2011年9月アーカイブ

  • 読み:いわむらじょう
  • 別名:霧ヶ城
  • 所在地:岐阜県恵那市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:遠山氏、秋山氏、川尻氏、森氏、田丸氏、大給松平氏、丹羽氏
  • 文化財指定:岐阜県指定史跡(昭和32年12月19日)
  • 訪問日:平成23年7月10日

岩村城は、岩村盆地の東に聳える城山に築かれた城です。岩村城は、文治元年(1185)に源頼朝の重臣であった加藤景廉が遠山荘の地頭に任じられたのに始まり、その子・景朝が岩村に移って遠山氏を名乗り、代々居城しました。

戦国時代になり遠山景任の時代になると、遠山氏は武田氏に攻められるようになりますが、景任の妻・おつやの方の甥である織田信長の救援により武田氏をいったん撃退します。元亀2年(1571)に景任が病没すると、信長はおつやの方を城主とします。翌元亀3年、武田氏配下の秋山信友が岩村城を攻撃。落城寸前に和議が成立し、信友とおつやの方は結婚。信友が岩村城主となります。これに激怒した信長は、天正3年(1575)に岩村城を攻撃。岩村城は落城し、信友とおつやの方は逆磔となりました。

その後川尻秀隆が状主となり、天正10年に武田氏が滅亡すると川尻氏は甲斐へ移封。森長定(蘭丸)が城主となり、長可、忠政と3代にわたり城を近代城郭に改修。慶長5年(1600)に忠政と入れ替えで川中島から田丸直昌が入り城主となります。直昌は同年に起きたの関ヶ原の戦いで西軍に属したため越後へ流罪となり、替わって松平家乗(大給松平氏)が城主となり、岩村藩の祖となります。家乗は城主居館を山上から北西山麓へ移し、城下町を整備しています。寛永15年(1638)に丹羽氏が岩村藩主となりますが、元禄15年(1735)、御家騒動により丹羽氏は越後高柳藩へ減移封。再び大給松平氏が藩主となります。2度目の大給松平氏の時代には、藩校・知新館が創設されています。以後、大給松平氏が明治維新まで岩村藩主を務め、明治6年(1873)に廃城令により岩村城は廃城。城は解体され石垣のみとなりました。

本丸の南西に設けられた出丸。
二重櫓と太鼓櫓、3つの多門が築かれました。

本丸の西・南・東をコの字状に取り囲む帯曲輪。その南の部分。
写真左の切岸の上は本丸、写真右側には南曲輪が連なっています。

帯曲輪の東の部分。

石垣下の道路になっている部分は帯曲輪の東部分。
石垣上の平は東曲輪の一部です。

東曲輪の一番低い平。

三の丸から東曲輪への虎口。

東曲輪から本丸へと続く東口門の石垣。

本丸。
二重櫓と納戸櫓、3つの多門が築かれました。

本丸の一番南は少し高くなっています。

本丸の南東に残る井戸の跡。

本丸の南東の井戸の横には、東曲輪へ続く小さな門がありました。

本丸の西側の石垣。
写真ではわかりづらいですが、2段になっています。
写真右奥には出丸が見えます。

本丸の北に設けられた埋門を本丸側から見たところ。

埋門の一部。
人一人が通り抜けるのがやっとです。

埋門の二の丸側。
ここでは野面積み、打込ハギ、切込ハギの3つのタイプの石垣を同時に見ることができます。

埋門からみた二の丸。
二重櫓、菱櫓、米倉、馬小屋などが築かれました。

二の丸門。

岩村城の見所のひとつ、六段石垣。

三の丸俄坂。
奥に六段石垣が見えます。
写真右の石垣の上には二の丸の菱櫓が築かれていました。

俄坂門。
戦国期はこちらが大手門でした。
近世になると裏門として非常口として使われるようになり、「俄」の名もそこからとられています。

三の丸の北に設けられた八幡曲輪。
岩村城築城と同時に城内鎮守として八幡神社が祀られていました。

大手門から俄坂門への坂の脇にある霧ヶ井。
城主専用の井戸でした。
今も水を湛えています。

大手門から俄坂門へ続く坂道。

大手門から入ったところ。

大手門。
写真左の石垣から中央の石垣へ、橋板の取れる畳橋が架けられていました。
写真右奥に見える石垣には三重櫓が建てられていました。

大手門の下に設けられた土岐門。
遠山氏が土岐氏を破った際にその城門を移築したことからその名がついています。
土岐門は廃城時に岩村町飯羽間にある徳祥寺へ山門として移築されています。
ここから一の門までは土岐坂と呼ばれています。

本城への入口となる一の門。
ここから上が土岐坂、下が藤坂と呼ばれています。

藤坂。
藤坂の名は、加藤景廉の妻・重の井が紀州から藤の実を取り寄せて植えたことに由来するといわれています。

藤坂の石畳に設けられた排水施設。

南曲輪

岩村城は、中世に峻険な地形を巧みに利用して築かれた山城でした。近世に森氏によって石垣等が築かれ現在見られるような近世城郭となりましたが、戦国期の城塞の一部は改修されずに放棄されました。南曲輪は放棄された戦国期の遺構の一部で、堀切、土塁、土橋等がよく残されています。

南曲輪に残る曲輪。

土橋が残っているのが分かります。
奥は本丸を取り囲む帯曲輪の南部分。

岩村盆地の東に聳える城山に築かれた山城です。備中松山城、高取城とともに日本三大山城のひとつで、日本100名城にも選定されています。

  • 読み:なえぎじょう
  • 別名:赤壁城、高森城
  • 所在地:岐阜県中津川市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:遠山氏、川尻氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和56年4月22日 )
  • 訪問日:平成23年7月10日

苗木城は、大永年間(1521~1527)に遠山昌利によって築かれた城です。それまで苗木遠山氏の本拠は居館程度のものでしたが、木曽川の北岸に聳える小高い山に本拠が移され、山城が築かれました。

昌利の跡を継いだ景徳には後嗣がなかったため、同じ遠山氏族の岩村城主・遠山景前の次男(三男とも)の直廉を養子とし家督を継がせます。元亀3年(1572)、岩村城が武田氏配下の秋山信友によって奪われると、直廉はそれまで協力関係にあった織田信長を見限り武田氏に鞍替え。これをきっかけに織田氏同盟者の三木氏との間で合戦が起こります。直廉は三木氏を破ったものの戦傷がもとで病没。苗木遠山氏はいったん途絶えます。その後、織田信長は同じ遠山氏族の飯羽間城城主・遠山友勝を苗木城に入れ、苗木遠山氏を継がせます。

天正3年(1575)、長篠の合戦で武田氏を破った織田信長は、秋山信友に奪われたままの岩村城を奪還し川尻秀隆を城主に据え、苗木遠山氏はその指揮下に入ります。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、川尻氏は甲斐へ移封。替わって森蘭丸が岩村城に入り苗木遠山氏はその指揮下に入ります。同年6月、本能寺の変によって信長が横死すると、苗木遠山氏は徳川家康へ接近。その後羽柴秀吉と徳川家康の間で合戦が起こると、苗木城は羽柴軍によって落城。苗木遠山氏は家康を頼って落ち延び、慶長4年(1599)替わって甲斐に移封となっていた川尻氏が苗木城に入ります。翌慶長5年、関ヶ原の戦いでは川尻氏は西軍に、苗木遠山氏は東軍に属し、苗木遠山氏は苗木城を奪還します。この功により、家康より苗木一万石を与えられ、苗木藩遠山氏は明治維新まで存続しました。

駐車場からの入口。
石垣が緩やかな曲線を描いていますが、往時からのものなのかはわかりません。

入口の緩やかなカーブを曲がりきったところに設けられた足軽屋敷。

足軽屋敷の奥にある龍王院跡。

足軽屋敷付近から本丸方向へ続く通路。

本丸方面への通路に残された排水施設のような遺構。

巨岩と石垣を組み合わせていることがわかります。

通路から見た本丸の岩山。
険しい岩山に造られている事がわかります。

三の丸への入口になっている風吹門。
城主在城時のみ開放されました。

風吹門をくぐって左手に設けられた大矢倉。
二層三階の矢倉が建っていましたが、石垣の形状から相当複雑な形だったと思われます。

大矢倉の石垣の上から三の丸を見たところ。
奥に本丸の岩山が塔のように聳えています。

三の丸の東の入口である駆門。
枡形の石垣が残っています。

三の丸から本丸へと続く大門。

大門の脇の設けられた御朱印倉の跡。
幕府から下賜された貴重な品が保管されていました。

年貢として納められた真綿が二階に納められていたことからその名がついた綿倉門。
夕方七つ時(午後4時)には門が締め切られ、本丸へ進むことはできませんでした。

綿倉門から二の丸を見下ろしたところ。
二の丸には城主の居館が築かれました。

坂下門。

菱櫓門。

本丸口門付近から見た本丸の石垣。
石垣下の屋根がかかっているところは千石井戸の跡です。

本丸の石垣の下に設けられた的場。

本丸口門。
総欅だったことから欅門とも呼ばれました。

本丸口門をくぐったところに設けられた具足蔵。

具足蔵の隣に設けられた武器蔵。
具足蔵、武器蔵ともに縁石や礎石が残されています。

武器蔵から見上げた復元天守建物。

笠置矢倉。
往時は何も置かれず、笠置山が正面に見えることからその名がつきました。

天守の南にある馬洗岩。
この上で米を流して馬を洗い、遠くから城の様子を伺う敵に水が豊富だと思わせていたという、山城にはよくある言い伝えが残っています。

玄関口門。
通常は鍵がかけられ、ここから中への立ち入りは禁じられていました。

本丸。

本丸に残る天守台。
二つの巨石にまたがる三層の天守が築かれていました。

三階床面部分が復元された天守建物。
岩に柱が立てられています。

天守台から見る三の丸の大矢倉。

天守台から見る中津川市街と木曽川の流れ。
遠くには恵那山が見えます。

木曽川北岸の城山に築かれた城です。岩山の巨石の隙間に石垣を積んで平地を確保し、独特の景観を作り出しています。

  • 読み:のじりじょう
  • 別名:琵琶島城
  • 所在地:長野県上水内郡信濃町(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:芋川氏、高梨氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成23年9月18日

野尻城は、野尻湖に浮かぶ琵琶島に築かれた野尻城と、野尻湖北岸の尾根上に築かれた野尻新城の総称です。南北朝時代には文献に登場し、中世には沼尻の芋川氏に属し、南北朝時代になると信濃守護によって管理されました。室町時代になると現在の中野市に拠点を置く高梨氏の支配下に入りました。高梨氏が越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼るようになると、野尻城は上杉氏の武田氏に対する前線基地の役目を負い、永禄年間(1558~1570)には両者の間で争奪戦が繰り広げられました。この最中、上杉氏は野尻城を拡張し北岸の尾根上に野尻新城を築き、以後、城の中心はそちらへと移っていきました。

野尻湖北岸から見た琵琶島の野尻城。
北岸から琵琶島までは300mほどです。

琵琶島には宇賀神社が祀られています。
その歴史は古く、天平2年(730)に沼尻村の産土神として創建されたとも伝えられています。

第二鳥居をくぐったところに設けられた琵琶島の西曲輪。

西曲輪と東曲輪を隔てる堀切。
島のほぼ中央で城を東西に分けています。

東曲輪。
奥には宇賀神社の社殿が建てられています。

東曲輪内の宇佐美定行の墓。
長尾政景が上杉謙信に対して異心を抱いていることを察知し、政景を野尻湖の舟遊びに誘い出して自分もろとも湖底に沈めたとされる架空の武将です。
ここには定行の具足が埋められ、経塚が設けられたと伝えられています。

野尻湖北岸から見た野尻新城(写真中央の小高い山)。

野尻湖に浮かぶ琵琶島と野尻湖北岸の尾根上に築かれた城です。戦国時代には上杉氏の前線基地の役目を負い、上杉氏と武田氏の間で争奪戦が繰り広げられました。