2011年12月アーカイブ

寛永年間(1624~1644)までは将軍家の鷹狩の場でした。芦原が広がるこの地に初めて屋敷を建てたのは、4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重で、承応3年(1654)、将軍から許可をもらって海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を築きました。綱重の子の綱豊(家宣)が6代将軍となると、甲府浜屋敷は将軍家の別邸となり、浜御殿と改められます。その後歴代将軍によって幾度か整備が行われ、11代将軍家斉の時にほぼ現在見られる形となりました。明治維新後は皇室の離宮となり、名前も浜離宮と改められます。昭和20年(1945)に東京都に下賜され、翌昭和21年に一般公開されています。

浜離宮北端の大手門橋。

大手門橋から見た築地川。

大手門枡形。

大手門。

大手門をくぐった先、築地川に面する所には土塁が設けられているのが見えます。

内堀。

内堀広場。

浜離宮東端の灯台跡。
周りにビルもなく、隅田川の埋め立ても進んでいなかった時代に東京湾に灯りを点していました。

灯台跡から見る東京湾。

灯台跡のそばにある将軍お上がり場。
将軍が船に乗り降りする場でした。

水門。
ここから潮入の池に海水を取り入れています。

樋の口山。

横堀。
水門から取り入れた海水が潮入の池まで繋がっています。

海手茶屋跡。

横堀にかかる海手お手伝い橋。

庚申堂鴨場。
小のぞきから鴨の様子を伺いながら土手の陰から網ですくい取るという猟を行っていました。

潮入の池。
東京都内に残る唯一の海水の池です。

馬場跡。

延遼館跡。
明治2年(1868)に落成した日本最初の洋風建築で、迎賓館としても用いられました。

中の御門。

中の御門橋から東側を見たところ。

中の御門橋から西側を見たところ。

浜離宮の南西を流れる汐止川。

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  • 読み:なごやじょう
  • 別名:金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
  • 所在地:愛知県名古屋市中区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:尾張徳川氏
  • 文化財指定:国指定特別史跡(昭和27年3月29日)
  • 訪問日:平成23年11月12日

名古屋城は、庄内川南岸の平地に築かれた城で、大永年間(1521~1528)に今川氏親によって尾張進出の拠点として築かれた那古野城がその前身とされています。天文元年(1531)、勝幡城の織田信秀によって城は奪われ、以後は織田氏の城となりました。信長が生まれると、信秀は幼い信長に那古野城を譲り、自身は古渡城を築いて移りました。天文20年(1551)に信秀が没すると、信長は織田氏の家督を継ぎ、天文24年(1555)に一族の織田信友を滅ぼして清洲城へと移ります。その後の那古野城には信長の叔父の信光や重臣の林秀貞らが入りますが、まもなく廃城となっています。その後は荒野となっていましたが、慶長14年(1609)、徳川家康が九男義直のために天下普請によって名古屋城の築城を始めます。以後は徳川御三家のひとつ尾張徳川家17代の居城として明治まで存続しました。

明治になると名古屋城には東京鎮台第三分営(後に第三師団に改組)が置かれます。明治26年(1893)には本丸が陸軍省から宮内省へ移管され、名古屋離宮となります。名古屋離宮は昭和5年(1930)に廃止され、以後は恩師元離宮として一般に公開されました。太平洋戦争では昭和20年(1945)の空襲により天守や本丸御殿などが焼失。天守は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで外観復元され、平成23年(2011)現在、本丸御殿を再建中です。

正門前の土橋。

正門前の土橋から見た西側の外堀。

正門。
往時は榎多御門と呼ばれていましたが、明治43年(1910)に江戸城蓮池門を移築して正門と改称されました。
昭和20年(1945)に空襲により焼失し、戦後再建されています。

正門の脇にある通用門のような門。

正門をくぐったところから見た西の丸。
往時は郭内に多くの米倉が建てられていました。
平成23年11月現在、写真左手の建物の中で西南隅櫓(現存)の修復が行われていました。

西の丸から見た大天守。

西の丸には大天守の金の鯱(レプリカ)が展示されています。

大手馬出跡。
往時は西の丸と二の丸との間に堀が設けられていましたが、離宮時代に埋められています。

本丸に続く表二の門(現存)。

表二の門から見た内堀。
現在は空堀となっていて、堀の底では鹿が放し飼いにされています。

表二の門をくぐったところから見た東南隅櫓(現存)。

平成23年11現在、本丸御殿を復元中です。

大天守と小天守。

本丸東二の門。

本丸東二の門の枡形内にある名古屋城最大の石・清正石。
清正が運んだといわれていますが、実際にこの場所の工事を担当したのは黒田長政でした。

本丸東二の門の先は二の丸へと続いています。

御深井丸へと続く不明門。
昭和20年(1945)の空襲で焼失し、戦後再建されています。

不明門の土橋から見た内堀。

御深井丸に並べられた天守礎石。
天守再建工事の際に取り除かれたものです。

御深井丸から二の丸へと続く門。

御深井丸の西北端に建つ西北隅櫓(現存)。
清洲城の天守または小天守を移築したものとも伝えられるため清洲櫓とも呼ばれています。

西北隅櫓付近から見た外堀。

御深井丸内に建つ乃木倉庫。
乃木希典が名古屋鎮台在任中に建てられたことからその名がついています。

御深井丸に残る土塁。

御深井丸と西の丸の間に入り込んだ堀・鵜の首。
名古屋城にはこのような入江状の堀が多く造られました。

大手馬出から二の丸へ続く通路。

大手馬出から二の丸へ入ったところに立つ清正公石曳きの像。

清正公石曳きの像付近から見た東南隅櫓。

二の丸。
戦国時代の那古野城は現在の名古屋城二の丸に築かれていました。

二の丸から見た本丸東二の門。

緊急時の避難用に設けられた埋門。
ここから堀へ降りる階段が設けられていました。

二の丸東門。

二の丸大手二の門(現存)。

尾張徳川家61万9500石の居城です。大天守に載る金の鯱が広く知られ、金鯱城とも呼ばれています。

  • 読み:こばやしじょう
  • 別名:-
  • 所在地:愛知県名古屋市中区(Mapionで位置を確認)
  • 主要城主:牧氏
  • 文化財指定:-
  • 訪問日:平成23年11月13日、平成26年7月12日

小林城は、新堀川の西岸の平地に築かれた城です。天文17年(1548)に織田信秀が末森城へ移った際、尾張守護職斯波氏の一族である牧長義が築城し、守山の川村城から移り住んで前津小林4000石を領したとされています。長義とその子・長清が在城し、長清の死後に廃城となりました。廃城後は、尾張藩2代藩主徳川光友の剣術師範を務めた柳生新陰流の達人柳生兵庫が屋敷を構え、元禄14年(1701)には徳川家累代の祈願所として清浄寺が建立され、現在に至っています。

清浄寺の東参道入口。
小林城についての説明版が立っているほかは、城の遺構は確認できません。
清浄寺境内には牧長清の墓があります。

清浄寺境内。

新堀川西岸に築かれた牧氏の城です。城の規模はさほど大きくなく、館程度のものだったと考えられています。現在は矢場地蔵尊として知られる清浄寺の境内になっています。