苗木城

  • 読み:なえぎじょう
  • 別名:赤壁城、高森城
  • 所在地:岐阜県中津川市(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:遠山氏、川尻氏
  • 文化財指定:国指定史跡(昭和56年4月22日 )
  • 訪問日:平成23年7月10日

苗木城は、大永年間(1521~1527)に遠山昌利によって築かれた城です。それまで苗木遠山氏の本拠は居館程度のものでしたが、木曽川の北岸に聳える小高い山に本拠が移され、山城が築かれました。

昌利の跡を継いだ景徳には後嗣がなかったため、同じ遠山氏族の岩村城主・遠山景前の次男(三男とも)の直廉を養子とし家督を継がせます。元亀3年(1572)、岩村城が武田氏配下の秋山信友によって奪われると、直廉はそれまで協力関係にあった織田信長を見限り武田氏に鞍替え。これをきっかけに織田氏同盟者の三木氏との間で合戦が起こります。直廉は三木氏を破ったものの戦傷がもとで病没。苗木遠山氏はいったん途絶えます。その後、織田信長は同じ遠山氏族の飯羽間城城主・遠山友勝を苗木城に入れ、苗木遠山氏を継がせます。

天正3年(1575)、長篠の合戦で武田氏を破った織田信長は、秋山信友に奪われたままの岩村城を奪還し川尻秀隆を城主に据え、苗木遠山氏はその指揮下に入ります。天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、川尻氏は甲斐へ移封。替わって森蘭丸が岩村城に入り苗木遠山氏はその指揮下に入ります。同年6月、本能寺の変によって信長が横死すると、苗木遠山氏は徳川家康へ接近。その後羽柴秀吉と徳川家康の間で合戦が起こると、苗木城は羽柴軍によって落城。苗木遠山氏は家康を頼って落ち延び、慶長4年(1599)替わって甲斐に移封となっていた川尻氏が苗木城に入ります。翌慶長5年、関ヶ原の戦いでは川尻氏は西軍に、苗木遠山氏は東軍に属し、苗木遠山氏は苗木城を奪還します。この功により、家康より苗木一万石を与えられ、苗木藩遠山氏は明治維新まで存続しました。

駐車場からの入口。
石垣が緩やかな曲線を描いていますが、往時からのものなのかはわかりません。

入口の緩やかなカーブを曲がりきったところに設けられた足軽屋敷。

足軽屋敷の奥にある龍王院跡。

足軽屋敷付近から本丸方向へ続く通路。

本丸方面への通路に残された排水施設のような遺構。

巨岩と石垣を組み合わせていることがわかります。

通路から見た本丸の岩山。
険しい岩山に造られている事がわかります。

三の丸への入口になっている風吹門。
城主在城時のみ開放されました。

風吹門をくぐって左手に設けられた大矢倉。
二層三階の矢倉が建っていましたが、石垣の形状から相当複雑な形だったと思われます。

大矢倉の石垣の上から三の丸を見たところ。
奥に本丸の岩山が塔のように聳えています。

三の丸の東の入口である駆門。
枡形の石垣が残っています。

三の丸から本丸へと続く大門。

大門の脇の設けられた御朱印倉の跡。
幕府から下賜された貴重な品が保管されていました。

年貢として納められた真綿が二階に納められていたことからその名がついた綿倉門。
夕方七つ時(午後4時)には門が締め切られ、本丸へ進むことはできませんでした。

綿倉門から二の丸を見下ろしたところ。
二の丸には城主の居館が築かれました。

坂下門。

菱櫓門。

本丸口門付近から見た本丸の石垣。
石垣下の屋根がかかっているところは千石井戸の跡です。

本丸の石垣の下に設けられた的場。

本丸口門。
総欅だったことから欅門とも呼ばれました。

本丸口門をくぐったところに設けられた具足蔵。

具足蔵の隣に設けられた武器蔵。
具足蔵、武器蔵ともに縁石や礎石が残されています。

武器蔵から見上げた復元天守建物。

笠置矢倉。
往時は何も置かれず、笠置山が正面に見えることからその名がつきました。

天守の南にある馬洗岩。
この上で米を流して馬を洗い、遠くから城の様子を伺う敵に水が豊富だと思わせていたという、山城にはよくある言い伝えが残っています。

玄関口門。
通常は鍵がかけられ、ここから中への立ち入りは禁じられていました。

本丸。

本丸に残る天守台。
二つの巨石にまたがる三層の天守が築かれていました。

三階床面部分が復元された天守建物。
岩に柱が立てられています。

天守台から見る三の丸の大矢倉。

天守台から見る中津川市街と木曽川の流れ。
遠くには恵那山が見えます。

木曽川北岸の城山に築かれた城です。岩山の巨石の隙間に石垣を積んで平地を確保し、独特の景観を作り出しています。