高遠城

  • 読み:たかとおじょう
  • 別名:兜山城、甲山城
  • 所在地:長野県伊那市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:高遠氏、武田氏、秋山氏、仁科氏、毛利氏、木曽氏、保科氏、鳥居氏、内藤氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和48年5月26日)
  • 訪問日:平成22年11月27日

高遠城は、三峰川と藤沢川の合流点に築かれた平山城です。元は諏訪氏一門の高遠氏の居城が置かれていました。高遠頼継は諏訪頼重と反目し、天文10年(1541)に甲斐の武田信玄に内応して信玄の諏訪攻略を援護。頼重は信玄により滅ぼされますが、その後頼継と信玄は諏訪の領有を巡って対立。天文14年(1545)4月、武田氏に攻められた頼継は降伏し、甲府へ出仕します。その後、高遠は武田氏の伊那地方進出の拠点となり、天文16年(1547)山本勘助の縄張りで現在の高遠城が築かれ、秋山信友が入城しました。

永禄5年(1562)になると、諏訪氏を継承した武田勝頼が高遠城に入城。その際、城に改修が加えられてと伝えられています。元亀元年(1570)に義信廃嫡事件が起こると、勝頼は甲府に呼び戻され、高遠城主は信玄の弟・信廉が務めます。天正9年(1581)、韮崎への府中移転と同時に勝頼の異母弟・仁科盛信が高遠城に入り城主となります。翌天正10年2月、織田信長は武田征伐を開始。高遠城は織田信忠の5万の軍勢に攻められ陥落し、仁科盛信も討ち死に。高遠城には攻略に功のあった毛利長秀が入ります。

高遠城を落としたことで織田氏は伊那地方から甲斐へ進軍することができるようになり、同年武田氏を滅亡させます。しかし同年6月、本能寺の変によって織田信長が急死すると、武田氏の旧臣・木曽氏が高遠城に攻め込みこれを占拠。木曽氏は高遠城を拠点に徳川家康に対抗しますが、やがて敗れ、深志城へ逃れています。家康は保科氏を高遠城に入れますが、天正18年に(1590)に北条氏が滅亡すると家康は関東へ移封となり、保科氏も下総へ移っています。慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、高遠には再び保科氏が入ります。その後は鳥居氏、内藤氏が高遠藩主を務め、明治維新を迎え、高遠城は廃城となっています。

城の西側に位置する大手坂の入り口。
往時の石垣がよく残されています。

大手門付近から見た高遠の町並み。

大手門。
築城当初はこちらが搦手でしたが、江戸時代になるとこちらが大手になっています。

三の丸に残る大手門と伝えられる門。
廃城後に民間に払い下げられていたものを、昭和29年(1954)に高遠高等学校の正門として移築したものです。
払い下げられた後に切り詰められ、往時の姿ではなくなっています。

三の丸。
北から東にかけて伸びる広大な曲輪です。

三の丸に残る藩学校・進徳館。

現在は駐車場になっている武家屋敷の跡。
往時は写真中央に堀があり、奥に勘助曲輪がありました。

武家屋敷の南に設けられた勘助曲輪。
上の写真の反対方向から撮影しています。

勘助曲輪に残る土塁。

本丸の西に設けられた笹曲輪。

本丸。

本丸南西端の太鼓櫓。
往時は搦手付近に設置され時を告げていましたが、廃城後は対岸の白山に太鼓櫓が新設されましたが、明治10年(1877)に現在の場所に移されました。

本丸北西端に鎮座する新城神社・藤原神社。
新城神(仁科盛信)と内藤氏の祖である藤原鎌足を祀っています。

本丸と二の丸の間の堀。
堀にかかる桜雲橋と本丸の虎口・問屋門は高遠城址公園のシンボルになっています。

本丸の東に設けられた二の丸。
堀にかかる桜雲橋と本丸の虎口・問屋門は高遠城址公園のシンボルになっています。

二の丸を取り囲む土塁。

二の丸と三の丸の間の堀。
この堀は二の丸の北を経て、往時は勘助曲輪と武家屋敷の間まで続いていました。

二の丸に建つ高遠閣。
昭和11年(1933)に地域住民の集会の場と観光客の利便のために建てられたもので、国の登録有形文化財になっています。

本丸の南に設けられた南曲輪。

南曲輪と法幢院曲輪を結ぶ白兎橋。

南曲輪の南に設けられた法幢院曲輪。
かつてここには法幢院という寺院があり、高遠城落城の際には法要も営まれました。

法幢院曲輪の南の堀。

三の丸にわずかに残る犬走りの跡。

搦手門。
築城当初はこちらが大手でしたが、江戸時代になるとこちらが搦手になっています。

搦手門から三の丸外側の堀を見たところ。
この堀は二の丸の南を経て、南曲輪と法幢院曲輪の間まで続いています。

三峰川と藤沢川の合流点に築かれた平山城です。交通の要衝であり、戦国時代には何度も城主が入れ替わっています。現在は高遠城址公園となり、桜の名所として知られています。