2011年5月アーカイブ

  • 読み:えどじょう
  • 別名:千代田城、東京城、江城
  • 所在地:東京都千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:太田氏、扇谷上杉氏、北条氏、徳川氏、天皇家
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和38年5月30日)
  • 訪問日:平成23年5月13日、5月28日、11月5日

江戸城は、江戸湾(現在の東京湾)北岸・隅田川西岸に築かれた平山城です。平安時代末期から鎌倉時代初期には、本丸・二の丸あたりに江戸氏の居館が置かれていたと考えられています。15世紀になると江戸氏は衰退。扇谷上杉氏・上杉持朝配下の大田道灌が、長禄元年(1457)にこの地に城を築いたのが江戸城の始まりとされます。このころの江戸城は、本丸と二の丸程度のもので、日比谷入江で江戸湾とつながっていました。

文明18年(1486)に道灌が上杉定正に暗殺されると、太田氏は山内上杉氏の下へ去り、江戸城は扇谷上杉氏のものとなります。大永4年(1524)には扇谷上杉氏を破った北条氏のものとなり、北条氏の水陸交通路掌握の要となりました。

天正18年(1590)に小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に移封され、江戸城に入城します。開府までに三の丸、北の丸、西の丸、吹上を増築。慶長8年(1603)に幕府を開くと、天下普請により江戸城の拡張が進められ、寛永13年(1636)に周囲16kmにも及ぶ大城郭が完成しました。家康・秀忠・家光のぞれぞれの時代に天守が築かれましたが、家光の時代の天守は明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼失。以後、天守が再建されることはありませんでした。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、3月15日に新政府軍による江戸城総攻撃が予定されますが、前夜に中止され、4月11日に江戸城は無血開城されます。元号が明治となり10月13日、明治天皇が江戸城に入城。東京(とうけい)城と改められ、皇居となり、現在に至っています。

※江戸城は広大であることから、記事を分割しています。

太田道灌が築き、徳川将軍家の居城となり、現在は皇居となっている城です。その範囲は広大で、現在の千代田区全域、中央区・港区の半分、新宿区・文京区の一部におよびます。

江戸城の内堀を桔梗門から反時計回りに見ていきます。周囲約5km。

桔梗門(内桜田門)。

巽櫓(桜田二重櫓)。
いつでも間近で見られる唯一の櫓です。
左奥には桔梗門がみえます。
堀は桔梗濠。

桔梗濠から見た大手門。
現在の渡櫓は空襲で焼失したものを昭和42年(1967)に復元したものです。

大手門付近から見た大手濠。

大手濠のほとり、東京メトロ竹橋駅2番出口付近に立つ和気清麻呂像。
かつて道鏡が皇位をうかがった際にこれを防いだ人物で、昭和15年(1940)に皇紀2600年を記念して建てられました。

平川門。
大奥詰めの女性専用の登城口でした。

竹橋門。
現在は自動車の通れる立派な橋が架かっていますが、往時は名前のとおり竹を編んだ橋が架かっていました。

竹橋門付近から見た平川濠。
右の本丸の石垣に大規模な横矢がかけられています。
左の石垣は平川門まで続く細長い曲輪になっており、大手濠と平川濠を隔てています。

平川濠から見た北桔橋門。
門の前の橋は跳ね橋になっていました。 このあたりは本丸のすぐ裏手にあたり、石垣も高くなっています。

北桔橋門前の歩道橋から、北桔橋門を見たところ。
門の奥にわずかに天守台の石垣が見えています(写真中央の白っぽい石垣)。

首都高代官町ランプ付近から千鳥ヶ淵交差点付近まで続く土塁。

その土塁上から見た千鳥ヶ淵。

北門付近。

半蔵濠。
向こう岸(西の丸)の土塁の上には石垣が築かれています。

半蔵門。
半蔵濠と半蔵門の名は、このあたりに服部半蔵の屋敷があったことに由来しています。

半蔵門付近から見た桜田濠。

桜田門(外桜田門)。
万延元年(1860)に大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺された桜田門外の変はこの門外で起こりました。

二重橋と皇居正門(西の丸大手門)。
手前の濠は二重橋濠です。
奥には伏見櫓と十四間櫓が見えています。

伏見櫓と十四間櫓。

坂下門。
現在は宮内庁の正門になっています。

往時は櫓が建っていたであろう石垣。
濠は蛤濠です。
ここから右方向へ150mほどで桔梗門にたどり着き、内堀一周となります。

江戸城トップページへ戻る

大田道灌が江戸城を築城した際には築土神社が置かれていました。徳川家康が入府すると北の丸が造営され、関東代官加藤清成らの屋敷が置かれ、代官町と呼ばれました。明暦の大火後しばらくは火避け地となっていましたが、吉宗の時代には田安徳川家、清水徳川家が屋敷を構えました。明治維新後は、近衛師団の兵営地として利用され、昭和44年(1969)からは北の丸公園となっています。

竹橋から見た清水濠。
濠の上を首都高速がとおり、そのまま北の丸を貫いています。

日産プリンス東京付近から見た清水濠。

北の丸の北東の入り口である清水門。

清水門前から見た牛ヶ淵。
奥に日本武道館が見えます。

北の丸公園内に立つ吉田茂像。

日本武道館前から見た北の丸の様子。

北の丸の北の入り口である田安門。

田安門前から見た千鳥ヶ淵。

江戸城トップページへ戻る

江戸城主要部の南東に築かれた曲輪です。元は江戸湾とつながる日比谷入江でしたが、徳川家康入城後には江戸城拡張工事の残土を利用して入り江は埋め立てられ、会津松平家の上屋敷や幕閣の屋敷が並びました。明治維新後は皇室苑地となっていましたが、戦後、昭和24年(1949)に国民公園皇居外苑として開放され現在に至っています。

和田倉門と和田倉橋。
濠は和田倉濠です。

桔梗門前から見た皇居前広場。

桜田門前から見た凱旋濠。
元は日比谷濠の一部でしたが、明治39年(1906)に日露戦争勝利を記念して凱旋道路が造られた際、祝田橋によって日比谷濠が東西に分断され、祝田橋から西の濠は凱旋濠と呼ばれるようになりました。

外苑の南東隅に立つ楠木正成像。

楠木正成像付近から見る外苑。

祝田橋から見た日比谷濠。

祝田橋。
もともとこちら側に虎口はありませんでしたが、明治39年(1906)に日露戦争勝利を記念した凱旋道路が造られた際に造られました。

日比谷交差点付近から見た日比谷濠。

馬場先門。
手前の濠は馬場先濠。

江戸城トップページへ戻る

江戸城の中心部です。明治から戦前までは宮内省や皇室関連の施設がありました。昭和35年(1960)に本丸・二の丸・三の丸の一部を皇居付属庭園として整備することが決まり、昭和43年(1968)に完成・公開されています。

大手高麗門。

大手門渡櫓。
往時のものは大戦で焼失しましたが、昭和42年(1967)に再建されています。

大手門の枡形内に置かれている旧渡櫓の鯱。
明暦の大火で焼け落ちた渡櫓を再建したときのものです。

三の丸を大手下乗門前からみたところ。
現在の三の丸には皇宮警察本部と宮内庁病院が置かれており、一般公開されているのは大手門から大手下乗門までの範囲に限られています。

大手下乗門。
ここから先はどんな大大名でも乗り物を降りなければなりませんでした。

大手下乗門の枡形内に設けられた同心番所。
同心が詰め、主に登城する大名の監視に当たっていました。

大手下乗門を抜けた先、中之門前に設けられた百人番所。
鉄砲百人組みと呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の各100名の同心が、昼夜交代で在番していました。

百人番所前から二の丸方向を見たところ。

本丸へと続く中之門を百人番所前から見たところ。
このあたりの石垣は、ひとつの石の高さが1mくらいあります。

中之門をくぐったところに設けられた大番所。
ほかの番所よりも高い位の与力・同心が詰めていました。

大番所から坂を登ったところに設けられた中雀門を本丸側から見たところ。

本丸の南端に建つ富士見櫓。
本丸地区に残る唯一の櫓で、天守の焼失後は、天守の代わりとされていました。
普段一般公開されている範囲からは、正面からの姿は見られません。

松の廊下跡。
廊下に沿った襖戸に松の絵が描かれていたことからこの名で呼ばれています。
元禄14年(1701)の浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件の舞台として知られています。

本丸展望台から白鳥濠を見下ろしたところ。
この展望台は台所櫓が建っていました。

唯一残る多門櫓である富士見多門。
半蔵濠と半蔵門の名は、このあたりに服部半蔵の屋敷があったことに由来しています。

石室。
抜け穴や金蔵かといわれたこともありましたが、実際は有事の際に大奥の大事なものをしまっておくためのものと考えられています。

本丸の北部に設けられた天守台。
最初の天守は慶長12年(1607)に徳川秀忠の代に建てられました。その後大修築を受け、寛永15年(1638)、徳川家光の代に5層6階高さ58mの日本最大の天守が建てられました。しかし、明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)の飛び火により焼失。家光の弟である保科正之の反対もあり、以後天守が再建されることはありませんでした。

天守台には火災の跡(黒く焦げた石垣)が現在も残っています。

天守台から見た本丸。
現在は広々としたスペースですが、往時は殿舎が隙間なく建てられていました。

天守台の北に設けられた北桔橋門高麗門。
渡櫓は失われています。

北桔橋門高麗門には桔橋を動かすための滑車が取り付けられています。

本丸と二の丸をつなぐ梅林坂。
太田道灌が梅を植え、領民を招いて共に愛でたと言われています。

二の丸と三の丸を隔てる天神濠。
かつては平川門付近から桔梗門付近まで濠が続いていましたが、現在は埋め立てられ、平川門付近に残るのみになっています。

平川門付近から見た平川濠。

平川門渡櫓。
竹橋門から侵入した敵を細長い帯曲輪伝いに平川門へ誘導し、ここで迎撃する役目を負っていました。

平川門渡櫓に隣接して設けられた不浄門。
死者と阿呆払いのための門で、生きて阿呆払いを受けてこの門をくぐったのは、浅野内匠頭と奥女中絵島の二人だけと伝えられています。

本丸と二の丸をつなぐ汐見坂。

汐見坂から日比谷方面を見たところ。
道灌の時代にはここから日比谷入江が見えたことが汐見坂の名の由来になっています。

二の丸庭園。
9代将軍徳川家重の時代の庭絵図面を元に復元されています。

二の丸内に建つ諏訪の茶屋。
明治時代に吹上御苑に建てられていたものを移築したものです。

江戸城トップページへ戻る

  • 読み:しながわだいば
  • 別名:-
  • 所在地:東京都港区・品川区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:江戸幕府
  • 文化財指定:国指定史跡(大正15年12月20日)
  • 訪問日:平成23年5月28日、平成26年8月15日

品川台場は、江戸幕府が黒船来襲に備えて江戸湾内に築いた海上砲台群です。ペリーが浦賀に来航した嘉永6年(1853)8月着工。第一~第七までの台場が建造されました(うち第四、第七は未完成)。さらに北東方向に4基の台場が建造される計画でしたが、日米修好通商条約の締結により建造は中止されます。結果、品川台場は一度も火を吹くことなくその役目を終えています。

シーリア前交差点付近の浜辺から見た第三台場。
奥に第六台場が見えます。

第三台場の石積。
武者返しが設けられています。

第三台場東端の土塁上から第三台場内をみたところ。

第三台場を取り囲む土塁。

陣屋跡の礎石。

第三台場の北端に設けられた本来の虎口。

虎口から延びた船着場。

第三台場の西方約250mの海上に設けられた第六台場。
第三台場よりも一回り小さく、形は五角形です。

第三台場土塁上に設けられた砲台のレプリカ。

復元され たかまど跡。

レインボーブリッジから第三台場を見下ろしたところ。

レインボーブリッジから第六台場を見下ろしたところ。
五角形なのがよくわかります。
第六台場は住み着いた野鳥の保護のため、立ち入りが制限されています。

江戸湾上に築かれた海上砲台群です。第一~第七までの台場が築かれましたが、現在は第三と第六台場のみが残されています。