岩村城

  • 読み:いわむらじょう
  • 別名:霧ヶ城
  • 所在地:岐阜県恵那市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:遠山氏、秋山氏、川尻氏、森氏、田丸氏、大給松平氏、丹羽氏
  • 文化財指定:岐阜県指定史跡(昭和32年12月19日)
  • 訪問日:平成23年7月10日

岩村城は、岩村盆地の東に聳える城山に築かれた城です。岩村城は、文治元年(1185)に源頼朝の重臣であった加藤景廉が遠山荘の地頭に任じられたのに始まり、その子・景朝が岩村に移って遠山氏を名乗り、代々居城しました。

戦国時代になり遠山景任の時代になると、遠山氏は武田氏に攻められるようになりますが、景任の妻・おつやの方の甥である織田信長の救援により武田氏をいったん撃退します。元亀2年(1571)に景任が病没すると、信長はおつやの方を城主とします。翌元亀3年、武田氏配下の秋山信友が岩村城を攻撃。落城寸前に和議が成立し、信友とおつやの方は結婚。信友が岩村城主となります。これに激怒した信長は、天正3年(1575)に岩村城を攻撃。岩村城は落城し、信友とおつやの方は逆磔となりました。

その後川尻秀隆が状主となり、天正10年に武田氏が滅亡すると川尻氏は甲斐へ移封。森長定(蘭丸)が城主となり、長可、忠政と3代にわたり城を近代城郭に改修。慶長5年(1600)に忠政と入れ替えで川中島から田丸直昌が入り城主となります。直昌は同年に起きたの関ヶ原の戦いで西軍に属したため越後へ流罪となり、替わって松平家乗(大給松平氏)が城主となり、岩村藩の祖となります。家乗は城主居館を山上から北西山麓へ移し、城下町を整備しています。寛永15年(1638)に丹羽氏が岩村藩主となりますが、元禄15年(1735)、御家騒動により丹羽氏は越後高柳藩へ減移封。再び大給松平氏が藩主となります。2度目の大給松平氏の時代には、藩校・知新館が創設されています。以後、大給松平氏が明治維新まで岩村藩主を務め、明治6年(1873)に廃城令により岩村城は廃城。城は解体され石垣のみとなりました。

本丸の南西に設けられた出丸。
二重櫓と太鼓櫓、3つの多門が築かれました。

本丸の西・南・東をコの字状に取り囲む帯曲輪。その南の部分。
写真左の切岸の上は本丸、写真右側には南曲輪が連なっています。

帯曲輪の東の部分。

石垣下の道路になっている部分は帯曲輪の東部分。
石垣上の平は東曲輪の一部です。

東曲輪の一番低い平。

三の丸から東曲輪への虎口。

東曲輪から本丸へと続く東口門の石垣。

本丸。
二重櫓と納戸櫓、3つの多門が築かれました。

本丸の一番南は少し高くなっています。

本丸の南東に残る井戸の跡。

本丸の南東の井戸の横には、東曲輪へ続く小さな門がありました。

本丸の西側の石垣。
写真ではわかりづらいですが、2段になっています。
写真右奥には出丸が見えます。

本丸の北に設けられた埋門を本丸側から見たところ。

埋門の一部。
人一人が通り抜けるのがやっとです。

埋門の二の丸側。
ここでは野面積み、打込ハギ、切込ハギの3つのタイプの石垣を同時に見ることができます。

埋門からみた二の丸。
二重櫓、菱櫓、米倉、馬小屋などが築かれました。

二の丸門。

岩村城の見所のひとつ、六段石垣。

三の丸俄坂。
奥に六段石垣が見えます。
写真右の石垣の上には二の丸の菱櫓が築かれていました。

俄坂門。
戦国期はこちらが大手門でした。
近世になると裏門として非常口として使われるようになり、「俄」の名もそこからとられています。

三の丸の北に設けられた八幡曲輪。
岩村城築城と同時に城内鎮守として八幡神社が祀られていました。

大手門から俄坂門への坂の脇にある霧ヶ井。
城主専用の井戸でした。
今も水を湛えています。

大手門から俄坂門へ続く坂道。

大手門から入ったところ。

大手門。
写真左の石垣から中央の石垣へ、橋板の取れる畳橋が架けられていました。
写真右奥に見える石垣には三重櫓が建てられていました。

大手門の下に設けられた土岐門。
遠山氏が土岐氏を破った際にその城門を移築したことからその名がついています。
土岐門は廃城時に岩村町飯羽間にある徳祥寺へ山門として移築されています。
ここから一の門までは土岐坂と呼ばれています。

本城への入口となる一の門。
ここから上が土岐坂、下が藤坂と呼ばれています。

藤坂。
藤坂の名は、加藤景廉の妻・重の井が紀州から藤の実を取り寄せて植えたことに由来するといわれています。

藤坂の石畳に設けられた排水施設。

南曲輪

岩村城は、中世に峻険な地形を巧みに利用して築かれた山城でした。近世に森氏によって石垣等が築かれ現在見られるような近世城郭となりましたが、戦国期の城塞の一部は改修されずに放棄されました。南曲輪は放棄された戦国期の遺構の一部で、堀切、土塁、土橋等がよく残されています。

南曲輪に残る曲輪。

土橋が残っているのが分かります。
奥は本丸を取り囲む帯曲輪の南部分。

岩村盆地の東に聳える城山に築かれた山城です。備中松山城、高取城とともに日本三大山城のひとつで、日本100名城にも選定されています。