間(1596~1615)に廃城となっています。

搦手に建てられた模擬櫓門。
往時にはこれほど立派な門は建っていなかったと考えられます。

搦手から尾根の先端方向へ向かっていくと、堀切がいくつも現れます。
写真は二重堀切。

五郭。
奥が主郭方向です。

五郭の搦手側に設けられた土塁。

五郭の土塁にはわずかに石積が見られます。

四郭。

四郭先端から、三郭、二郭、主郭を見たところ。
三郭中央に模擬冠木門が建っていますが、本来は曲輪を分断するような位置には建っていません。

三郭から麓の清長寺へと続く大手の道。

二郭。
奥の土手の上が主郭です。

主郭の北側にだけ設けられた布目積みの石積。
このあたりの遺構は小笠原貞慶時代に城が拡張された際のものです。

主郭の虎口。

主郭。
写真奥の高台には見張り台が置かれていたと考えられています。

主郭からの眺め。

四阿屋山の北西尾根の先端に築かれた山城です。実戦の行われた数少ない山城の一つであり、武田氏、小笠原氏の改修により、各時代の特色が残っています。

  • 読み:たぐちじょう
  • 別名:田ノ口城
  • 所在地:長野県佐久市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:田口氏、依田氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成23年4月17日

田口城は、龍岡城の北にそびえる城山の尾根上に築かれた山城です。築城年代は不明ですが、戦国期にこの地の豪族である田口氏によって築かれたとされています。

天文年間(1532~1555)に武田氏の佐久進攻により落城しますが、天文17年(1548)、武田氏が上田原で敗戦した際の混乱に乗じて田口長能が田口城を奪還しようとしますが失敗し、田口氏は滅亡。田口城は武田氏配下で相木氏の流れを汲む依田氏のものとなります。武田氏が滅亡すると、徳川氏配下の依田信蕃の攻撃を受け落城。その後は以上になったものと考えられます。

南麓の蕃松院前から見た田口城。
この写真の100mほど右から、山へ登る歩道が続いています。
蕃松院は依田信蕃の追福のために子・松平康国が建てたものです。

山道を登っていくと墓地の上に円形の石積が現れます。
城の遺構なのか、後世作られたものなのか不明です。

山道の途中には腰曲輪のような段と石積が見られますが、これも城の遺構なのか、後世の耕作によるものなのか不明です。

主郭。
南西の端には祠が祭られています。

主郭の東には石積のようなものがありますが、遺構なのかは不明です。

主郭南面から龍岡城を見下ろしたところ。

主郭の北に設けられた曲輪。
二郭と呼んでいいのかはっきりしません。

主郭の西に設けられた曲輪。
こちらも二郭と呼んでよさそうな曲輪です。

主郭西面に石積のようなものが設けられていますが、これも遺構なのかは不明です。

さらに西の曲輪。

城域の真ん中を林道が貫いていますが、各曲輪は比較的よく残されています。

龍岡城を見下ろす城山の尾根上に築かれた山城です。林道が城内を貫いていますが、曲輪はよく残されています。

  • 読み:ひらかじょう
  • 別名:-
  • 所在地:長野県佐久市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:平賀氏、大井氏、武田氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和46年5月27日)
  • 訪問日:平成23年4月17日

平賀城は、千曲川東岸にそびえる城山に築かれた山城です。その築城年代ははっきりしていませんが、中世初期に平賀義信によって築かれ、以後佐久郡南部に勢力を張った平賀氏の居城となりました。

文安3年(1446)を最後に平賀氏は史料から名前が消え、このときに平賀氏は滅亡したものと考えられています。以後は大井氏の城番が平賀城に在城しますが、大井宗家は文明16年(1484)に滅亡。天文9年(1540)以降、平賀城は武田氏のものとなりますが、その後については不明です。

正安寺墓地の南に設けられた堀切。

さらに南、出丸の切岸の北に設けられた堀切。

出丸。
主要部からは独立した構造で、北からの攻撃からの備えとなっています。

出丸の城塁に見られる石積。

出丸と主要部の接続部分。
写真左に腰曲輪がいくつか続いています。

主要部の北面に設けられた搦手曲輪。
斜面の上が主要部ですが、高低差は10m近くあります。

主郭。
東屋が建っています。

主郭の西に設けられた二郭から主郭方向を見たところ。
礎石や石積が見られますが、形状から神社の跡ではないかと考えられます。

二郭の西に設けられた三郭。
主郭や二郭に比べ起伏があります。

二郭と三郭の境。
主郭と二郭の境にあるような石積は見られません。

三郭の西端から主要部を見たところ。

三郭から西側斜面を降りていくと、このような腰曲輪がいくつも見られます。

西側斜面のあちこちに石積が見られます。

さらに下っていくと南側斜面にも腰曲輪が現れます。
写真の場所では石積が互い違いに置かれ、枡形構造となっています。

上の写真の下の腰曲輪には、石積を伴った畝状の土塁が3本ほど見られます。
用途は不明です。

水の手。
水は豊富であったようで、このすぐ下に現在の水道施設が見られました。

千曲川東岸の正安寺の裏山に築かれた山城です。多くの腰曲輪群が特徴で、平賀氏の勢力の大きさが見て取れる城です。

  • 読み:おおいじょう
  • 別名:岩村田館
  • 所在地:長野県佐久市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:大井氏、依田氏
  • 文化財指定:長野県指定史跡(昭和46年5月27日)
  • 訪問日:平成23年4月29日

大井城は、千曲川の支流・湯川西岸の南北に細長い台地上に築かれた城です。堀切によって3つの区画に分けられ、北からそれぞれ石波城、王城、黒岩城といい、3つの区画をあわせて大井城と呼ばれています。鎌倉時代から室町時代にかけて佐久郡東部に勢力を貼った大井氏宗家の居城として築かれましたが、文明16年(1484)に村上氏の攻撃を受けて岩村田の城下町と共に焼き払われ落城。大井氏宗家も滅亡します。

その後は支族の大井氏が居城としていましたが、天文年間(1532~1555)に武田信玄の攻撃を受けて落城しています。武田氏が滅亡すると、大井城は徳川氏配下の依田信蕃の支配下に置かれますが、やがて廃城となりました。

南の岩村田城から見た大井城。
写真中央の桜の咲いているところが王城です。

湯川東岸から見た大井城。
左のひときわ高い木のあるところが王城、右の平らなところが石波城です。

王城。
特に目立つ遺構はありません。
写真奥の大木は、長野県指定天然記念物の王城のケヤキです。

王城と黒岩城を隔てる県道156号線。
かつてはここに二重堀切があったといいます。

王城から岩村田城(写真奥の森)を見たところ。

王城から県道越しに黒岩城を見たところ。
宅地化・農地化により、遺構はほとんど残っていません。

王城から石波城を見たところ。
こちらも農地化により遺構はほとんど残っていません。

城域の西面はこのように急な斜面になっています。

湯川西岸の南北に細長い台地上に築かれた城です。佐久郡東部に勢力を張った大井氏宗家の居城でした。

  • 読み:いわむらだじょう
  • 別名:上の城
  • 所在地:長野県佐久市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:内藤氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成23年4月29日

岩村田城は、千曲川の支流・湯川西岸に築かれようとした城です。岩村田藩の内藤氏は、現在の本町と新宿の中間あたりに陣屋を置いていましたが、手狭になったため元治元年(1864)に新たな城の築城を開始しました。しかし、まもなく明治維新を迎え、廃藩置県により完成を見ずに廃城となりました。

大井城から見た岩村多城(写真奥の森)。

城域北端となる岩村田公園。
招魂社が祀られています。

招魂社の裏手には土塁のような地形が見られますが、往時のものなのかは不明です。

岩村田小学校前。
小学校は岩村田城の城域の中にすっぽりと入ってしまっています。

招魂社のある高台と、藤城神社の高台の間の道。
堀切のようにも見えます。

藤城神社のある高台。
岩村田城には天守の建造計画もあり、その予定地だったのではないかとも考えられます。

藤城神社境内。

大井城(中央の桜が咲いているところ)を見たところ。

湯川西岸に築かれようとした城です。築城中に廃藩置県を向かえ完成を見ることなく廃城となっています。天守建造の計画もあり、完成していれば最後の天守になっていたかもしれません。現在は招魂社、藤城神社、岩村田小学校の敷地になっています。

  • 読み:いなりやまじょう
  • 別名:勝間城、勝間反砦、桜井山城
  • 所在地:長野県佐久市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:桜井氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成23年4月29日

稲荷山城は、千曲川西岸の稲荷山城に築かれた城です。その築城年代ははっきりしていません。「高白斎記」に記された桜井山であると考えられ、武田氏の佐久出陣の際に宿所としてたびたび利用されています。武田氏滅亡後は徳川氏の城となり、徳川家康が関東へ移封となると廃城となったと考えられています。

北面の臼田橋付近から見た稲荷山城。
こちら側は稲荷神社の入口になっています。
稲荷神社は正暦年間(990~995)にこの地に勧進されています。

稲荷神社境内には石積が見られますが、後世の神社整備によるもののようです。

稲荷神社境内は曲輪のようなものが設けられているようにも見えます。

稲荷神社拝殿。

稲荷山城最高部。主郭であったと思われます。
現在は慰霊碑が建てられています。

慰霊碑の南の水道施設。
ここも何らかの曲輪であったと考えられます。

南面。
空堀と多数の曲輪が設けられた城でしたが、現在では遺構はほとんど失われています。

城域の東を流れる千曲川。
こちら側は断崖絶壁になっています。

千曲川西岸の稲荷山城に築かれた城です。現在は稲荷神社境内と稲荷山公園になっており、以降はほとんど見られません。